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1話

 足を踏み出すリズムにあわせて、頬の産毛が春風をつかまえる。


 東京都某駅近くの繁華街を速足で進む。奥へ行くにつれ、徐々に人通りは少なくなってきた。

 目的の雑居ビルの前で立ち止まった。覗き込んだ入口は、陽光の中でも薄暗く、ひんやりとしていた。


 洞窟のようなエレベーターホールに入り、十階のボタンを押す。箱は四階で止まっていた。僕の元にたどり着くまでしばし待つ。この周辺は有名な店が特にないため、みんな昼寝でもしているかのように静かで、聞こえるのは鳥の鳴き声くらいであった。


 まだエレベーターは来ない。じれったくなって、腕時計――安物のスマートウォッチ――を見る。見ると同時、冷たい音を鳴らしてエレベーターが到着し、ドアが開いた。

 古い匂いのする箱に乗り込んだ。窓はなく暗い。階数を示すランプを見つめた。


 十階で降り、また腕時計を見た。午後三時になったところだった。僕は無駄に時計を見る癖がある。無意識に一度見て、時間を確認せず、その後「そういえば何時だったろうか」とまた見るのだ。二回目では確かに時間を把握する。しかし、その数分後また時計を見るのだ。決して時間を忘れてしまったわけでもなく、小まめに時間を把握したいわけでもないのに見てしまう。癖としか言いようがなかった。


 また腕時計を見た。四月三日、日曜日、午後三時一分。

 いつも利用するカフェに入った。コーヒーの香りが僕を出迎える。次に、顔が整った店員の笑顔が見えた。


「いらっしゃいませ、ご注文がお決まりでしたらどうぞ」


 考えるより先に、「ブレンドコーヒーのラージサイズ、持ち帰りで」と伝えた。コーヒーが出来あがるのを待つ段になってようやく自分の行動に頭が追いついた。注文時の自分の声がとても小さかった。相手の目を一度も見なかった。自己嫌悪が始まった。その考えをかき消すために「あー」と頭の中で声を出した。


 レジの後ろにある黒板にはブレンドの配合について書かれていた。僕にコーヒーの味の違いは判らない。ただ、ブレンドは、その店ならではの味がするだろうという思いでいつも注文する。酸味が強い物は苦手だが、逆に言えば酸っぱくなければ何でもよかった。


 商品を受け取り、店を出た。エレベーターの一階ボタンを押したところで、首の左側を誰かに撫でられた、気がした。左を見ると、つきあたりに非常口があった。

 薄暗いエレベーターホールの中で『非常口』と書かれた看板がぼんやりと緑色に光っている。店から出てまず目に入るので、そこにドアがあるということは前から知っていた。


 今まで意識したことはなかったが、何故か今日はそのドアに違和感を持った。注視してみたが、新しいポスターが貼ってあるなどといった変化は特になさそうだった。しかし、何かがいつもと違った。それが何なのか、僕にはわからない。


 引き寄せられるようにドアまで向かい、ドアノブに手をかけていた。ドアの古臭さのわりにはスムーズに軽い力でドアノブは回転し、ドアが開いた。鍵はかかっていなかった。外に出ると、スカスカで頼りない非常階段が下へ、そして上へ続いていた。僕は屋上へと向かった。こういう場所では部外者が屋上へ勝手に上がらないように何かしら対処しているだろう。どうせ無駄足になると思ったのだが、特に障害物もなく屋上へたどり着いてしまった。


 先客はいない。繁華街の騒音もほとんど届かない。独り占め。あまりの自由さに尾骨あたりがむずむずとうずいた。ルーフトップバーがあるわけでもなく、かといって雑多な物置場所になっているわけでもなく、がらんとしていた。非常階段付近から見て左前方には室外機が三つあり、敷地の真ん中あたりにはパイプ椅子が二つと赤いアルミ製のバケツがあった。それ以外には特に何もない無駄な空間だった。


