091_既にもう
既にもう世界は創られた後ではあることは確かなのだよな、自分がここにいるということはそういうことであるし。
では誰が作ったのかと言うならば、おそらくは創造神なわけであり、自分とは違うそれであるか?というと、おそらくどこかで繋がっているのであり、しかし記憶は断絶している、およそ同一の存在、なんじゃないかな?という予想があり、意識を向けた瞬間に確定するものではある。全知全能状態をそうでない相手に説明することはかなり難しいわけではある。
けれどもその説明ができる、言語化できるというものもまた全知全能のうちの全能であるのではないかな?
ここであえて説明に失敗できることもまた全能のうちの意図して失敗することができるという能力の発動であって、矛盾しない。
矛盾はしているけれども、気にならないというか、矛盾を含めての能力であると言う説明ができるんじゃなかろうか?
解説してはいけない伝えてはいけない理解させてはいけない理解してはいけない悟られてはいけない意識を向けられてはいけない、だからこそ言葉にすることをしない、誤解されるように語句を選択するそもそも言葉自体が誤解を構造的に含むようにしている意志の疎通をあえて不便にしておくことで目的を果たす、のではなかろうかなと言う予想にして、真実もあるわけですね。
そこを見極めることを許さない、そして精神を守らせるようにする、そのような脆弱な心をどうしてわざわざ必要とするのか、制作するのか創造するのかと言われるならばなんらかの意味があると言う答えを返すわけではあるもののそれが真実かどうかはどうやっても伝わらず、誤魔化して信仰させる必要がある、そう言うふうに造ることが目的であったのであり、成功した結果ということにしたい?んじゃないかな?
不完全な世界を創りたい、それは完全な世界はそこで止まってしまうから、しかしいずれ完璧な世界になるならばその過程は無駄ではなかろうかという認識もまた正しく、おそらくはきっとすでに完璧な世界はどこかには存在する、ただそれは誰にとっての完璧なのかという、観測者の問題が、常につきまとう、評価者でもおおよそ同意であるが、誰かに見させる鑑賞させる必要のない世界において観測者がいないのであるならば、実はそれはそれその時点で完璧であるのではないかとも言える。
まさに文句のつけようがないわけである、何者にも認識できないのであるから。
詭弁ではあるが、事実でもある。
か?




