第七番歌:翻刻の翁ありけり(二)
二
「へんたいがなーっ?」
輪ゴムみたいに口を、器用に伸び縮みさせて聞き返す華火ちゃんへ、夕陽ちゃんは人差し指のみ立てて、静かにするようお願いした。二〇三教室とは違って、めいっぱいおしゃべりできる所じゃない。読み物や映像・音声資料と中身が軽めでも、ここは図書室だ。
I号棟とも称されている図書室は、大学創設当初にできた「附属空満図書館」の分館だ。貴重書(学校の教科書に写真を提供しているらしい)を収めていて、歴代の帝がご研究のため訪ねられ、海外の有識者も利用する、歴史が長くて大きい本館を「図書館」、学生が課題の調べ物とか、気晴らしに訪れる、新しく設けられた小さい分館を「図書室」と呼び分けているのだ。
「字『体』を『変』えてる『仮名』で、変体仮名やよ。くずし字ゆう方が、なじみがあるかもしれへんなぁ。うち達が日頃読み書きしている『ひらがな』は、元々は漢字なんやでぇ」
「8門・言語」と「9門・文学」の境目を、焦げ茶色の革靴がやわらかに巡る。
「あんまり見られようになったんやけど、昔、お店の暖簾や箸袋に変体仮名が使われてたんやよぉ。あらま、萌ちゃん」
つま先の部分が撫子色に塗られた白い長靴が、革靴と華火の運動靴に割りこんだ。
「へっへー☆ 萌子ノ実家プレゼンツ・オ手拭キっスよ。はなっちノ野生ノ勘デ、解読シテみテクだサイ☆」
「野生は、画蛇添足だろっ。どらどら……」
お手拭きの包み紙には「和菓子 須る賀」と書いてある。目を凝らすと「賀」には濁点が打たれていた。
「わがし、す、る、か……。あっ、するが、かっ」
「ピンポーン☆ ソノ『須』ヲ『す』、『賀゛』ヲ『が』ニ読ンダのガ、変体仮名ノ解読ナんスよ。変態デハないデスよ、思春期特有エロス発動はNGデス」
「誰がするかってんだよっ!! うぐ」
夕陽が二度目の「静かに」、萌子が頭の上で両手を交差させて「NO!」で注意をされて、小さな身体をより縮ませた。室内でも無言だった物静かな唯音先輩まで、眉間にごく浅いしわを寄せられていた。
「くずし字を現代の読み方に解読する作業を、日文では『翻刻』っていうんだよ。文学系の専門用語かな」
「勉強に、なる……です」
華火ちゃんが懲りて口元を覆って「言わざる」の真似をするのと入れ替わり、先輩が相づちをうってくださった。それにしても、足大きいですね。二十七はあるんじゃないですか? まめにお手入れしているのか、新品同然だ。私は、二十四センチ。あ、靴紐汚れてきた。週末洗おう。
「リミット三日後っスよ? 翻刻ハ慣レ、デシたガ、点数ずきゅんとアップでキルんデスか?」
「まゆみは沈思黙考っ、だんまりしちまってる。負けちまったら、何すっか分からんぞ」
「まゆみさんと、お別れ、したくない……」
私だって、負けたくなんかないよ。免れていた追試をさせられて、それで八割取れなかったら、あの王朝文学講読会に引き取られて、みっちり「真の読み」を叩き込まれてしまうんでしょ。たいていは耐えられる私でも、怒りをぶつけちゃいそう……だよ。土御門先生、焦っているんだろうな。四回生一名だったよね? 長年続いてきた文学サークルが、途絶えるかもしれないってなると、顧問いや指南役(日文の先生は、呼称にもこだわりが強い)としてはつらいのは、うーん、分からないでもないけれど。
「せやなぁ……。傾向をリサーチできたら、勉強の範囲をしぼれて、本番解きやすくなると思うんやけど……。うち、追試に詳しくなくてぇ」
だよねえ。減点を通さぬ黄金の守備で、「優」以外の判定をもらったことがない夕陽ちゃんに追試の経験を、お訊ねするのはおこがましい。詳しくない、っていう言い方が、夕陽ちゃんだから、しょうがないよねと思えるんだよなあ。偉ぶっている人だったら、だから何なんですか? って、それ以上の関わりを避けたくなるのにね。言葉は、使う人と聞く人によって、感じが変わるものだ。
「土御門先生は、どの作品を翻刻させはるんやろか。中古文学やと、当てるん骨折りやでぇ……」
「クス、クス。知を統べる夕陽さんにも、ご存知ではない事柄がおありなのですねえ」
本棚の一冊を選ぼうとした夕陽ちゃんの指が、止まる。
「ふえ、ふええええええええええええ」
質の良い砂糖を天然の水に溶かして、煮詰めてこして、また煮詰めてこす手間暇かけた蜜に漬けられたかのように、ほにょりほにょりと柔らかくなった。髪飾りのリボンも、つられてふやかされてそうだ。
「ななな、ななな、なんで、なんで、ま、真淵先生がぁ…………○△□!?」
才女の理性をかき乱す不届き者、だめだ、あれでも夕陽ちゃんの「好きな男性」なのだから。
「お悩みでいらっしゃる夕陽さんに、差し出がましくも情報を提供させていただこうと思いましてねえ」