 パイプ椅子に近寄ると、砂埃で表面がザラザラしているのが見て取れた。座る部分に貼られた黒い合皮は少し破れており、クリーム色のスポンジがはみ出しているのが見えた。バケツは灰皿として使ってあるようで、水と吸い殻が入っている。

 おあつらえ向きだった。僕は僕の場所を見つけたと、そう感じた。


 パイプ椅子二つとバケツを屋上の端、柵の手前まで持っていった。まわりにはこのビルほどの高さを持つ建物はないようで、半径数百メートル程度の景色を一望のもとに眺めることができる。パイプ椅子に座り、もう一つのパイプ椅子には先程買ったコーヒーを置いた。今日はここで過ごすことにした。


 コーヒーを一口飲む。なんとなく春の匂いに合う味がした。カフェインが心臓に届き、心拍数が上がる。体とは逆に、心は静まっていく。目を閉じる。風が吹いて、前髪がふわりとなびくのを感じた。


 数秒たち目を開けると、視界の端に黒い影があった。僕の右側に置いたパイプ椅子の背もたれに、一羽のカラスがとまっていた。


 僕は驚き、身体と心臓を震わせたが、すぐに冷静になった。別にカラスなんて街中でいくらでも見かけるし、近づいたからといって襲われることもないと思い出したのだ。そちらの椅子に置いているのはコーヒーだけであり、さすがにカラスもコーヒーは飲まないだろうと思う。


 カラスは隣に座った僕のほうを一瞥もせず、真っすぐ前を見ていた。

 嘴、眼、羽、足、何もかもが黒い。ゆるいカーブを描いた嘴。死肉によく刺さりそうな嘴。遠ざけたくなるような鋭さがある。対照的に、額から頭頂部にかけては意外と丸っこく可愛い印象があった。


「そんなに見られると照れるな」


 カラスが言った。

 僕は今度こそ驚き、立ち上がった。衝撃でパイプ椅子がガタガタとうるさい音をたてた。

 カラスは喋らない。それが僕の中の常識はたった今崩れた。ドローンか? とも思ったが、それは確かに生きていた。


「落ち着けよ、人間。俺はただお喋りしに来ただけさ。さぁ、座りな」


 中性的で理知的な声音に促された。数秒無言で立ちすくんでしまったが、ふと彼のとまっているほうのパイプ椅子を見ると、先程置いたコーヒーが目にとまった。まだ一口しか飲んでいない。それを彼に取られるのは嫌だった。もうどうにでもなれと思い、僕は元の席についた。


「あらためて挨拶といこうか。俺は死神だ。カラスではない」


 やはり逃げようか。死神ときた。しかし今更カラスでも死神でも変わりはなかった。喋るカラスと死神ならどちらがやっかいだろう。


「僕は……人間だ。名前はどうでもいいだろう?」


 死神は頷き、はじめてこちらを見た。黒く丸い眼には空がうつっていた。


「それで、死神ってことは、僕は今日死ぬのか?」


 一番重要なことをまず確認した。


「いや、お前は今日死ぬわけじゃない。俺がお前を殺しにきたってわけでもない。最初に言ったろう、お喋りしに来たと」


 何も信用できる要素はなかったが、ひとまず安心した。いや、安心するふりをして自らを騙そうとしているだけかもしれない。僕は少し落ち着くために、胸ポケットから煙草の箱――ショートホープ――を取り出した。手のひらに収まる小さな箱。ココアシガレットみたいな見た目が気になって吸い始め、いつの間にか味も好きになっていた。一本取り出し、百円ライターで火をつけた。きちんと胸の奥まで煙が行き届くように吸いこみ、細く長く煙を吐いた。


