呪い呪われ
私の名前は浜名凪。高校一年生だ。
私が小学生だったころ、けんか別れをした友達が一人いた。名前は桜花音。
当時から陰湿だった私と違って、花音は凄く明るかった。授業中も休み時間も常に元気いっぱいで、ちょっとうるさいくらいに騒がしかった。
花音は同時に優しくもあった。泣いている人がいたらすぐに傍に駆け寄って、泣き止むまで一緒にいてあげた。困っている人がいたら、すぐに手伝いにいった。
先生やクラスのみんなは、そんな元気で優しい花音のことが好きだった。
だけど私はあまり、花音のことが好きじゃなかった。嫌いではなかった。嫌う理由がなかったからだ。だけど、絶対に好きではなかった。
私は小学生一年生から、六年生までずっと、色々な生徒たちからいじめを受けていた。理由はわからない。いつ、どんな理由で始まったかも覚えていない。私が何かしたからいじめられていたのか、何もしないでうじうじしていたからいじめられていたのか、それとも何の理由もなかったのか、高校生になった今でもわからない。
落書き、物隠し、罵倒、陰口、暴力。いろいろされた。先生も、同じクラスの人たちも、誰も助けてくれなかった。その誰かには、花音も含まれていた。
最初は私をかばったり、いじめていた人に怒ってくれたりもした。私はそんな花音を一度は好きになって、彼女を頼るようになった。友達になりたいと思って、いっぱい好きな本やお菓子を持って、花音の家に遊びに行ったりもした。
花音はそんな私を喜んで受け入れてくれた。私が凪のことを守ってあげるね、とも言ってくれた。
だけど、花音が何を言っても私をいじめる人たちは聞きもしなかった。クラスの中心だった花音の背中に隠れてばっかりだった私は、弱虫と揶揄され、ますます孤立した。
たぶん、二年生の中頃ぐらいまでは、庇ってもらっていた気がするけど、それ以降は覚えていない。覚えているのは、廊下ですれ違っても、顔を背ける花音の横顔だけだ。
庇ってくれた人が誰もいなくなって、私はよく泣くようになった。けど、三年になったころに涙も枯れた。四年生になってからは心が荒んで、平気で人を殴れるようになった。私をいじめた人を片っ端から殴って蹴って、親が呼ばれるまで暴れ続けた。
五年生になってからは何もかも疲れきって、どんな人間も無視するようになった。その間、花音とは一切口を利かなかった。
最後に喋ったのは、六年生になる直前の春だった。校庭の木の下に呼び出され、私は花音が転校すると聞いた。
私は何も言えなかった。さようならとも、また会おうねとも言えなかった。心を殺すことに力を注いでいた私は、別れるときに何と言えばいいのかも忘れていた。
何も言わない私を見て、花音は顔を伏せた。
愛想のない私をそのまま無視して、どこかに行ってくれれば良かったのに、花音は余計なことを言い始めた。
『ごめんね。嘘つきでごめんね。私がずっと守るって言ったのに……ずっと見てたのに、何もしてあげられなくてごめんね』
何もしてあげられなくてごめんね、なんて。
『どこまで良い子ちゃん面するつもりなの。あなたは私を無視したいじめっ子でしかない。何もしなかったんじゃなくて、何もしたくなかったんでしょ。関わりたくなかっただけでしょ』
『ち、違う。私は、』
『それっぽく言って、誤魔化しているだけ。ここにいるみんな最低のクズばっかりだけど、あなたはその中でも最悪。自分がクズなのを誤魔化して、どこまでも良い子ぶる。転校する前になってようやく謝ったのも、友達を見捨てた自分のままでいたくなかったから。それだけ』
『な、凪ちゃん……』
『呪ってやる。他の奴はどうでもいい。無視すればいい。でも、最後まで私を馬鹿にしたあなただけは絶対呪う。毎日呪う。死ぬまで呪う。私があなたにかける言葉はそれだけ。他には何もあげない!許してなんて絶対にあげない!じゃあね!転校先でもせいぜい良い子ぶってろ!』
後半は涙が混じって、自分でもうまく喋れていたかわからない。逃げるように走って、家のベッドの中で何度も泣いた。
私は花音のことが嫌いじゃなかった。好きじゃなかった。だけど、無視されている時でさえ、遠くで笑っている花音を見ると顔が綻んだ。嫌いじゃ、なかったのだ。
それなのに、私は言わなくていいことを言った。心の中で膿のようになっていた感情を全部、関係のない花音に叩きつけた。
