第八番歌:しるしなき物思ふ(四・結)
四
私は、どのくらい、ソファーで横になっていたのだろう。意識が途切れる謎の症状は、治らない。若かりし頃は、研究や遊びに数日夜を徹しても、まだ起き足りなかったのだが。
そんなことより、
「大和さん、仁科さん、夏祭さん、本居さん、与謝野さんを迎えにいかなきゃ!」
腹筋の要領で飛び起きて、安達太良まゆみは大切な隊員のところへ行こうとした。しかし、陶器のような繊細でなめらかな手に制された。
「……森先生」
「起きられた直後である。しばらく安静にしていただきたい。五名の学生については、土御門先生が、既に使いを送られている」
まゆみのそばで無造作にのけられていた布を、森エリスは広げて二つ折りにし、まゆみの膝にかけた。テーブルには、まゆみ専用のティーカップが湯気を立たせていた。
「お世話になりましたわね」
エリスは会釈し、パーテーションの向こうへ消えた。清らかな花の香りは、シナモン色の髪か、スカーフかに染みこませているのだろう。まゆみの、なりたき女性像だ。
「よう寝てはりましたな、安達太良嬢や」
入れ替わりに、つややかな坊主がのぞいた。空大生時代に担任であった、宿敵の土御門隆彬である。
「舞姫はんが妙にしとったで。なんで大和らが出払ってるんを知っとったんや、てな」
「夢を、見ましたのよ」
まゆみが、首に提げていたペンダントを握り、言った。弓の形をしているそれは、お守りなのか。
「夢、とな?」
「おそろしき雨と風の中に、隊員と白い猿が、かはらけを交わしておりましたわ。特に、仁科さんが、溜めていた想いを叫んでいて……凶の事ではありませんわよね」
夢解きを懇願しているのではない。土御門は、教え子の「問い」をかみしめた。
「ほんまになったとしても、娘らのこっちゃ、福に転じよるわ」
「福に……。あはれ、ですわ」
「頼りなうて司令官は務まりませんぞ」
いい年であっても、叱ってくださる師がいる。まゆみは、短い返事をした。幼な児すら覚えられる本朝語の二文字を。共同研究室を見守る樹の老いた葉が、雨露でいきいきしていた。
結
ヒロインズが暴風雨を追い払ってから八日後、日本文学国語学科でしきりに開かれる「晩酌の会」が始まっていた。日本文学国語学科の共同研究室にて、教員と飲酒可能な年の学生が、とっておきの一本や、おつまみを持ち寄って宵に酔いつぶれるのだ。
「私は宇治先生ところ行くから、また後で!」
唯音の親友は、担任と飲むそうだ。共に廊下を歩いていたまゆみ先生が、きみえに手を振り返す。唯音も、それにならい、肘を曲げただけの状態で簡素なお見送りをした。
「ふふっ、額田さん、今日も絶好調ねー」
「……です」
「仁科さんは、化学科の共同研究室なの?」
お酒が飲めない唯音は、きみえが宴に興じている間、いつもそこで待っていた。夜にお酒が入った女性をひとり歩かせるわけにはいかない。唯音は、きみえを送った後、叔母の家に泊まる。ひとり娘の華火が喜ぶし、何より、熱の無い家族と顔を合わせずに済む。
「私の研究室に来ない?」
まゆみ先生が、ウインクをして誘ってきた。唯音は、どのように答えれば適切なのか、戸惑う。まゆみ先生だって、せっかくの晩酌だから、お酒を味わいたいはずだ。邪魔にならないだろうか。
「分かりにくくてごめんね。つまり、仁科さんとお話がしたいのよ」
「私と…………?」
唯音に、先生の手のひらが向けられた。「お言葉に甘えて」を使うべき場面が、訪れたのだが、不器用なため、うなずくことしかできなかった。
まゆみ先生の個人研究室には、課外活動時を含めて数十回ほど出入りしたことがあった。着ているスーツと同じ、白で統一された空間だ。モノトーンは、間違えると殺風景になりがちだが、ここは例外だった。訪問客の緊張を解かすために、喫茶店のような座席が置いてあるからだろう。