「おいおい、煙草は体に毒だぞ」

「死神がそれを言うのか」


 カァ、と彼は笑った。カラスにしては小さな鳴き声で、死神にしては陽気な笑い声だった。


「僕の死因は煙草かな。やめるべきか」


 尋ねるつもりもなく呟いた言葉であったが、死神はそれに反応した。


「人間はいつか死ぬ。明日死ぬかもしれないのに我慢する必要はないだろう、吸えばいいんじゃないか」


 毒だと言ったり、我慢は不要だと言ったり。よくわからない奴だなと思った。

 空には雲がほとんどなく、風も穏やかな日である。このあたり一帯は繁華街となっているが、遠くには山が見えた。春霞。山々は空に消え入りそうなほどぼやけていた。花粉か大気汚染によるものだろう。春らしい春だった。


「こんな気持ちいい昼間から死神が出歩くのか?」

「暖かさが希死念慮をかきたてるだろう? 死ぬにはいい日和だ」


 同意はしないが、少しわかる気もした。僕はごまかすようにコーヒーを一口飲んで、その後すぐに煙草を一口のんだ。

 死神は必要最低限の仕事をする、とか、無口である、とか、そういう思い込みは今消えた。

 しかし、そもそも本当に死神なのだろうか。実は世界には喋るカラスがいるのかもしれない。実は世界には魔法使いがいて、その使い魔として喋る動物がいるのかもしれない。実は動物の意識を乗っ取って操作する超能力者がいるのかもしれない。そういう可能性の話をつらつらとあげ、君は本当に死神か? と改めて聞いてみた。


「疑り深いやつめ。では、今から誰かを殺してみせようか……」

「ちょっと待った! いきなりそれはないだろう」

「死神がやることといったらそれしかないだろうに。ではそうだなぁ、お前、金を持っているか? 硬貨を出せ」


 いきなり人を殺すなどという死神。やはり油断ならなかった。なんとか翻意させようとしたが、代わりにカツアゲが始まってしまった。僕は財布から百円玉を取り出した。この尊い犠牲で人命が救われるのだ。百円が使えなくなるのか、と少し躊躇したが、さすがにこれくらいは我慢することにした。人の命は百円で買えるらしい。


「では今からその硬貨を殺す、いいな?」

「えぇ? まぁ、いいけど」

「ほれ死んだ」


 硬貨は僕の手のひらの上で、今、死んだらしい。

 しかし、表を見ても裏を見ても何も変化がなかった。少しくすんだ銀色はそのままで、どす黒くなるわけでも、くしゃくしゃになるわけでもなくそこにあった。


「よくわからないな。これはもう死んでいるのか?」


 さらに臭いを嗅ぎながら尋ねる。冷たい金属の臭いがした。


「うむ。死んだ。試しにコイントスをしてみろ」


 表が出れば帰ってくれたりしないだろうか。


「まさか裏が出たら僕が死ぬなんてことは……」

「それはない」


 カァ、と彼は笑った。何も信じる要素がなかった。そもそも、僕は人を信じたことがあっただろうか? もちろん神を信じたことはない。誰のことを信じられなくても世界は勝手に進む。今更な話だった。

 百円玉は、金額と年号が書かれている面が本当は裏で、三輪の桜が描かれているほうが表らしい。テレビでそのように説明しているのを観るまでは逆だと思っていた。ともかく、その点については死神に念を押して認識を合わせておいた。またしても「疑り深いやつめ」と彼は言った。


 これで死ぬかもしれないと思いながら僕は百円玉を親指ではじいた。チンと鯉口を切ったような音を鳴らして飛んだ百円玉を、左手の甲と右手の平で挟んだ。死神を見た。彼は黒い眼で僕を見ていた。そこに何の感情も読み取れないことを確認した後、右手を左手の上から外し、百円玉を見た。


「裏だね」

「あぁ、裏だ。そいつは死んでいるからな」


 硬貨が死ぬと表が出ない? そんな馬鹿なと思いながら、僕はまたしても百円玉をはじいた。何度も何度もはじいて確認した。十回以上試した。

 表は出なかった。


 僕の百円玉が死んでしまった。

 もしかしたら彼は本当に死神なのかもしれない。


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