007_自分が何者であるかを、
自分が何者であるのかを、作られた、創作物、想像上の、物語に登場する非実在の存在である、ということを知った上で、どう行動するのが正しいのか、というか行動できるのか、現実感がなくなってしまうって、どうしようもないというか、虚無的な感情に支配されて、自暴自棄になってしまう、ことになるのではなかろうかという、いやまあ、よくある流れに持ち込む可能性はあるな。
幼女神様です、引き続き、どうしようもない思考にはまり込んでいる流れで進むお話です。
いやまあ、目の前で、どうしろというのだ、という顔をしている、さらには口にもしている、転生か転移かを決めかねている人物、16歳の少年と、こう顔を見合わせて首を捻っているのであるが。
とりあえず、座ろうか、椅子くらいは用意しておこう、こう、木製のいいやつだな、パイプ椅子と、折り畳み机ではどうも雰囲気は出ないだろう。
いや腰を落ち着けて話をするのかと言われるとどうなんだろう?
自己存在定義というか、そういうものを突き詰めて話すというあたりで、目の前に神様がいるというシュチュエーションって、結構、キワモノではないかなというか、自分よりは超常的な存在がいる上で、自己存在について語るというか思考するという状況が既に終わっているのではないかと、目の前の神様に聞けよ、みたいな?
いやその神様もまた自分がなぜ存在しているかの理屈というか成り立ちというか、原因というかそういうものがわかっていないわけではあり、全知全能ではないのかよというツッコミに対しては、知っているものしか知らない程度の存在なのであるよ、と答えるのが格好良いのかもしれず?
自分が小説やら漫画やらアニメやら、創作物の登場人物であるかないかを、その登場している作品の中から証明することは難しいのではないかという話になるのではあるけれども、そこは確かであると、同じく作られた神様であるところの私が保障しておくという、カオスな現状が作られる、のであろうかなとか。
実のところ、この物語から離れれば、元の現実の、実存する存在に戻っていき、今までの行動が全部お芝居というかフィクションである虚構であることがわかるということが、神様自身によって証明されている、わけではあるが、それを信じることができるかどうかは別問題であるし。
虚構であっても実際に、喜怒哀楽やら肉体的な快不快を感じられる、それに通じる記憶もまた連続している、このリアル感を否定することもまたできないというか、それにまつわる感覚があることは、また別問題ではないか?
本物と区別がつかないくらいに感じられる偽物であるならば、
それは本物ではないのか?




