金盞花
辺りを見渡すと、金盞花が、ひどく綺麗に咲いていた。きっと、あなたの声を忘れてしまったせいだろう。傘をさしても、濡れるのは。
忘れもしない、あの夏の日、私は木陰で景色を眺めていた。揺れるスカートや黒光りのするベルトを身に纏った人たちがゆっくりと歩いてゆく小景を、溜息を吐きながら見つめていた。
「はあ。暑い」
そう呟きながら空を仰いでみると、木漏れ日がとても眩しく、照らされた体は汗で濡れていて、夏の暑さに堪えかねた私は、急いで立ち上がり校舎へと戻って行った。
一度、自分の席に座って、何かないかと机の中を探り、卓上に並べてみたけれど、教科書、筆記具、今朝読み終えた小説、何が書かれていたかもわからない紙の切れ端。何も、面白そうなものが無く、私は仕方なしに廊下をぶらつく事にし、席を立った。
「ねえ、見た? 今朝のニュース」
「見たよ。あれってさあ、……」
政治のニュースに対して、拙く談話する二人の女生徒の方をちらりと見てみると、片方の女生徒は、喋りながら、眼鏡を外して眠そうに目を擦っていた。もう片方の女生徒は、あれは駄目、これは失敗、としたり顔で非難ばかりをしていた。
どうやら、彼女たちは自らを、鶴のように美しい、と過信しているようだった。たしかに、透き通るように白い制服で身を包んでいるが、鶴のようではなく、彼女らはまるで雀のようだった。
どんなに非難をしても、語り合っても、雀のか細い声に過ぎないのだ。鶴のように、美しく、強くはなれない。
そんな事を考えながら、廊下をゆっくりと歩いていた。
しばらく歩いていると、喧騒に包まれていたはずの廊下は、静けさに包まれた薄暗い一本道へと変わっていた。
窓辺に寄りかかり、青く澄んだ夏空を眺めていると、どこからか音が聞こえてきた。タンタン、タン。タン、タン、タン。その音は、どうやら足音のようであった。
タン、タン、タン、タン。タッ、タッ、タタタ。足音は、どうやら一人のものではなく、右からは歩く音、左からは走る音が聞こえてくる。
左から聞こえてくる音は、遠くから聞こえるような気がしたが、右から聞こえてくる音は、とても近いところから聞こえるような気がして、私は誰かが近づいてくる恐怖で逃げ出してしまいたくなったが、恐怖と薄暗さが相まって、私は立ちすくんでしまった。
タン、タン、と歩いてくる誰かは、どんどん私に近づいてきて、スッと息を吸い、
「あ、あのさ」
吃りながら、告白をした。
「俺、……いや、私、女の人として生きてゆきたいんだ。変、かな?」
聞き覚えのない声で、いきなりそんな事を言われた私は、動揺してしまい、ただ、薄暗い廊下に佇むことしかできず、今すぐにこの場から逃げ出してしまいたい、と思って左の方を向いてみると、長い髪が風で揺れている一人の女の人がいた。
「そうだったんだ。イヨリって、女の子になりたかったんだ、……ごめんね。勝手に男の人だと思って、告白なんかしようとして」
女の人の頬には、涙が伝っていた。
「え? なんで?」
イヨリ、という男の人の声は、わずかに震えていた。
「なんで、なんでシオリがそっちにいるの? さっきから外を眺めていた、こっちの人は、……」
「ごめんね、ごめんね。イヨリの事、わかってあげられなくて」
シオリという、その女の人は、涙の粒で床を濡らしながら、暗がりへと走り去っていった。
すると、ドタン、という鈍い音が後ろから聞こえてきて、驚きながら振り向いてみると、そこには、倒れ込みながら慟哭をするイヨリがいた。
「なんで、なんでこうなるんだよ。好きだったのに、ずっとシオリと一緒に居たかったのに、……こんなことになるなら、言わなきゃ良かった、こんなこと、思わなきゃ良かった、……」
