毒を盛るなら最後まで
あ、これキスする流れだ。
映画なんかでよくあるワンシーン。目と目が合って、どちらともなく唇が重なる。そんな瞬間。
◇
チキン南蛮を作ろうというのにうっかり酢を切らしてた。歩いて五分の距離にあるコンビニに駆け込んだ、その帰り。たまたま視線を向けた通りの向こう側にある小さなタバコ屋の前にいたのは、知らない女と知ってる男。
わたしより少しだけ背が低くて、毛先がくるんと丸くなった女の可愛らしい顔を街灯が無遠慮に照らしている。向かい合って立つ男は今朝、家を出た時と全く同じ服装で笑顔を振りまいている。高校時代からの友人、佐藤君と遊びに行くという話だったが、いつから彼は彼女になったのだろう。共通の友人なのだから、教えてくれてもいいのに。
立ち止まってしまったので、買ったばかりの酢のボトルを握りしめたまま二人の様子を観察することにした。幸いにも鶏肉は下処理を済ませた状態で待機している。急ぐ理由の最大値である男は今、わたしの視線の先で見知らぬ女と語らっているので問題ない。
男の言葉に、女が笑う。古びたタバコ屋の前だというのに、揺れる毛先の愛らしさは少しも霞まない。顔を上げた女と、女を見つめる男の視線が交錯した。
徐々に近づく距離。男が女の頬に手を添え、女は察して目を瞑る。空気でも読んだつもりなのか、街灯がわざとらしく点滅した。次に明るくなった時、二人の唇はしっとり重なっていたのだから笑ってしまう。
事実、ははは、と口端から乾燥した笑みが漏れた。
踵を返し、家へ帰る。網膜に焼きついた二人のキスシーンを反芻しながら、鶏肉に小麦粉を振り、卵にくぐらせ、熱した油の中へ横たえる。揚がるまでの時間で南蛮ダレを作り、キャベツを千切りにしていく。今日のタルタルソースは歴代三位くらいの出来だ。
冷蔵庫の中に残っていたプチトマトをざっと水洗い。おいおい、浮気にしては家から距離が近過ぎるんじゃないかな。この胡瓜いつから冷蔵庫で寝てたっけ。まあ、いいか。隠れてコソコソ、遠距離で密やかに行われる裏切りだという先入観を利用して、裏をかいたつもりだったりするのかしら。そろそろ包丁を研がないと、切れ味が落ちてきたなあ。
入り乱れる感情に反して、体は機械的にチキン南蛮を仕上げていく。米も炊けた。味噌汁を温め直し、いよいよ完成だ。
タイミングよく、スマートフォンの液晶に『もうすぐ帰るよ』とメッセージが表示された。そりゃあ、歩いて五分の距離にいたんだもの。あの女と次の約束を取り付けて別れたとしても、時間としては十分だ。むしろ『遅くなるよ』なんてメッセージが届いたら、研いだ包丁の切れ味をあいつで試すところだ。
「……」
濡らした布巾で清潔にしたローテーブルに、完成した食事が二人分きちんと並ぶ。同棲を始めて以来、ずっと続いている光景だ。
どうしてこうなったのか。付き合う理由がよくなかったのだろうか。恋だとか愛だとか、希薄だったから。きちんと気持ちを言葉にすることもなく、惰性で一緒にいたから。考えても考えても、正解なんてわかるはずもない。
「はぁ……」
理由が何であれ、あいつは今わたしの他にもキスする相手がいる。それを残念だと、寂しいことだと、思う気持ちが薄いことが何よりわたし達の関係の希薄さを証明しているような気がして、溜め息はますます重くなった。
◇
漫画みたいな話だ。家が隣同士で、母親同士が仲良しで、親の仲良しに巻き込まれた子どもがわたし達だった。
あの子をよろしくね、仲良くしてね。魔法の言葉に渋々ながら付き合って、小学校は一緒に通った。中学生になった頃からじわじわと突入した思春期は、友人達との合流地点までと一緒の時間を短縮し、高校生になってからはわざと時間をずらすまでもなく、部活の朝練を理由に別々に通うようになった。しかし言っても家が隣同士。一切の接点なく過ごすなど不可能で。親同士の用事を押し付けられては互いの家を行き来したし、休日に互いの家の前で友人同士がかち合ってそのまま成り行きで団体になって遊びに行くこともあった。