謝りたいと思ったけど、私がうじうじとしている間に、花音はあっさりとどこかに行ってしまった。私はそれから、花音に対して言ってはいけない言葉を言ったという罪悪感を抱えたまま、その後の人生を生きることになったのだ。
〇〇○○○
で、なんでこんなことを思い出したかというと、私の目の前にその花音がいるからだ。
「桜花音……最近こちらに戻ってきました……趣味はありません……」
季節は春。入学式から一週間ほどたってから、彼女はやってきた。登校初日だとい言うのに、寝ぐせもなおさずに学校に来て、ぼそぼそと自己紹介をする姿は、かつての花音とあまりにも違っていた。
名前を聞くまで気づかなかったくらいだ。なんか見覚えあるなーっとぼんやり見ていたら、花音の名前と声が聞こえてきたから文字通り死ぬほど驚いた。今も心臓がバクバクとうるさくなっていて、変な汗がダラダラと流れている。
「あの、花音さん。もっと元気よく喋らないと、みんな聞こえないわよ?」
「別に……仲良くしたいわけじゃないですから……」
咎める先生を無視し、スタスタと空いている席へと花音は向かう。私は寝たふりをすることにした。謝るチャンスがきたという思いより、罪悪感の方が強くて、顔を合わせる勇気がなかった。
花音は教室の最後列の、窓際の席に座った。さっきまでは私の前に座っている奴のおかげで、私は花音の視線から隠れることができた、と思う。花音がまったく反応していなかったから、たぶんそうだ。
でも今は違う。私が座っている席は、最後列の入り口側だ。もし花音が横を向いたら、絶対にばれる。
どうしよう。いつかはばれるとはいえ、それならせめて私から声をかけたい。けどこの教室で話しかけたりしたら、絶対みんなから注目される。そんな状態で謝罪とか花音も迷惑だろう。
放課後まで寝たふりで過ごすのはさすがにきつい。かといって保健室で仮病なんてしたら、授業に来た先生に対して絶対誰かが私の名前を言う。花音に私の存在がばれる。ああもう、どうすれば!
「はあ。まあいいわ。それより!花音さんが新しく入ってきたから、改めて自己紹介しましょうか!」
何言ってんだクソ教師!?い、嫌だ。ここで名前を言ったら、今日一日ずっと花音の視線を感じながら過ごすことになる。そんなことになったら、私のメンタルが崩壊する。
「あ、あの先生……すいませんが、ちょっと保健室に……」
「あら。顔色が悪いわね。じゃあ先にあなただけ、名前と好きな物を、」
「すいません本当に限界なので失礼します」
口元を抑えながら、保健室がある一階へと駆け下りる。教師はほんと、昔から私のことをわかろうとしないクソばかりだ。あいつら全員、私の敵だ。
○○○○○
「ほら。立てよゲリ女。立ってみろよ」
放課後になって、私は教室へと戻ってきた。ホームルームが終わってすぐに帰ったのか、花音の姿はなかった。名前がばれたかもわからない。
花音の家の場所さえ知らないので、追いかけることもできない。ため息をつき、いったん家に帰ろうとしたところ、厄介な奴に捕まった。
学校の裏に引っ張られ、蹴られ、頭を踏みつけられる。見上げると、金に染めた長い髪につりあがった目をした女が、私を見下ろしていた。女は高校生には過剰なほどのアクセサリを身に着け、ジャラジャラと鳴らしている。
彼女は俗に言う、ヤンキーという奴だ。名前は神峰……下の名前は忘れた。
「ギンちゃん、もうやめようよ」
彼女についてきたもう一人の女がギンちゃんと、ヤンキーを呼ぶ。じゃあ銀子とか、白銀とか、そんな名前なのだろう。興味がないから、すっかり忘れていた。
もう一人の女は、ヤンキーとは対照的で凄く真面目そうな見た目をしていた。校則通りに切り揃えられた髪に、改造も何もしていない制服を着て、髪留めもネイルもつけないし、軽い化粧もしない徹底ぶり。ぴっしりと先までしわのない服を着て、白い眼鏡をかけた彼女はまさに優等生といった風だった。
彼女の名前は日野廻。名前が読みづらいから、確か日と廻りでかけて、ひまわりとあだ名で呼ばれていた。
少なくとも、中学ではそうだった。
私と日野さん、あと神峰は、中学の時に一緒だった。同じクラスになったのは二年の時だ。
私はずっと、喋りたくない、嫌いだと思った人と喋らないようにしていた。それは小学生の時から一貫して続けていた、私なりの処世術だった。