あがらせてもらい、壁と一体化している本棚の顔ぶれを眺めていると、外側より扉を叩く音がした。先生が開けると、お盆に二人分の飲み物を乗っけた、肥えた男性が立っていた。
「安達太良先生、お待たせですー」
「ありがとう! 無理を言って申し訳ないわね」
肥えた若い男性は、日本文学国語学科の事務助手だった。きみえと共同研究室に行くと、必ずといっていいほど「おつかれちゃんでーす♡」と挨拶される。日本文学国語学科のOBだったことが、きみえの口から明らかにされた。唯音はてっきり、OGかと思っていた。話し言葉と身につけている物の色で性別を判断してはならないことを反省した。
「さすがねー。奥様のためにカクテルを学んだんですって?」
「独学ですけれども、おかげさまで! 妻は日に日にかわうぃぃぃですよー」
助手は福を招きそうなまんまるい笑顔で、下がっていった。肌が赤くなっていた。酔いやすい体質なのかもしれない。
「さて、仁科さん」
いつの間にかテーブルに置かれていたグラスの片方を取り、先生は小首をかしげた。
「乾杯しましょ」
「……………………」
唯音は、両手を膝につけたまま、固まっていた。
あなたは今後、一切飲酒をしてはなりません
あのグラスを満たしている、青い液体は、チャイナ・ブルーだ。一年前の、苦い思い出がのどを這い上る。
「まゆみさん、私、お酒は…………」
「安心なさい。ノンアルコールカクテルよ」
「…………!」
ライチの甘くもすきっとした香りと、グレープフルーツの疾走感ある香りが、ほんの一瞬通り過ぎた気がした。冷徹な約束が、輪郭を失った。
「お菓子もあるのよ。仁科さんの好きな、イカ天。スパイスカレー味だけれど、いいかしら?」
先生は、脇にある金属製の収納トレイに入っていた袋を引っぱり出した。開け閉めしやすい型の袋には、間違いなく辛そうなカレーの写真と、火を吹くイカの絵が印刷されていた。
おかしくてたまらなかった。日本文学課外研究部隊の仲間なら、この気持ちを豊かに表現できただろう。安達太良まゆみは、人を喜ばせる天性をお持ちだ。
「乾杯……です」
今すぐに、仲間のように素直に「面白い」という表情ができないけれど。唯音は、チャイナ・ブルーをまゆみ先生の杯に近づけた。
太陽のような笑みが、唯音に、夜であることを忘れさせた。
「惑わずの年だもの、公私にわたる十二連勤はしんどいわよー」
イカ天は、激辛というよりも、漢方みたいな味だった。しかし、シロップかジュースを混ぜた物に酔えるとは。常にお酒をたしなんでいると、何を飲んでもアルコールを摂ったつもりになれるのか。
「ねえ、仁科さん」
「……」
「ご家族と、お話、している?」
一杯すすめられた理由が、やっと分かった。華火達がいては、気まずい質問だ。
「いいえ……」
ただでさえ聞きづらい声が、かすれていっそう聞き苦しくなっていた。乾きを癒やさなければ。唯音は急ぎ、青い液体を流し込んだ。
「前に、夏祭さんのお見舞いに伺ったら、あなた、いたでしょ。ほとんどあちらに寄せているんですって?」
まゆみ先生が呼んだ豪雨の日だ。合羽一枚で飛び出したため、ずぶ濡れになり華火が風邪をこじらせてしまった。華火は元々、虚弱な体質だったし、帰らせる前に無駄な戦闘が入ったのが、原因だった。幼い頃のように、唯音は付きっきりで看病していた。
「あまり深入りしてはね、事情もあるでしょうから。でもね、挨拶だけでもした方がいい」
「……ですか」
ですよ、と頭をゆっくり縦に振って、ひとくちした。先生がグラスに残った口紅の跡を、指先で拭っていた。習慣(反射、では無粋なので)づけられた所作が、上品にみえた。実に勉強になる。