つかず離れず。何だかんだと関係は続いた。後戻りできなくなったのは、口裏を合わせたわけでもないのに進学先の大学が被った時だろう。奇しくも下宿先まで近所とあって、二人して腹を抱えたものだ。
ここまで来たら、もう離れる方が違和感あるよな。どこまで一緒にいられるかやってみようか。
そんな言葉で始まった、幼馴染から恋人と名前を変えた関係は、思ったより快適だった。
互いの欠点も失態もマヌケも、おねしょした布団まで見合った仲だ。今更、恥を上塗りしたところでどうということはない。
楽な関係、気楽な相手。
些細な言葉選びの間違いも、余計な一言も、変わらないな、なんて安心する要因になっていたりするから喧嘩にもならない。何度言っても丸めたまま洗濯機に放り込まれている靴下を見ても、あいつは昔からこういうところに頓着しないずぼらだったと思うだけ。食事のあと、いつまで経っても出しっ放しの調味料を見ても、次の手間を省いているとスルー。協力プレイのゲームで連続するミスは、お前は昔からゲーム下手だな、と笑って流してくれる。ゴミ出しの日に限って寝坊しても、ゴミ出しの日はまた来る、とアイコンタクトで毛布を被り直す。
喧嘩もない、けれど愛を囁き合うことはもっとない。
安定と平穏だけがある日々は、波乱もないが刺激もないのだ。浮気したあいつの気持ちもわかる。……――いや、わからんが?
わかるはずないが?
だってわたしはこれまでずっと、真面目にあいつ一筋で生きてきたもん。
そりゃあ、燃え上がるような感情がある関係じゃない。近くにいることが当たり前に感じるくらい、無駄にずっと一緒にいた。友人達が嬉し恥ずかし姦しく語る恋人との惚気や恋の悩みは、わたしにとっては少女漫画と同じくらいフィクションで。長電話で愚痴られる恋人や夫への不満や苛立ちも同じだけフィクションであったから、自分とあいつの関係を省みることもなかった。
幼馴染の延長戦で恋人になって、男女の友情よりも社会的にわかりやすい名前を付けただけの関係。結婚してもきっと何一つ変わらないであろう生活に、二人して書類一枚もらいにいくのを億劫がっているうちに、あいつは他にキスする相手を見つけてしまった。
「どうしよう……」
どんな顔して迎えればいいだろう。おかえり、ってどんな感じで言ってたっけ。たった数分間の出来事で、何年も続いた日常のやり方を忘れてしまった。
深々と溜め息を吐き出して、無意識に玄関へ移動する。U字ロックに手を伸ばし――鍵が開いた。慌てて下がる。
たっぷり間を開けて、そっと、やけにゆっくり扉を開けて帰って来た彼は、わたしの姿を認めた途端、深く息を吸った。
「ごめん!」
爆音のような声が響き渡った。鳥が一斉に飛び立って、耳の奥がキーンとする。
土下座だ。今朝、寝癖も直してないわたしにキスして出かけて行った男が、ついさっき知らない女とキスして帰って来た男が、玄関で土下座していた。
「……とりあえず、中に入って」
近所迷惑、と手を差し出すわたしを泣きそうな顔で見上げて、しかしすぐに土下座の姿勢に戻ってしまった。
「駄目。今、ここで聞いて」
「……じゃあ、扉だけ閉めて」
上半身は玄関、下半身はまだ外だ。お願い、と付け加えると観念したのか、立ち上がって扉を閉めてくれた。鍵もかけて、そうしてまた土下座する。
「チキン南蛮、冷めるよ」
「ごめん。でも、お願い聞いて」
決意は固そうだ。しかたなく聞くことにして、その場に座り込む。
「ごめん、って、何が?」
さっきの女に乗り換える……否、乗り換えが済んだから古いわたしとはさようならってことだろうか。だとしたら、包丁を洗ってしまったことが悔やまれる。食器乾燥機内の包丁は、人を刺すほど握りしめるには熱すぎる。