「あの、大丈夫ですか?」
手を差し伸べながら、彼にそう言ってみると、彼は一度顔を上げてからまた俯き、指で涙を拭いながらそっと立ち上がって、
「さっきは、すみません。人違いをして、変なことを話したり、取り乱して、泣いたりして、迷惑、したり、……ごめんなさい」
彼の声はとても震えており、話せば話すほど、吃ったり、言葉が滅茶苦茶になってしまう回数が増えていくようで、不憫に思って私が、
「謝らないでください。私は大丈夫です。けど、……イヨリ、さんは大丈夫ですか」
と彼に言うと、
「大丈夫、です」
と彼は苦しそうに言った。
「辛いこと、あったんですよね。まだ出会って数分しか経ってないですが、私でよければいくらでもお話し、聞きますよ」
私がそう言うと、始業を告げるチャイムが学校中に鳴り響いた。
「そろそろ時間だから、また明日ここで会って話をしませんか?」
「はい、わかりました。そうしましょう、イヨリさん」
「あ、……俺もタメ口で話すからさ、君もタメ口で話してよ」
「うん、わかった! よろしくね、イヨリ」
「あ、そういえばさ、名前なんていうの、君は」
「私は、紡季っていいます」
「ツムギ、ね。わかった。それじゃ、また明日」
「うん、また明日」
明くる日の朝、いつも人影のない静かな旧校舎を訪れても、彼はいなかった。昨日みたいに、窓の外を眺めてみたり、耳を澄ましてみて、待っていたけれど、私に聞こえたのはチャイムの音だけだった。
小走りで教室に戻り、上の空で授業を受けて過ごしていると、気付けば空が茜色で燃えていた。
もう、帰ろう。
そう思いながらも、荷物を詰め込んだバックを肩にかけて、旧校舎に行ってみると、彼は夕焼けを眺めていた。
彼はこちらを振り向いて、微笑し、
「話、聞いてくれる?」
と言った。その声も、姿も、夕日のような美しさを帯びていた。
それから二人で近くの公園に行き、いろいろな事を話した。朝に弱くて、今朝は旧校舎へ行けなかった事、シオリさんとの出会いの事、あれから一度も会っていないという事、いろいろな事を話してもらった。
「あのさ、ツムギ。最後に一ついい?」
「うん、いいよ」
そう私が言うと、深く息を吸う音が聞こえた。
「女の人として生きたいって、……変?」
変、なのだろうか。自分が生まれ持ったものを、世間では当たり前とされているものを、不思議に思ったり疑問に思い、抗うことは、おかしな事だろうか。
わからない。何が正解なのか、どう接すればいいのか、私にはわからない。
「いくら考えても、やっぱりイヨリの苦しみは、悲しみは、私にはわからない。一部しか、汲み取れない。でも、きっと、大丈夫だよ、変じゃないよ、根拠は無いけど、私はそう思う。だから、安心して。ずっと、一緒に居よう」
「ありがとう、ツムギ。ありがとう」
彼の頬は、茜色に煌めいていた。
記憶って、過去って、不思議。たしかに長い時を経て出来た、果てしのないもののはずなのに、思い返せば、残ったものは一握りだけ。砂金のようなもの、それが思い出なのだろうか。
あの夏の日から、何年もの時が経った。
他愛もない日常に数滴の非日常が混ざったような、毎日を過ごして、そうして私は卒業をした。卒業式の後、イヨリとシオリは恋仲になったらしく、また、昨年には式を挙げたらしい。結ばれた二人の名前が、「唯縁」と「栞」だなんて、まるでドラマのようだ。
最後に会ったのはいつだろうか。そんな事すらも、私は忘れてしまったのだ。
辺りを見渡すと、金盞花がひどく綺麗に、咲いていた。きっと、あなたの姿すらも忘れてしまったからだろう。視界がこんなに、滲むのは。