喋らない、反応をしない相手に対しては、誰も関心を持たない。もし悪意を持たれて、悪口を言われたり、水をかけられたり、殴られても、何の反応もしなければやがて飽きる。たまに反応しないことを良いことに、好き放題やる馬鹿がいるが、そういう奴は一発殴ってやればすぐに逃げ出すから問題ない。
仲よくしようなんて思わない。嫌いな奴とは、口も聞きたくなかった。
そういう風に選り好みをして生きる私が、神峰は嫌いだったみたいだ。あんたのすました態度が腹が立つと、何度もちょっかいをかけてきたので、何度も殴り倒して泣かせてやった。最初はそれで終わると思った。だけど、彼女は究極の馬鹿だったようだ。
彼女の嫌がらせは卒業まで終わらなかった。取り巻きもいなくなって、みんなから距離を取られるようになってからも、ずっとだ。
高校になってからもそれは続いている。正直、最近は相手をするのが疲れてきた。
「うっせぇぞひまわり。こいつが私を無視するのがいけないんだ」
「で、でもそれは、ギンちゃんが凪さんを殴るから……」
「だから、こいつが無視するからだって、言ってんだろ!すっこんでろ!」
「……はい」
私たちから距離をとり、隅っこで座り込み泣き出す日野さんを見て、なんだか懐かしいなと思った。
小学生の時の私にそっくりだ。この展開は今まで何度もあったことだけど、こんな感傷を抱いたのは今回が初めてだった。花音の顔を久しぶりに見たから、ノスタルジーを感じているのかもしれない。
「あ?なにニヤニヤしてんだお前?気持ち悪い」
「……うっさいなぁ。久しぶりに、懐かしさってやつを感じてるんだから、黙ってよ」
「ようやく喋ったな、凪。なんだ?なんだって、懐かしさ?あははは!この状況がどう懐かしいんだよ。何お前、もしかして昔からいじめられてたのか。万年いじめられっ子とか惨めになんない?」
「別に。惨めだとか悔しいとか、もう感じ飽きたよ」
「何かっこつけてんだ蛆虫。凪ー。ここには人は来ないんだ、私が飽きるまで、」
「凪、って言った?」
その声は聞きなれた懐かしい物なのに、とても威圧的で、思わず怖気てしまった。
神峰の後ろに、花音が立っていた。瞼を心配になるくらいに見開いて、神峰を凝視している。
「な、なんだお前」
「答えて。凪って、今言ったの」
「お前には関係、」
「答えろよ!」
花音の小さな体から出たとは思えないほどの大声に、びくりと神峰が震える。私を踏みつける力が弱まったので、私は彼女の足を押しのけて立ち上がった。
ああもう。こんな状態で、話したくなかったのに。
「あ……」
私の顔を見た花音がピタリと固まる。私も同じだ。どんな顔で、何を言えばいいのか、さっぱりわからなかった。だけど。
「ごめん、花音……。あの時、呪うなんて言ってごめん。花音は、何も悪くなかったのに……」
何度も何度も、会ったら伝えようと思っていた言葉だけはするりと、口から出てきてくれた。
ずっとずっと、肩に乗っていた重みが軽くなった気がする。花音を傷つけた過去が、変わるわけじゃない。だからもしかしたら、この言葉も花音を不快にさせるだけかもしれない。
「何を今更って思うかもしれない……だけど、どうしても伝えたかった。私は花音のこと、嫌いじゃなかったんだ。あの時言った言葉は、花音に向けてじゃなかった……あれはただの、八つ当たりなの」
「…………何を、言っているの」
ゆっくりと、花音が近づいてくる。拳はぎゅっと握りこまれ、ぷるぷると震えていた。
「凪ちゃんは、私のことが嫌いで……憎んでいて……殺したくて殺したくてしょうがなかったんでしょ。あの時そう言ったじゃない」
「違うの……」
「違うって何……?なんで。なんでそんなこと言うの。凪ちゃんは私のこと、呪ってるんでしょ」
「なんで、って」
なんだか、変だ。てっきり責められてるんだと思っていたけど、それにしては聞き方がおかしい。なんだかただ確認のためだけに聞いているような、そんな声音だ。
「言ったよね。お前を呪う。毎日呪う。死ぬまで呪うって。転校先がここだったのも、凪ちゃんが私を呪ったからなんでしょ。私を殺したいから、私がここに来るよう呪ったんでしょ。私が惨めに死ぬところを、見たかったんだよね」
「……花音?」
花音が、怖いと思った。一切の抑揚もなく、呪う、死ぬ、殺すと言葉に出す花音には、かつての明るかったころの面影がまるでない。
もしかして花音は本気で、あれから毎日私が呪っていると思い込んで、今日まで生きてきたの?だとしたら、彼女は今私の前で、何を考えているの?