「今日、佐藤と遊びに行くって言ったじゃん?」
「うん」
「でも急に来られなくなったらしくて、代打で高橋が来た」
高校時代の、確か先輩だったかな。わたしはよく知らない人だ。野球部だったってことくらいしか覚えてない。
「昼飯の時にお前の話になって、まだ続いてるって、切れたことないって言ったら……タバコ吸ってくるって出てった高橋が女になって戻って来た」
なるほど。あの女は佐藤君じゃなくて高橋って人だったのか。どうりで見覚えがないはずだ。いや、佐藤君でも見覚えがあるわけないんだけど。……短気を起こして佐藤君に電話しなくて良かった。無関係の人にうっかり殺害予告をするところだった。
思考が乱れる。思ったより動揺して、予想外に緊張しているらしい。
「高橋に連絡しても楽しめって言うばっかで意味わかんねえし、女の方も似たようなもんだし……」
初めてできた恋人とズルズル続いて、他の女を知らない。他人が見ればそれは、随分と退屈で飽き飽きしていてもおかしくないことなんだろう。
小学生の頃からの付き合いだ。互いの顔だって見飽きたと思われても仕方ない。でもだからって、浮気の斡旋をすることはないだろう。それも、わたしより愛嬌のありそうな可愛らしい女を引っ張り出して。
「それで? 楽しんだの?」
「楽しくなかった」
楽しもうとはしたのか。頭を下げていてくれてよかった。眉間にしわが寄ったと、自分でわかった。
「彼女が待ってるからって断ったけど、家が近いってくっついて来たんだ。同じ電車だから逃げるのも無理だったし。でもそいつ、ずっと喋ってるし腕とか組んでくるし、そのくせ暑いって文句ばっか」
それは気を引ける話題を探して、ボディタッチで男の本能を釣り上げて、女の武器で自分を安売りしていたんじゃないだろうか。商店街の八百屋のおっちゃんだって、もうちょっと控えめなお買い得アピールをすると思うけど。
ドラマで見たことある。あと友達の合コン話で数回、そういう女が生息していることを聞いた。まあ、こいつは美人な母親に似て容姿は整っているから、そっち目的の女なら蚊みたいにぶんぶん寄ってくる。
「近所のタバコ屋で別れたんだけど、その前に……その、」
そこからは知ってる。キスしたんだ。
「髪に葉っぱついてたから取ってやったんだけど、そしたら目を閉じて俺の方見るから、つい……」
「つい?」
つい、キスしちゃったってか。これまでずっと、その手のアピールを一切合切スルーしてきた鈍感さをどこに落っことしてしまったのか。まったく情けない。所詮は可愛い女にコロッと転がされる程度の男だったということか。
眉間のしわがいよいよ深くなる。剣呑な空気を察してか、床に擦りつけていた顔がおっかなびっくり持ち上がった。
「すっげぇ映画みたい! ってテンション上がっちゃって、気づいたらキスしてた」
しゅん、と眉を下げた姿に、頭が真っ白になった。
違う、そうだった。こいつはとんでもなく鈍感で、そのうえ、ろくでもない大馬鹿野郎だった。せっかく色男に産んでもらったのに、中身は小学五年生の頃が楽しいあまり成長を止めたんだった。
下手にわたしと恋愛ごっこしたのがいけなかった。肉体面では大人になった男女が一つ屋根の下で、恋人と同棲、なんて状況を共有していればもちろんそういうことにもなる。そういう雰囲気になればキスをする。小学五年生だって、読める空気の一つや二つはあるのだ。相手を確認する基本はすっぽ抜けたようだけど。
「それからどうしたの」
機械的に続きを促す。
頭の中はこいつへの呆れでいっぱいだ。どうしてくれよう、この男。バカ過ぎて溜め息も出ない。
「映画みたいな体験した事実をお前に早く話したくて、すぐ帰った。腹も減ったし」
「その子は?」
「置いて帰った。家は近いんだし自分で帰れるだろ」
