005_演劇的解釈で、
俳優が舞台で演技するように、役と実在のそれは違うという見方もできるのかなとか、創作物で色々とやっている、役割を強制されている、こちらの思惑通りに、シナリオ通りに動かしている対象は、実のところ、そういう演技をしている役者さんに過ぎず、そこでの喜劇やら悲劇やらは、実際には発生していない。
というのはどうだろう?
つまりは、そういう役割を与えられているものがその瞬間だけそう振る舞うだけであり、それを見たり聞いたり感じたりしている観客を楽しませるために動いているのであり、偽物であるので、どう扱っても本人も納得しているので問題ないという、見たで、どうだろう?
いやまあ、迫真の演技というか、神様が遊んでいる?物語の中にいる間は、それが実存するかのよう、振る舞っているので、虚構感とかは皆無であるとかなんとか、ようは現実味があって、感情移入がしやすいようにしなければならないという制約はあるけれども。
そのまあその物語のうちではその人物になりきってしまうというかそう変質してしまうそれが現実だと思い込んでしまうように人格や精神やらを調整してしまえば、とてもリアルな出し物になるのではないかなとは思うけれども。
それは現実とは違うのか?という疑問は出てきそうではあるかなと、いやまあ、登場する、行動をする、生きていく、そのような契約を事前にしておいて、その演技の後で、状態を復帰して楽屋からその人格の世界へと帰っていくような、感じにするならば、登場人物の人格も守られるのではないかとか思うんだけど。
つまりは虚構であるということをその演目の間に認識させないけれども全てが終わった、出番が終わった後で、それは演技であったのであるよ、虚構であったのであるよ、非実在であったのであると、とすれば、問題はないのではなかろうかなとか、もちろん事前に、契約内容を吟味して同意を得なければならない、わけではあるけれども。
この場合な嘘であることを知っていて、騙されてくれる読者とか、視聴者とか、観客が必要になるのであるかな、とは思うわけだな。本当にその人物やら登場する存在が酷い目にあっているのではなく、お芝居であるという、ことを踏まえて、それを忘れるようにして、のめり込ませる、そういうお約束を、環境を作らなければならない、ということではないのではなかろうか?
つまりは、こうやってしゃべっている私ことロリ神様も、それを聞いている転生か転移待ちの少年も、実のところ、自分でも覚えていないけれども、事前に契約をした役者にすぎないということになるわけだ。
いやそれを知った上でどう行動すれば良いんだという問題は、確かにあるね。