日本文学国語学科専任教員七名の中で最も変わっている、国語学担当の真淵丈夫先生。常に目を細めた微笑みが、気味悪……いや魅力的だとされている、謎を謎で塗り固めたような人物である。というか、どこから出てきたんですか。偶然を装って接触を図ったんですよね。自己の演出やめてもらえないかなあ。
唯音先輩は、「あんだ、てめえっ!?」と人見知りがあまりにも激しくて相手に噛みつこうとする母方のいとこをがっちり押さえる。萌子ちゃんは、
「出タナ、マブチン」
敵幹部に憎しみをあらわにする勇者のように鋭い声をあげていた。
「僕の教え子が、厄介事を持ち込んだようですねえ……。かの『源氏物語』を麗しく訳した歌人の名を冠しておりながら。一文字違うと、欠けが生じるのでしょうか。御部隊に、深くお詫びいたします。特に夕陽さんには、お手数をおかけして、誠に申し訳ない気持ちですから、涙を流すことをかたく、かたく禁じている次第ですよ」
「喜ビ勇ンデ、マブチンを担任とシテ崇メてヤリまセンよーダ、バーカバーカ☆」
……うん、萌子ちゃん、もっとあっかんべーしてやって。本名を讃えているようにみせかけて、悪辣ないじりをするえせ担任には、反旗をどんどん翻しちゃっていいから。あと、私の友人を恭しく下の名前で呼ばないで。いつか、言葉のわいせつ行為で通報してやるんだから。
「おやおや、ご気分を害してしまいましたか。ですが、もう少しお付き合いいただきましょう。さて、土御門先生は非常に情け深い人物でいらっしゃいます。僕は空満大学で、先生に翻刻を教わりましたから、証言できます」
手を合わせて、ぎりぎり図書室の礼儀作法にのっとる音を鳴らす。俳優じゃあるまいし、普通に話してくれませんか。
「こちらが僕の普通なのですよ、大和さん。お話を進めましょう、熱き血を通わせるお優しき土御門先生は、ある時期を境に、謀略で人を踊らせるようになりましたが、情けを絶ったわけではありませんでした。しかし、全ての学生にかけてやるほど甘くはなかったのです」
「さっさと、教えろ……です」
「仁科さん、あなたは、土御門先生に似ていますねえ。熱を冷静さで隠しきれているようで、いない」
唯音先輩が驚愕したところ、初めて拝見した。今会ったばかりの人に、心を読まれたら、皆そうなってしまうよね。ということは、先輩は…………? 深掘りはやめよう。
「『情けがある』ことを知る者にしか、情けをかけないようになったのです。そこで土御門先生の『情け』をひとつ」
せんでいい、せんでいいから。「ひとつ」で人差し指で「一」を表すのはいりませんから。ちょ、夕陽ちゃん熱されてますけど、落ち着いて。かっこつけているけれど、たぶん実年齢おじさんだよ? こんなんで攻め落とされないでえ!
「クス、胸の内では私語が多いのですねえ」
「う、うう」
「翻刻の追試は、『竹取物語』のかぐや姫昇天の場面です。『中古文学研究B』では毎回こちらが出題されます。夕陽さんは申し上げるには及びません、読書家の大和さんは見当がつかれていらっしゃいますよねえ?」
神経を逆なでさせる口ぶりですが、大丈夫ですよ、全集本でも大系本でも集成本からでも参照して覚えます、覚えてみせます、覚えるんだから。
「勝負にお強くて、一回生の担任として助かります。去り際にもうひとつ。夕陽さん」
「…………ふえ、は、はい??」
手招きして、少し離れてなにか話そうとしている。教育と称して変な入れ知恵しないでくださいよ。
「ゲラ男、光速で消えちまったぞ。忍者かっ?」
「真淵先生やよ。先生のテレポーテーションは、追究したらあかんお約束やの」
笑って頭をなでてあげているけれど、されている華火ちゃんは痛がっていた。
「何を言われていたの?」
「実践してみなさっぱり、やなぁ。萌ちゃん、テストある?」
「ありマース」
萌子ちゃんは、団子みたいに丸めていた紙をしわのばしして渡した。
「……………………そういうことやったんや」
メガネの真ん中を押し上げて、夕陽臨時監督はかくのごとく言った。
「この対決、勝てるで」
「マジっスか?」
学内成績第一位の座を固定している臨時監督の頭が、縦に振られる。
「萌ちゃんには、ひとつだけ我慢してもらう。そうして、ふみちゃんと追試まで『竹取物語』読んでもろたら、ふたりで満点も夢やない!」
「わ、私と萌子ちゃんが、五十点……!?」
こたつに入って、ごませんべいをかみ砕きつつ『冬のコナタにも萬葉を』を読んでいる光景が湯気のように浮かんだ。たまたまここで目が合った本なんだってば。作者はえーっと…………安達太良まゆみ。て、うちの顧問かい。もじりで遊んでいないで真面目に研究をしなさいよ、んもう。




