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2話

 午後三時半。

 真昼が終わり、太陽の疲れが空に滲み出していた。遠くに見えるビルの上で、カラスが一羽飛んでいた。あれは死神だろうか、ただのカラスだろうか。もしかすると、カラスはすべて死神ということはないだろうか。僕達は死神に見守られて生きているのだろうか。


 ピントを近くに合わせる。屋上を囲む柵の向こう、眼下に広がる景色を見る。このビルに面している大通りに行き交う人々。日曜日なのにスーツを着た男が足早に通り過ぎる。サラリーマンか、ホストか、キャッチか。道を挟んで対面には小さな公園がある。公園のベンチに座っている若い女二人。昼間から酒盛りをしているように見える。こちらまで笑い声が聞こえてきそうだった。会話しながら視線が時々こちらに向いている気がした。


「彼女たちから、君は見えているのか?」

「見えないさ。カラスの姿は見えていない。もちろん俺の本当の姿もな」

「本当の姿?」

「あぁ。気になるか? 絶世の美女かもしれないぞ」


 彼は笑わずにそう言った。彼流の冗談なのかはわからない。本当の姿は見ないほうがいいのだろう。


「てことは、彼女たちからは僕が一人で喋っているように見えているのか?」

「さぁ。そもそもお前のことなど誰も見ていないだろうに」


 それはごもっともだ。僕のことを見ている人はこの世にいない。どこにいっても誰の目にも映らない自信があった。

 僕だけ別の位相に存在している。

 街中で誰かと目が合ったとしても、それはこの僕ではない、別の位相にいるもう一人の僕と目を合わせているだけなのだ。誰かと会話を交わしても同じだろう。意味的に会話は成り立つのかもしれないが、そこにはロジックだけが存在し、感情は互いの位相に置き去りになっている。


 本質的なものは位相を超えることが出来ないということを僕は知っていた。

 子供の頃は何度か位相を飛び越えようと試みたはずだ。そのような記憶の残滓が今もある。


 しかし薄い記憶は夢のようで、それが本当に起きた出来事なのか定かではなかった。

 位相の段差に足をひっかけて転び、膝を擦りむいた。その傷は深く、大量に血が出て、僕は泣いていたはずだ。古傷として今でも残っている。二センチほどの長さをした白い傷跡。触るとそれとわかる程度に肉が盛り上がっている。

 僕は無意識のうちに、ズボンの上から左膝を撫でていた。


「あの二人のうちどちらがお前の好みだ?」

「さすがに顔は見えないよ」

「お前、彼女はいるのか?」

「いない」


 死神の興味が僕の大事な人に向いて殺されたりしないように、いない、と答えたわけではない。本当にいない。

 彼女なんてどうやって作るのか皆目見当もつかなかった。ネットで調べれば出てくるのだろうか。どうせ何の価値もない情報がつらつら並んでいる広告だらけのページを読まされたあげく、「いかがでしたか?」と聞いてくるだけだろう。何も解決しない。


 しかし、現実に、街中にはカップルがたくさんいる。理解ができなかった。

彼女だけでなく、友達という存在も同じく理解不能だった。この位相にいる限り、一生彼女も友達もできないだろう。


「誰もお前を求めない」


 死神はこちらを見ずにそう言った。

 僕は喉が渇いていることに気付いた。コーヒーを一口飲んだ。ホットコーヒーは完全に冷めていた。

 僕を求める人……。

 職場の上司がまっさきに頭に浮かび、その次に浮かんだのは部下だった。その後、何も浮かばなかった。職場の人達は、僕の存在や行動が己に不利益を及ぼさないか気にしているだけで、別に僕自身を求めているわけではないだろう。


 無理やりに考えると、次に浮かんだのは家族の顔だった。が、あの人達は既に僕を必要としないだろう。別に必要としてくれてもよかったが、もうそろそろ子離れをしてほしかった。自分の人生は自分でケリをつけるしかないのだから。


 誰も僕を求めない。その事実から目をそらすために、疑似的に解決するために、仕事を続けているのだろうか。会社が僕を必要としている? 社会が僕を必要としている?

 誰しも組織に所属している。ある程度大きな組織に所属することができない人間は、それ以外の組織――友達や彼女といった最小単位の組織に所属するしかないのだろう。所属しなければ、誰にも求められなくなる。その場合、一人で世界を完結させる必要がある。

 一人として完結している以上、誰かに求められることもないし、誰かを求めることもないはずだ。


 僕は……、おそらく誰かを求めている。まだ完結していないのか? この位相に、他に誰かいるのだろうか。それはもしかしたら、今、横にいる死神だけかもしれない。


 僕は、また煙草に火をつけた。急がず、煙が辛口にならないように、優しくゆっくり息を吸った。

 煙草の先端から立ちのぼるこの煙が彼女には見えるだろうか。僕が喉の奥から吐き出したこの煙が見えるだろうか。息を吸ったときにだけ灯る火が見えただろうか。匂いだけでも届かないだろうか。それは、はた迷惑な願いだろうか。


 誰かを求めている。誰を?

