第十一番歌:八雲たつ アダタラマユミ(四ー二)
屋上に出られる扉に、日本文学国語学科の教員が泣きじゃくっていた。
「嘘です! 嘘なのですよ! 安達太良先生が、これまでの事件の張本人だとは!!」
後ろには下り階段があるというのに、構わず正座をして、漆黒のスーツごと総身をがたがたさせていた。まゆみを敬愛してきた女史・宇治紘子だ。
「違います、行使者は他にいるはずなのです! 安達太良先生ではありません!!」
緑なす黒髪を大きく振り、必死に訴えた。ひだスカートに置かれた輪廻腕章に灯っていた深緑色の火が、尽きる。呪いで遠眼鏡となり、扉越しにまゆみを監視していたのだが、精神の集中が途切れたため、呪いが解けてしまったのだ。新米の行使者である紘子は、呪いの扱いで失敗することが多かった。
「安達太良先生、操られているのですよ! 黒幕が近くにいるんじゃないですか!? そうですよ、そうに違いありま……んん!」
紘子の口が、閉じられ、一文字に伸ばされた。自身のしたことではない、相方の真淵丈夫が術をかけたのだ。挙げた右手に、金糸雀色の輝きが噴いている。微笑みに、ひとつも優しさが入っていない。
「私情は捨てていただけます? 真実から目を背けてはなりませんよ」
「安達太良先生は、力を封じられるのですよね……教壇には当分立てない……私に、何かできないのですか……?」
腕章をはめ直す紘子に、真淵は階段の奥にある暗がりを前にしてささやいた。
「僕達の務めは、ひとつです………………」
「残念な、お報せでした」
日本文学国語学科主任・時進誠は、個人研究室の執務机で辞書を読んでいた。正しくは、辞書をなかだちにした呪いで、真淵と紘子の報告を受け取っていたのだった。
「さやうか。お嬢が、な……」
傍らで、同僚の土御門隆彬が、扇を開いたり閉じたりさせて窓を眇める。
「思うところはあるでしょう。私も、学問の雛鳥だった安達太良まゆみさんを指導しましたので」
「難儀な小娘やったわ」
「安達太良先生に、呪いに大切なことを教えたのは、どなたですか。本朝で唯一『詠唱』を行使できる安達太良家と、呪いに無縁の人々にはさまれて築かれた、お嬢さんの氷山を清水で温ませたのは、どなたですか」
「ふぉふぉ、そないなハンサムな熱血教師、大学におったかや?」
時進と土御門が、互いに苦笑した。空満の学び舎で長く勤める戦友らの、お決まりの流れだった。
「次の任務に移ります。貝おほひ参の壇」
時進の声を合図に、近松初徳と森エリスが入室した。情報収集と庶務を担当する真淵と紘子組「弐の壇」に対し、「参の壇」は主任の護衛を任されていた。
「弐の壇が行使者を突きとめました。主任として命じます……」
近松とエリスに要請する。これすなわち、相当な技量を求められる高難易度の任務であった。
「神無月の変における行使者・安達太良まゆみ先生を、七日以内に捕まえてください」
日本文学国語学科の特殊業務が、本当の意味で始まる。
「了解だよ」
長身の色男、近松が勇ましく拝命する。呪いが効かない士族は、行使者が抵抗した場合でも、充分取り押さえられる。
「了解した」
妖艶な美女、エリスが凜々しく拝命する。効果は受けないが、呪いによる現象は始末できない近松を補佐し、負傷した者が出たら治療にあたってもらう。
「お嬢、仕事やさかい、覚悟するのですぞ」
雲に覆われているのにまぶしくて、土御門はそっとブラインドを下ろした。
安達太良まゆみは、深く眠っていた。魂が抜けているのではないかと疑わせるくらいだった。
