099_とりとめなく、
とりとめもなく、ぼんやりと、無意識に近い感覚で、何か没頭するようなやり口で、世界を創造する方が自然なのではないかなとか、いや恣意的に創造すると、もはや作った瞬間に完成してしまうという本末転倒なことになるからであり?
いや完成して良いのか?という疑問はあるなぁ、何度も考えるけれども最初から完全無欠のパーフェクトな如何にもならない、いじる必要のない世界を作るとして、それの何が悪いのか?
いや悪くはないよね、良くもないけれど。フラットではあるんだよなぁ、全てにおいて何ものもが幸せになっている世界ですよ、誰も不幸にならない、満ち足りて、過不足なく、これ以上はないという状況やら環境しかないわけです。
もちろん停滞という言葉は知っていますが、最高に到達してしまっている、完璧を成してしまっているのであるならば、そこから動く必要があるのでしょうか?という根本的な問いが生まれそうではあり、いやもう、ゴールしてしまえばいいんじゃないかという言い方もできるのか?
何が幸せなのかを世界が規定しておいて、それしかないようにしてしまえば、全てのものは存在は、幸せでしかないというロジックではあるんよな、ただただ、幸せであるという印象というか感情というか評価が延々と永遠に続くわけですよ、これはまあそこに存在するものたちとっては、とても素晴らしいものであるということになるんじゃないかな?とか思うことは思うんだよなぁ。
自由がないことは不幸せではないのか?
という問いも生まれるわけではあるものの、自由というものの定義を設定してしまえばそれほど問題はなさそうではあり、逆に自由に行動していると自信が自覚していて問題が発生しなければ幸せなままではないかとも言えるし、そもそも自由は幸せに関係ないという法則にしてしまえば、何も考えなくとも、完成してしまうわけではあるか。
定義から決定できるのが創造神であるならば、それは可能であるというか、可能すぎるわけであり、では何が問題であるのかというならば、多様性とかになるのであろうか?
いやまあ、多様性というものは生存戦略である要因ではあるけれども、そもそも存在の永続性、普遍性がそう決めれているのであるならば、実のところ生存戦略そのものがいらないわけではありまして。
幸せしか感じない生き物をとか存在しかいない世界を作れは良いという話ではあるのか、いやそれは目的が何であるのかによるけれども、完璧な世界という、定義がそれぞれにある、一つではない可能性はこれは普通に高いわけか。
求める世界は一つではないというか、その時々で完璧さの質が変わってしまっているということでもあるのか、絶対的な完璧はないということでもあるんかな?
そうみたいな気がするんよな。