 何年も前に、僕がまだアルバイトをしていた頃、その職場にある女性がいた。その人のことを好きだった。いや、その時点では好きだと理解していなかったはずだ。気になっていたという程度だ。「この人のこと、好きだなぁ」と思ってもいた。しかし、それは一線を超えるような特別なものではなく、「好きな人たちの中の一人」といった薄い感情だったはずだ。好きという感情も言葉も曖昧でよくわからなかった。しかし、今となればはっきりとわかる、好きだったと。

 本当に? やはりよくわからない。


 その時、わからないなりに確証を得るための行動をすべきだったのだろう。声をかけるべきだったのだろう。どこかへ行くべきだった、誘うべきだった。もう二度と会うことは出来ず、機会は失われた。

 好き、という感情はよくわからない。

 数値化できないものなので当然だろう。ある感情が一定値を超えると僕がその人のことを好きだと判断していいのであればわかりやすいのだが、そういう仕組みではないらしい。しきい値は自分で決めるしかないのだ。今どの程度の数値なのかは自分で決めるしかないのだ。わかりにくい。確証など得られるわけがない。


 その点、例えば、怒りという感情は非常にわかりやすい。これも同じく数値化できないにも関わらず、あからさまにそこにあると感じることが出来るのだ。

 怒りはまさしく火で、着火すると僕の心の中で燃え広がる。熱を発する。その時点で、「僕は今怒っている」と確信を持てるのであった。なんてわかりやすいのだろうか。好きという感情もこれくらいわかりやすければよかった。火のように燃え広がればよかった。


 怒りはその大小に限らず、一定時間経たないと消えない。消えるまでの間、僕の中で腹と胸と頭を燃やし続ける。

 放っておいても消えるが、僕の中には火消もいる。僕は火消に語りかける、「これは無駄な怒りだ。時間とエネルギーをこのために使うのは無駄だから、消せ」と。火消は怒りの火に水をかけながら、延焼しないように、火の周囲にある構造物を破壊する。

 構造物とは何だろうか。そもそも燃えているのは何だろうか。


 燃えているのは記憶と理性。構造物は欲望。この消火活動で失われる記憶と理性と欲望は取り戻せない。

 喪失により出来上がった空白に、似たものが蓄積し構築されることはあるだろう。しかし似ているだけで同じものではない。

 記憶なんてどうでもいい。過去は無駄に美化されるため、僕が前に進むのをいつも邪魔する。また、嫌な記憶に限って鮮明にいつまでも残っている。さっさと消えてしまえばいい。

 理性は? 一度燃やした後に蓄積された理性のほうが柔軟で強靭である。燃やしても問題はない。

 欲望は? おそらく、大多数の人にとっては燃やしたり壊したりしてしまうほうが良いだろう。欲は少ないほうが正道を歩みやすい。


 しかし僕にとって欲望こそ貴重である。生まれつきか、環境によってか、訓練によってか、僕は欲望が少ないと自覚していた。食欲も睡眠欲も性欲も元々薄い。しかも年々さらに薄れていくのを感じる。また、物欲もない。何も欲することのない人形へ向かって着実に歩みを進めていた。ただでさえ少ない欲を怒りによってさらに破壊する。致命傷である。


 欲望を全て失う前に僕は何かをやり切らなくてはならない。

 欲望を破壊する怒りが発生しないように監視するべきで、怒りの原因となる事物は遠ざけるべきだった。それゆえ、他者に関わることを避けているのかもしれない。


 その時、一台のトラックが眼下の道路を通過していった。どこかで新しい家でも建てているのか、そのトラックは荷台に土砂を積んでいた。田舎道でもないのに珍しい光景だった。トラックは律儀に信号のない横断歩道の手前で一時停止した。犬をつれたご婦人が会釈しながら横断歩道を渡っていく。その後、トラックは再度出発し見えなくなった。


 目に焼き付いた横断歩道の白い梯子をもみ消した後、ふと見ると、黒いアスファルトの上に茶色のマーブル模様が出来ているのに気づいた。先のトラックの荷台から土が零れ落ちたのだろう。横断歩道を渡った犬が、その土の臭いをしきりに嗅いでいる。紐を引き、ご婦人が進み始めた。あらがえず引きずられるように進む犬は、何度も土のほうを振り返っていた。


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