多分、家が近いというのは方便で、あんたと一緒にどこかにしけこむ気だったと思うよ。夕飯、ホテルと持ち込むには絶好の時間だし。
「何て言って別れたの?」
「帰る、って、そんだけ……そういや、すげえ声でなんか言ってたな」
怒ってんだよバカ野郎。ついに落ちた、と思った矢先に置き去りにされたんじゃ誰でも怒る。彼女がいる男が相手とか、そんな理屈はこの場合、関係ない。キスまでして期待を煽られたんだから、彼女の怒りは相当なものだろう。家がどこかは知らないけど今からそこまで一人で帰ることを思えば、惨めさで涙が出るかもしれない。
まあ、フォローが必要か、と問われれば、放っとけバカ野郎って気分だ。何もないところで躓いてコケろ。
「その子のことはいいんだよ! そうじゃなくて! お、俺……鍵を開けたとこでようやく自分が何したか理解したっつーか、その……ごめん」
マジかこいつ。ありえない。救えない。こいつ、こんなにバカでこれまでどうやって生きてきたんだろう。不思議でならない。
ああ、でも昔も似たようなことあったな。テレビで観たバッタライダーの必殺技がカッコ良かったからってジャングルジムの天辺から実演してきちんと骨折したり、動物園で見たペンギンの真似してワックスかけた廊下を延々と滑りまくって一晩でワックス剥がしたり、遊びに夢中になってトイレを後回しにしまくった挙句に漏らしたり。一つの気持ちが高まるとそればっかりで、周囲も常識も見えなくなる。……バカ過ぎるな、こいつ。
「あ、あの……ごめん。もうしません。許してください」
そりゃあ、二度目があって堪るか、って話ではあるけど、わたしはまだそこまで話を進められない。
「目の前にいる女が、わたしじゃないって気づかなかった?」
その場のテンションでうっかりキスするには、あの子はちょっと可愛らし過ぎる。きつい、と言われるわたしの顔とは違って、愛らしさを塗りたくってた。街灯の点滅で見間違えるにしても無理があるだろう。
小学五年生だって、気を引こうと意地悪する相手を間違えたりしない。興味のない女の子への対応は、それなりのものになる。
「お、俺――」
「わたしでなくっても良かった?」
映画みたいな場面に遭遇して、うっかり流される相手は別にわたしでなくても構わない。幼馴染との日々はほとんど惰性で、気楽で都合がいいから。気を遣うにしても他ほどじゃないし、うまくやっていく方法なら染みついてる。
普通の恋人同士みたいにはできないけど、普通の夫婦より順風満帆だから。フィクションの恋愛を演じる相手はわたしでなくてもいい。
「可愛い子だったもんね」
わたしの言葉で、彼の顔から血の気が引く。
「お、お前……見て……」
「酢を切らしててコンビニ行ったのよ。その帰りに偶然ね」
はくはくと言葉にならない声を出そうと口を動かす彼は、冷や汗びっしょりになって震えている。
「ご、ごめん俺……俺、」
「いいわよ。この顔も見飽きたでしょうし、人生で経験したキスの相手がお母さんとわたしだけってのも寂しいわよね」
「何で母さんをカウントすんだよ!?」
「小一の時にお母さんにキスされてたって、中三の時に暴露されたショックで、家に来て拗ねてたでしょ」
ファーストキスが母親とか立ち直れねえよ、って膝を抱えていた。夕飯はハンバーグだよ、って誘ったらすぐ機嫌を直したけど。
「お前はいっつも俺のダサいとこばっかり思い出す!」
「あんたの八割はダサいでしょ」
「残りの二割は!?」
「バカ」
「散々じゃねえか俺! よく付き合ってられるなお前!」
「ほんと、よくやってるわよね。浮気現場を見ても、ちゃんと夕飯を用意してるし。あんたが言い出さなきゃ、このまま知らん顔して死ぬまで付き合ってたわ」
わかりやすく動揺した彼が、怯えたように肩を揺らした。
「言い出さなきゃ、って……じゃあ、言っちゃった今は……」
もう付き合ってくれないの?
