「 」ビール
古びた引き戸にのれんの掛かっているお店があった。
周りを見回しても何もない。
いや、ぼやけていて見えないのだ。
不思議なことにその店に誘われるように入っていった。
そこにはバーカウンターがあり、複数のカウンター席があった。
自然と体が動いて、カウンターの席に座った。
周りを見渡すと1人の女性が座っておいしそうにビールを飲んでいた。
「すみません、僕も彼女が飲んでいるビールをください」
とマスターらしき人に言うと申し訳なさそうに
「あれは彼女専用のビールなんですよ。あなた専用のビールがありますのでそれをご用意させていただきます」
と言いながら、ビールサーバーでビールを注ぎ始めた。
ビールを注ぎ始める時、なぜかビールジョッキが気になった。
そのグラスをよく見ると夫婦が映っていてその2人の間にはよく泣いている男の子がいた。
マスターがビールを注ぎ終わると彼の前にそっと置いた。
「お待たせいたしました。あなた専用のビールでございます。」
置かれたビールを見ていると何かたくさんのモノが見えた。
「この見えるモノは何ですか?」
「ああ、これはですね飲んでいただくと分かりますよ」
と言ってマスターは微笑んだ。
言われるがままに一口飲んでみると昔の出来事が思い出された。
「マーマー、これ乗ってみたい!」
と子供の頃に無理を言って乗せてもらった観覧車の思い出がよみがえった。
そして、二口目飲んでみるとまた違う出来事が思い出された。
「○○大学合格したよ!」
と大学受験に成功したときのことがよみがえった。
飲めば飲むほどたくさんの出来事を思い出した。
「マスター、これはわしの思い出か?」
と不思議そうに問うと
「はい、あなたが忘れてしまっていた思い出です。」
「そうか、ココに入ったときは全く自分が誰だか分からなかったが少しずつ思い出してきた」
そう言いながら、少しずつ自分の思い出を楽しみながらいるとビールが残り少しになると辛くなってきた。
「もうお父さん、こんな時間にどこ行ってたの!」
それは彼の娘の声だった。
「いいだろ、別に」
「いいわけないでしょ!みんな心配して探したんだよ!」
と怒っている娘の顔を見ると涙が流れていた。
そして、自室に戻る途中リビングを通ると
「認知症のお父さんと暮らすのは難しいのかな」
と娘とその旦那が話していた。
「でも、一緒に居たいんだろ?」
と聞かれると下を向きながら頷いた。
「お母さんが亡くなって、すぐにこうなるなんて思っていなかった」
「最後まで一緒に見よう。息子や娘だって居るんだから」
そんな話をしているのを聞いていることを忘れてしまっていた。
最後の一口を残して男はマスターに聞いた。
「わしはいい父親だったのか?」
聞かれたマスターはそっと口を開いて
「それは私では分かりかねます。あなたが思い出した思い出も私は見えません。私はココでビールを注いで話を聞くだけです。」
と優しく言った。
そして、最後の一口を飲むと思い出されたのは自分の亡くなる数分前のことだった。
病院にいて、周りには娘だけでなく孫たちも居て泣いていた。
「おじいちゃん、目を覚まして」
と孫が泣きながら言った。
娘はずっと手を握っていて何も言わない。
自分の意識が薄れるときに
「お父さん、必ずお母さんと会ってね!目印もって待ってるって言ってたの思い出して!」
と泣きながら言い放った。
娘の声を聞いた男は微笑んで眠った。
その瞬間、自分が3年前に認知症になり迷惑かけたことや孫たちに優しくしていたことを思い出した。
「本当に最後まで迷惑かけたんだな・・・・・・
でも、娘や孫は一緒にいてくれたんだな」
と自分は愛されていたことを思い出した。
「そろそろ、お時間ですね。外に待っている人居ますよ」
マスターが言うと亡くなる直前に娘に言われた目印を持った人が外で待っていた。
それは彼と長年寄り添った女性だった。
「おじいさん、一緒にまた色んな場所に行きましょう」
と言って手を差し出した。
そのまま、女性の手を握り2人で白い世界に歩いて行った。
少し気になり男性が振り返るとそこにはさっきまでいた店はなくなっていた。