「おい、横から急に出てきてなんなんだよ、お前」
神峰が花音に向かっていく。もしかしたら花音まで殴るつもりなのかと思い、止めようと足を一歩踏み出した。
その時キラリと、花音の前で何かが光り、神峰が動きを止めた。何事かと思い近づくと、そこにはカッターナイフを構えた、花音がいた。
「ひ、ひいぃ!?」
「花音!」
後ずさる神峰を庇うように前に出る。花音はかくんと首を傾げた。私の行動の意味がまるで分らないと言う風に。
「その人は……凪ちゃんをいじめたクズでしょ……?なんでその人を、凪ちゃんが庇うの?」
「庇ってない!こんなクズ庇うわけないでしょ!でも、花音がそれをおろしてくれないと、こっから動けない」
「わかった……その人に脅されてるんでしょ……。大丈夫だよ凪ちゃん。今度は絶対守るから」
「花音……」
花音は歩みを止めない。虚ろな表情で向かってくる花音には、何を言っても無駄な気がする。
「神峰さっさと逃げて!大嫌いな私と一緒に死ぬとか嫌でしょ!」
「え、え?し、死ぬの、私」
神峰の足がガタガタと震えだす。あれじゃ動けなそうだと思い、日野さんに引っ張ってもらおうとあたりを見回したが、彼女も彼女で隅でガタガタと震えている。
ああもう、どいつもこいつも、普段の威勢はどこに行った!ちょっと相手が強気になったら、びびって固まって、情けない!
私がなんとかしないと、たぶんみんな酷い目にあうのだろう。
なんで!せっかく昔の友達に会えたのにその人を殴らないといけないの!?
「うぅ。花音、ごめん!」
「え、」
怒りのままに、花音の手首を思いっきり蹴り上げる。握られていたカッターナイフがくるくると宙を舞い、遠くに落ちた。フラフラと歩く花音は隙だらけだ。勇気さえあれば、こんな簡単に片が付く。
花音を押し倒し、抱きしめるような形で組み伏せる。その時、花音がとてもやせ細っていることに気づいた。私が抑え込んでも、ほとんど力が返ってこないのだ。
「凪ちゃん離して。あの人たちが逃げちゃう」
「逃がすためにやってるの!花音、転校した後何があったの。ごはん、食べてるの」
「食べてるよ。だって私が死んだら、凪ちゃんが呪えなくなるじゃない」
「……呪ってないよ」
「え」
花音の体が強張る。私はまずいかもしれないと思いながらも、元の花音に戻ってほしくて、本当のことを話した。
「花音が転校した日からずっと、私には罪悪感だけがあった。ずっとずっと、ごめんなさいって思ってた。一日だって、呪った日なんてなかったよ」
「嘘、嘘よ。じゃあなんで?なんで?なんで?なんで?なんで?」
「なんで私は呪われているの。なんでお母さんはおかしくなったの。なんでお父さんは私を殴るの。なんでみんな私をいじめるの。なんで先生は私を無視するの。毎日ちょっとずつ不幸になって、私の大切な物が少しづつ無くなっていくのはなんでなの?」
「花音……」
「当然だと思ってたのに!酬いだって!凪ちゃんを見捨てたから、こんな酷い目にあっているんだって!凪ちゃんが毎日私を呪ってるから、私の毎日はこんなに苦しいんだって!呪ってないなんて嘘よ!嘘よ嘘よ嘘!」
泣き叫ぶ花音。転校してから、彼女には不幸なことがたくさんあったみたいだ。そしてその不幸は全て、私が呪っているからだと思い込んでいた。
「……ごめん」
「なんで凪ちゃんが謝るの……?私が全部悪いのに……なんで……」
神峰たちが逃げたのを確認して、私は花音から離れた。花音の目は私ではなく、虚空を見つめていた。
「……凪ちゃんは、あの人たちにいじめられているの?」
「……そうだったら?」
「絶対に許さない……そうだ……元はと言えばあんな人たちがいるから……」
ぶつぶつと何かを呟きながら、フラフラと頼りなく歩いていく花音は、まるで鎖で繋がれた囚人のように見えた。私は花音が変わってしまったことが悲しくて、何も言えずにその場に立ち尽くした。
○○○○○
次の日、私は普通に学校に来た。花音も来た。私が声をかけても、花音の目は虚空を見つめていて、まるで聞こえていないようだった。
ただ、神峰と日野さんの二人は来なかった。日野さんの家からは体調が悪いと電話があったが、神峰の家からは何の連絡もなかったそうだ。
私はもしかしたら、神峰は花音に殺されたんじゃないかと、思ってしまった。