「八岐大蛇は消えたのに、先生が起きないなんて」
まゆみを揺すっていたふみかに、夕陽は痛ましくなりやめさせた。
「初めてやんな……。雲かて、無くなってへんもんね」
「特別な力」を鎮めた後は、まゆみは夢から覚め、空は夕や夜に彩られた。自らの意思で「特別な力」を使い、目的を果たしたら何が起こるか、見当がつかなかった。
「……まゆみ、いなくなっちまったら、どーすんだ……っ?」
三角座りで縮こまっていた華火が、ぼやいた。あまりにも、らしからぬ発言だった。
「はなっち、ソレはNGデス! 言霊コワいっスよ、実現スルかモシれナイんすカラ」
「事実無根っ、まゆみが無事な保証あんのかよ」
「アリまセンけド、暗クナるノはソーバッドっスよ? 萌子ハ、ポジティブでイヨうトさっき決メまシタ☆」
ガッツポーズをふたつ作って、萌子は元気さを示した。
「泣いてんじゃねえか。法被濡れてんぞ」
「はーなっちー!」
せせら笑う華火に、萌子が涙声になりつかみかかろうとしたら、唯音が二人の頬を張った。
「あにすんだよっ!」
「華火さん、まゆみさんを、信じろ……です」
「オ父サンに殴ラレたコトない顔ヲ、よクモ!」
「萌子さん、空元気は、虚しい……」
華火と萌子は、しかめ面をした。唯音の青白い手の内側が、真っ赤に腫れていた。
【―娘子よ】
男か女か、幼きも老いも若きも、聞いた者が望むように語り手を定められる音が、五人に届いた。
「白猪!」
ふみかは、安堵のあまり、溜まっていた感情をここで全部吐き出してしまった。神無月の晦日に、まゆみの命がかかった戦いの相手だった、白い猪が現れた。まゆみの過ちを知り、まゆみに宿された力を封印したこともあった、山の神だ。
「そ、そうだ、黒い雲! 神様、大丈夫だったの?」
猪とは、会って三度目になる。神無月の晦日では戦闘で、霜月十一日では朝ぼらけの夢で……その夢にて、猪に二つある託宣を受けていたのだが、二つ目を告げる時に黒い雲が邪魔をして聞けずに覚めたのだった。
【平らかなり、吾は、黒雲の源を戒め、此の日まで身を養ふた】
「苦戦してたのかっ?」
【黒雲は、アダタラマユミへの憎しみが、形になりしもの、アダタラの祖アヅサユミと、殊なる力は、憎しみを集めやすし】
「隣の柴犬は青い……ですか」
「先輩、芝生ですよぉ。そうです、安達太良先生が眠られたままなんです。黒い雲が、帰らぬ人になる呪いをかけたんやないですよね?」
白い猪は、鼻息をひとつして、水晶玉のような瞳をぐりりと、まゆみの方ヘずらした。
【黒雲の仕業にはあらぬ、殊なる力を使い、心身をすり減らした、されども恢復早し、直に気がつく】
「センセ、命ニ別状ナシナんスね!?」
【左様、白雲も収まる】
五人は胸をなでおろし(一人、凸部分が激しく、一人、板状だったが)その場にへたりこんだ。
【夢に、言いそびれた事、一つあり】
『!』
託宣の続きだ。一つは、勢いを増してきたまゆみの「特別な力」の暴走を止められる者は、「スーパーヒロインズ!」しかいない、だった。ふみか達には、まゆみの力を鎮められる才能を「種」として蒔かれており、芽が出てすくすく生長しているらしい。
【アダタラマユミに兆しあり】
以前は、そこで中断させられたのだ。武闘よりも祭礼に用いられるだろう牙を、白い雲に塗りつぶされた天にかかげ、息を吸う。さて、もうひとつの託宣は……。
【―アダタラマユミは、アヅサユミを継ぐ存在となりし、五色五人の娘子よ、アダタラマユミを、守れ、護れ、衛れ】
寒さに追い討ちをかけるお告げに、誰も、二の句が継げなかった。