「私はね、父が疎ましかった時があった。何をしたって比べられたの。周りは『安達太良弓弦の娘』にとらえているの。父の存在がある限り、私はいつまでたっても『私』だと認められないんだ、ってね。同じ血を引いているといえども、安達太良弓弦と安達太良まゆみは、別の人間だわ。父を避けるようになっていて、父に負けまいとがむしゃらに夢に突き進んでいたら、もう会えなくなっていたのよ」
「……」
藤色に塗られたまぶたをこすり、まゆみ先生はイカ天を盛った紙をつついた。懐紙、なのだそうだ。メモ・皿・ハンカチ等、用途が広い。次の休みに探そうか。
「お別れは、突然来るものよ。特に、家族……親は。だからね、会えるうちに、よおく話しておくのよ。家族なんか、と思う日があるのは当たり前よ。でも、一緒に生きてきて、幸せだった思い出がひとつはあるわ。私は、父と『萬葉集』の読めない字を考えあった日曜日の昼、ね」
「家族……」
十歳になる前年の秋、食器洗い機を一から作った。初めて成功した、物作りだった。両親に「家事がはかどる」と、褒められた。兄は、学術雑誌の頁をめくっていた手を止めて、数秒間、本体を凝視していた…………。
十八歳の冬、文系科目が合格基準点に達しなかったため、大学への内部進学が叶わなくなった。その夜、居間で独り、ザラメの袋を抱いていたら、母が何も言わずにザラメを取りあげた。期待を裏切られて怒っているのではなかった。一言もしゃべらないで、母はザラメを、べっこう飴とカルメ焼きにさせて出してくれた。父が、涙と鼻水でみっともない姿で帰ってきた。父のつかんでいた、空満大学の入試案内に「技能選抜」があり、受けてみたら通った。案内を調達したのは、兄だったことを、居候の研究員が教えてくれた。
「仁科さん。あなたは、ご家族に想われているわ。ご覧なさいな」
「…………?」
まゆみ先生が、あるところを指す。唯音の胸元だった。
「あなたが、よく着ているチョッキ。市販の物だけれど、ボタンは付け替えられているわ。お母様の気配がする」
「ボタン……ですか」
服の部品を、意識していなかった。ボタンは三つとも、石がはめられていた。輝かせるように磨かれ、カットされている。
「紫水晶……?」
「ええ。まことなり、よ。いかなる想いが入れられているかは、調べてみなさい。もうひとつ、チャイナ・ブルーもね。花言葉みたいに、カクテル言葉があるの。これ、宿題ね。期限はつけません」
「…………………………」
宿題とは、懐かしい響きであった。学校の図書室に、答えが見つかるだろうか。市立図書館は、どうだろう。本屋で購入もありかもしれない。明日、明後日で解けなかったら、週末に巡ってみるか。日本文学課外研究部隊の一員になって学んだことを、そろそろまとめておきたかった。勉強は、自宅がやりやすい。ただいま、か、お久しぶり、か。仕事で戻っていないかもしれないが、会ったら、何か言おう。
「おかわりは、いかが?」
「喜んで……です」
居酒屋みたいねー! 無垢な白の上着を脱いで、顧問は軽快に笑った。チョッキに留められた紫水晶をなでて、唯音は両目を閉じた。
「物思いより、一献……ですね」
部隊の仲間のひとりが夢中になっていた歴史小説の言葉を、借りた。用法が正しいかは、この際どうでもよかった。でないと、チャイナ・ブルーにからかわれそうだったから。
〈次回予告!〉
「まゆみっ、子どもん時の思い出、聞かせてくれっ!」
「ふふっ、すべり知らずな、安達太良家の年中行事『スイカ祭り』の話をしましょ」
「スイカの早食いかっ?」
「夏祭さんには、特別に教えてあげます。それはね……」
―次回、第九番歌 「子に負かされて」
「……あたし、当分スイカ食べたくないや」
「ここは笑うところよ?」
「私が尊敬している安達太良先生に、ため口ですか! ゆゆゆゆ、許せません!」
「あらー、宇治先生。とっておきのお話がございますの。『スイカ祭り』なのですが」
「知らんやつ出てきたけど、やめとけ、耳ふさげーっ!」