泣き出す前の子どもみたいに顔をくしゃくしゃにして、消え入りそうな声で問うてくる。
「さあ、どうかしら」
強い言葉で責め立てる気分ではない。でもあっさり許すには気分が悪い。どうしたいのか、自分でもよくわからない。
「あんたはどうしたいの?」
テンション上がればうっかりで別の女とキスできるような関係のわたしと、一体どうなりたいの。土下座するほど後悔して、玄関先で謝罪するほど反省してまで。
「俺? 俺は……」
考え込む、というよりは言いにくいような雰囲気で視線を泳がせ、ややあって口を開いた。
「一緒のお墓に入りたい、です」
違う、そうじゃない。そんな先の話はしてない。
何だ、一緒の墓に入るって。どこまで一緒にいるつもりなんだこの男。確かに、どこまで一緒にいられるかやってみよう、とは言ったけど、ゴールまで考えてるなんて聞いてない。婚姻届けの一枚もらいに役所まで出向くのだって面倒がってたくせに。
「え、あ……駄目!? 俺のこと嫌いになった!? 許せない!?」
返事をしないわたしにどう思ったのか、急に取り乱して縋りついてきた。激しく肩を揺さぶられる。
「わああああ! ごめん! ごめんなさい! 嫌わないでえええ!!」
脳が揺れる。
そんな大声で嫌わないで、って言われても。
「反省した! 二度としないから! 誠意の証明に、えっと……そうだ! 俺のちんこ切り落としていいから!」
燃え上がるような感情もなく、幼馴染の延長戦でぐずぐず続いてる関係だ。嫌いじゃないけど、フィクションで見かけるような気持ちがあるかと問われれば、そんな自信はない。ごっこ遊びみたいな恋だという自覚がある。
告白らしい始まりもなく、好意を伝え合うイベントもなかったから。
「……好きかどうかも、わからないわ」
揺れが止まった。
「そ、そうなの?」
なんて情けない声を出すんだろう。それじゃあまるで、わたしの方が悪役じゃない。不誠実はお互い様でしょうに。
「で、でもさ……俺と離れること、ちょっとは寂しいだろ? さ、ささ寂しんでくれるよね?」
ひどく狼狽している。否定したら泣き出しそうだ。
どうだろう。寂しいんだろうか。これまでずっと隣にいて、一緒にいるのはもう当たり前で、日常の一部になってる。おはようもおやすみも、いただきますもごちそうさまも。当たり前を、日常を、わたしは捨てることができるだろうか。
「俺は寂しいよ……?」
今ここで別れを告げたとして。
冷めたチキン南蛮を二人分、温め直して一人で食べる。耐えられるだろうか。美味しくできたタルタルソースを自慢もできず。二人分は多いなとか、片方は明日の夕食にしようとか。そんなことを考えながら食事を終えて、いつもはあいつがしてくれるのに、とか思いながら後片づけをして、お風呂に入って、眠って。明日の朝、いつもと同じように目覚める。おはようと伝える相手がいない朝を、わたしはどう思うだろう。――決まってる。
「寂しい。寂しいに決まってる」
本当に大切なものは失って初めて気づくという。では、わたしにとって、こいつは本当に大切なものではないのだろう。だって、失くした場合を想定するだけでこんなにも辛い。それでも、本当でなくとも一番でなくとも唯一でなくとも。
「今更、離れられないもの」
失ってから後悔するより、そばにいる間に大切にしたい。
「一人の生活なんて、もう忘れちゃったわ」
「俺も。お前に嫌われたら、きっと生きていけない」
それは大袈裟だろうと思うのに、どうしてか言葉にはならなかった。
「ごめん、本当にごめん。俺、これからはちゃんと考えて行動できる男になるから」
「……そうね。それは大事なことだと思うわ」
これまでの人生、一体どれだけ考えなしに行動してきたんだろう。その場のテンションで生き過ぎなんだこの男は。
高校時代は庭で焼き芋をしようと張り切って庭ごと燃やした。大学時代はタコ焼き機でアヒージョをして、跳ねたオリーブオイルに驚いてカセットコンロごとひっくり返して危うく火事になるところだった。楽しくなっちゃって、浮かれて、深く考えず感情に任せた結果、数えきれないほどの失敗をしてきたくせに。
くしゃくしゃになった顔で、彼がわたしの手を取る。情緒が限界に達したのか、しくしく泣いている。
「大事にするから、一緒の墓に入ろう?」
お願いします、なんて。べそをかきながら頭をさげる姿があんまりにも頼りなくて、情けなくて。
「……ここまで来たら、最期まで付き合うわよ」
