021_価値を決めるのは、
価値を決めるのは、もちろん自分自身であるわけではあるけれども、何が幸せであるのかを完璧にコントールして決定することができるのであるならば、実は内容はどんなものでも良いのではなかろうかなとか思うわけなんだよな。
多幸感だけが延々と続くような設定をしてしまえば、苦労とか努力とか工夫とか、何かと比較してどうするとか、そういう過程をすっ飛ばして、気持ち良い時間だけが最後まで続いていくわけであり、そしてそれに慣れないような設定にしてしまえば、当面の問題は回避できるわけではある。
何かをなす、その結果、快楽を得る幸福になるということではないのでしょうね、設定を全てこちらの制御化にあるということは、強いていうならば、設定を決めることが何かをなすことになるということではあるのかな?
ただ、幸せな感情とか感覚とか快感とかが続いていくだけの生き方が果たして幸せであるのかという疑問はあるわけではあるけれども、だけども、幸せなのだよなぁ、概念的なそれが常に続いている、そして飽きが来ないということにしてしまえば、何をするまでもない、物語がいらなくなってしまうわけであり、とてもシンプルな解決方法ではなかろうかなとか、いやまあ、それを外から眺めているものの感想としては幸せなのであろうかという疑問が巻き起こる時点で、その幸せまみれな対象は本当に幸せかどうかの疑問が生まれてくるわけではあるが。
それはあり得ないから、夢幻であり、誤魔化しであるから、幸せではないのではないかという疑問が生まれるわけであって、そうではなく現実に、気持ちよさしかなくデメリットもない、求めるべき悦楽がそこにある、ということになったならば、それは認めざるを得ないのではなかろうかな、と思うのだけども。
思考をする快楽を放棄していることに忌避感があるのではなかろうかというか、そこに自我があるのか、自分自身が幸せであると認識しきれるのかという、疑問も出てきそうではあり、いやそこはそれ、自分自身が幸せであるということを全うするような設定にするということで、対応することはできるのではなかろうかなと。
全て好きにできるのであるならば、そうすることが、唯一の解法ではなかろうかなという予想があるのではあるが、これは本当にそうすることができるのかどうかという疑問を解決する必要があるのでありましょうかね?
いや、できるという設定で話を始めているのであるから、そこを否定されると今までの考察はあまり意味のないものではなかろうかという結論が出てくるわけではあるが。
どうだろう、永遠に幸せな気分を味わい続けるというお話は、究極で完璧なハッピーエンドになり得るだろうか?




