はぐれ熊と不思議なお堂
――やっぷやっぷ! ゆるるるる! やっぷやっぷ! ゆるるるる!
白い雪景色の上を、るりの声が鐘のように響き渡ります。二人は白い息を吐きながら、雪の上を駆けました。
るりはオレンジ色の、コンチキは藍鼠色のコートにおそろいの白い毛糸帽を被った姿です。空は真っ青で、まるで調合したばかりの群青色を惜しみもなく塗り広げたようでした。
るりの足元はさっきと同じにぼんやりと光っていました。るりはあらかじめ用意しておいたお札を使って一日に四つまで、山んばの間に伝わる不思議な術を使えるのです。
「麦の穂を折らずにその上を歩く法」で雪の上を走り、コンチキの姿を「紅葉を錦に変えて身を飾る法」で人間の子供に変えていますから、今日使える術は残りあと二つ、というわけです。
「なかなか調子が良くて元気が出ますけど、これは何の掛け声ですか、るり様?」
走りながらコンチキが振り向いて尋ねました。
「ああ。忘れたけど、もうずうっと昔読んだご本に出て来た、キツネの呼び声だったと思うよ」
「へえ。まるでキツネらしくないですねえ?」
「うん、たしか外国のキツネだったからね」
「なるほど、違うものなんですねえ」
そんな話を交わしながら、二人は町へと向かって山道を下っていきました。
――やっぷやっぷ! ゆるるるる……
少し離れた木立の中、雪の上にこずえを突き出したナナカマドの枝に赤い実がまだ残っているのを、るりはなんだかうれしい気持ちで眺めました。
北の国から渡って来るツグミたちがもっと南へと向かう前に、必ずこのあたりでナナカマドを食べて一休みするのです。枝に積もった雪に映えて、赤い実が本当にきれい――
ドサッ。
雪が落ちる音がぎょっとするほど大きく聞こえて、るりはキツネの鳴き真似をやめて立ち止まりました。静まり返った山道に、るりとコンチキの吐いた白い息がただよっては消えていきます。
どこかから咳き込むような唸り声が聞こえ、雪に深く踏み込む何か重い足音がしました。
「こ、コンチキ」
るりは、辺りを警戒しながらコンチキを小声で呼びました。ぼすッぼすッ、と立て続けに雪の崩れる音がします。
「るり様……?」
「……コンチキ。全力で走るよ、準備して」
「えっ」
不意に強い風がひゅう、と雑木林の間を吹き抜けて、なにか獣のきつい匂いがるりの鼻に届きました。去年の春先、たけのこ山で出会ったイノシシよりも、ずっとずっと強い匂いです。
「やっぱりだ……これは熊よッ――走れ!!」
――わああ!
コンチキは悲鳴を上げながら、あっという間に豆粒ほどの大きさに見えるところまで駆けて行きます。
(足もとに術を掛けておいてよかった)
走りながら、るりは汗ばむ手をぎゅっと握りしめました。
(冬場に熊が冬眠せずに動き回る事って、最近は増えてるらしいけど……!)
雪が降りだす前の晴れた日にも、ラジオのニュースでそんなことを言っていました。もう少し南の土地では、暖かい冬が続いたり山のふもとまで民家が増えたりして餌が増え、熊が眠らずに冬を越せるようになっているのだとか。
でも、この辺りは昔も今も寒さの厳しい、険しい山奥です。こんなところで冬に歩きまわるのは、手ごろな洞穴を見つけられなかった、運の悪い熊に違いありません。
寝不足でお腹がすいてたら、人間だってイライラします。そんな目に遇っている熊は、さぞ気が立っているに違いありませんでした――その証拠に。
匂いに気が付いたとき、熊の心の声は全く聞こえませんでした。山んばには大抵のけものと話ができる力がありますが、餓えや怒りで我を失ったものには、その力が通じないのです。
どさっどさっと音を立てて、近付いてくる気配。どうやら熊は、るりたちに気が付いて追いかけ始めたようです。
(どうしよう、どうしよう……今はいいけど、私が掛けた術もそんなには長くは持たないよ……)
術が切れて雪の中に足が潜るようになれば、あっという間に追いつかれてしまうでしょう。熊の足を止めるとか、るりたちが熊の手の届かないところへ逃れてしまうか、何かそんな良い方法はないものでしょうか?
すると、一生懸命に頭を働かせながら走り続けるるりの耳に、どこからか奇妙な声が聞こえてきたのです。
――こっちじゃ、こっちじゃ、ポンポン!
しわがれた優しそうな声と、小さな太鼓のような音でした。どうやら上の方から聞こえるその声を探して見廻すと、山道を見下ろす小高い土手の上に、雪をかぶったお堂が建っているではありませんか。
あそこまで登ることができれば、熊も追いかけて来られないでしょう。土手の斜面にも雪が積もっていて、そこは平地よりも崩れやすそうになっているようです。ああ、でもどうやって登ればいいのでしょう
すると。お堂の中から二人の前に、ぶらんこの座り板のような物を結びつけた、一本の長い縄が降ってきました。
「これにつかまれ、ってことかしら?」
二人がその座り板にお尻を載せて縄を掴むと、上から誰かのうんうんという唸り声が聞こえました。そうして、縄はゆっくりと上へ引き上げられていったのです。