返事はほとんど溜め息になった。
プロポーズくらい普通のものにしてほしかった。漫画もアニメもゲームも好きなくせに、ちっとも学んでない。今度、恋愛ものの映画でも観に行こう。
「あ、あのさ」
「何?」
「愛してるよ」
こんな時にそんな言葉、卑怯だ。こっちはもう、絆されることを受け入れているのに。
男は態度で、女は言葉で。こんな時ばっかりフィクションから学んでくれちゃってさ。……まあ、大事にしてくれるらしいから、せいぜい頑張ってもらおう。
「わたしもよ、多分ね」
「へへ、ありがとう」
あ、これキスする流れだ。
映画なんかでよくあるワンシーン。目と目が合って、どちらともなく唇が重なる。そんな瞬間。――調子に乗るな。
「お墓の件はともかく、キスは嫌よ」
「え……」
何でびっくりしてんのよ。
「知らない女とキスしたばっかりでしょ。歯磨きして」
「そ、そんなあ……」
「お風呂にも入って。服はすぐ洗濯して。でもわたしの服と一緒に洗わないで」
「そ、そんな思春期の女の子みたいな……」
「別な女とキスしたこと、あんたのお母さんに報告しようか?」
「やめて!?」
悲鳴のような甲高い声が響いた。よっぽど嫌だったのか、涙が引っ込んでいる。それどころではなくなったらしい。
「風呂入ってくる。歯磨きして、パジャマに着替えたらキスしよう」
キスの予約すんなバカ。
「あ、あの……ごめん、本当……俺まったく考えなしで。反省しました」
見ればわかる。
「ちんこ切り落とす?」
「家にある鋏じゃ小さくてすごく痛いだろうし、切り落とす前に死ぬわよあんた」
「じ、じゃあ明日、ホームセンターで大きい鋏を買ってくる」
切り落とす気か。嘘でしょ。
「反省したのはわかったから、そこまでしなくていいわよ」
ちょっとした事件になるでしょ、そこまでしちゃったら。警察沙汰になったらどうすんのよ。
「次はないって覚悟の証明だから、とりあえず鋏は買いに行く」
何でそこまで……。頑固というか、そんな意固地にならなくてもいいでしょうに。
「わかったから、早くお風呂済ませてよ」
「そうだな。キスしたいし」
「お腹空いたのよ!」
小走りで浴室へ行く背中を思い切り引っ叩く。振り返らなくても、ニヤついてるのが丸わかりだ。
ムカつく。
手で顔を扇ぐ。これじゃあまるで、わたしが照れてるみたいじゃない。誰が、あんなバカとのキスにはしゃぐもんですか。
「……ムカつく」
◇
翌日、佐藤君から電話がかかってきた。
「はい、も――」
『ごめん! 高橋のバカがバカやったって聞いた! 本当ごめん!』
何だろう、第一声で謝罪することが流行っていたりするんだろうか。
「その件なら解決したから、佐藤君が謝ることないわ」
『解決って……え、まさか別れた!?』
「何でそうなるのよ」
『電話してんのに出ないんだよあいつ! 生きてる? あいつ生きてるよな!?』
想像力が逞しいにも程がある。
「生きてるわよ。身の潔白を証明するとか言って、スマホを置いて行ったの」
わざわざ証明してもらわなくても信用してるし、そもそもパスワード設定してあって見られないから充電器に繋いでベッドの上に放置してる。
『どこに? まさか樹海に?』
「ホームセンターに」
何だ、樹海って。今は生きてるけどこの後はわからない、的な展開だろうか。
『ホームセンターに何を買いに行ったんだよ! ロープか!?』
「鋏」
『鋏!?』
「次はないって証明に、自分のナニを切り落とす道具を買いに行ったのよ」
『どういう思考回路だそれ』
わたしが聞きたい。
朝、わたしより先に起きて朝食のフレンチトーストとベーコンエッグ、サラダ、コーヒーを用意してくれたあいつは、昨日の宣言通り、すぐ戻るって財布と鍵だけ持って本当に出かけて行った。
『はぁ~~……良かった別れてなくて』
「ご心配どうも」
何で佐藤君がそんなに気にするんだか、さっぱりわからない。
『あ、そうだ。高橋のバカには制裁を加えといたから』
「具体的に」
『歴代彼女と歴代浮気相手の巣に放り込んできた。玉を潰すって張り切ってたから、次に会う時は女になってると思う』
「えっぐい罰ね。ざまあみろ」
ブラジャーをプレゼントしてやるわ。
鼻で笑ったわたしの声を聞いて、佐藤君は深々と安堵の息を吐き出した。
『……別れず解決したってことは、やっと前進した感じか?』
「前進?」
今度は深い呆れの雰囲気を感じさせる溜め息がこぼされた。
『もういい。近いうちに俺が役所に行って婚姻届けもらってきてやるよ。記入も見届けるし、保証人になるし、提出もやってやるから』
「待って。急に何?」
すぅ、と深く息を吸う音がする。
『急じゃねえよ! お前らいつまで幼馴染ごっこしてんだよいい加減にしろ! 飲みに行くたびにあのバカから、一緒の墓に入りたいけどなんて言えばいいだろう、とかくっだらねえ話を延々と聞かされる俺の身にもなれ! 最近なんてお前らのお袋さんから、いつになったら結婚すると思う、って催促の電話がかかってくんだよ! 俺に!』
意味わかんねえ! と、血を吐くような大声が鼓膜に突き刺さって、耳がキーンとする。とっさに耳からスマートフォンを遠ざけたのに、声は問題なく耳朶に噛みついてきた。
「えーと、……なんか、ごめんね」
『悪いと思うなら結婚しろ。どうせお前ら墓まで一生一緒だよ。お前に捨てられたら、あいつその場で心臓が止まるぞ』
本人もそんなこと言ってたけど、他人から聞かされると恥ずかしいな。
『何だよ、婚姻届けもらいに役所まで行くの面倒だな、って。どんだけ余裕だよお前ら。普通のカップルは互いの愛を逃がさねえよう必死なんだぞ』
「うん、ごめん」
『あいつ帰ってきたら電話するよう言ってくれ。婚姻届けは週末にでも届けるよ』
……本気だな、佐藤君。
『本当、悪かったな迷惑かけて』
「こちらこそ」
知らないところで知らない内に迷惑をかけていたようで、申し訳ない。
じゃあまたな、と佐藤君の簡潔な挨拶の後、電話が切れた。腰かけていたソファーに深く身を沈め、いつの間にか集中していた顔の熱を溜め息で散らす。
――ああ、もう
「たっだいま~~!」
ものすごい音を立てて開け放たれた玄関の扉に、ソファーからお尻が浮いた。
「なあなあ見て見て!」
じゃーん、と。
部屋に駆け込んで来た彼の手には抜き身の鋏があった。本当に買って来た。しかも大きい。
「切れ味抜群だって! 肉が切れるやつって言って探してもらったから、多分ちんこも切れる!」
「おかえり……」
何で嬉しそうなのよ……。
自分のナニが切り落とされる恐怖については、ほんの少しも考えてないって顔だ。やっぱバカだこいつ。
もういい。キッチンバサミも新調したかったし、ありがたく使わせてもらおう。……ソーセージを切って見せれば少しは自覚するかしら。
「えっへっへ~もう一個」
じゃじゃーん、と。
高く掲げたのは一枚の紙。二人して億劫がって、後回しにして、ついさっき佐藤君に叱られた、婚姻届けが彼の手にあった。
「……」
「あれ? どうした? ……~~~~っっ引いてる!? 俺、調子乗り過ぎ!?」
わあああごめん、と途端に泣き出した彼の胴に頭突きする。ちっっがうわバカ!
「……れてんのよ」
「え、何?」
照れてんだよバカ。一回で聞き取れバカ。
彼の腹に頭を押しつけたまま、胴に腕を回して動けないよう固定しつつ考える。
一回でも絆されたらこの様だ。恥ずかしい、情けない、だらしない。
何で役所に行っちゃうのよ。何でもらってきちゃうのよ。何で嬉しいのよ。週末どんな顔して佐藤君に会えばいいのよ。バカ丸出しじゃない、わたしのバカ。……まあ、佐藤君の分はほら、書き損じた時の予備ってことで。ね?
「ねえ、……しなさいよ」
「え、ごめん何?」
わたしの反応についてこられなくて、彼は目を白黒させている。わたしはもう茹るように熱くなった顔を見られたくなくて、自分がどんな顔してるか想像もしたくなくて。
胴に回していた腕を離し、胸ぐらを掴み引き寄せる。勢い余ってちょっと歯がぶつかったけど、そこはご愛敬よ。そんなところも可愛いって言え、バカ。
「ねえ」
拝啓、佐藤君へ。わたし達、結婚します。高橋への贈り物は幸せのお裾分けということでブラジャー単品でなく、ショーツのセットにしようと思います。敬具。
「何?」
「愛してるわ」
幼馴染の延長戦で恋人になって、男女の友情よりも社会的にわかりやすい名前を付けただけの関係だったはずなのに。結婚してもきっと生活は何一つ変わらないと思ってたのに。
「へへ、俺も!」
何よ、ちっともそんなことなさそうじゃない。幸せいっぱいで、嬉し恥ずかし、どうにかなりそうだわ。
フィクションから現実へ。ようこそわたしの恋愛小説。せいぜいフィクションの修羅場を演じず済むように、目一杯の幸せを噛み砕いでおかわりしてやろうじゃないの。
毒を盛るなら最後まで、いざ尋常に、いただきます。