ベビー・バス
面倒見なさい。のメモを付けられたフランシスを連れ帰って、さんざん振り回されていたアレンだったが、この事件によって生じた2人の関係を修復も、急がねばならない課題だった。
車両部のチーフに小言を喰らいながら、チャイルドシートを付けて貰い、総務のベテランに、当座要る物を揃えて貰って、山のようになった荷物をトランクに詰め込んだ。今後が思い遣られて、溜息が出た。
庁舎を出る時にはぐずっていた赤ん坊は、アパルトマンに着く頃には、座らせていたチャイルドシートに座ったまま、睡ってしまっていた。
起こさないようにそうっと抱き上げて、荷物を抱えたままエレベーターへ向かおうと、何気なく車のドアを閉めた。バタン、と音を立てたドアに、パチッと目を覚ましたかと思うと、怒っているのか顔を真っ赤にしてぅえ~んと、泣きながら、抱いている腕を逃れようと身を捩る。
「…わ!たたた…動くなって!落ちる…」
柔らかいからだが、くねくねとまるで嫌がる猫を抱いているような扱いにくさだった。エレベーターに乗り込んで、ずり落ちかけているのを抱き直して、めっ、と睨むと口をへの字に曲げて睨み返された。
何だか誰かの反応に似てる…
やっとこさ部屋のドアを閉めた時には疲労困憊していた。なんせ小さくてふわふわとして扱いにくい。だが、可愛らしくて、貴重な存在だからこその疲労困憊なのだった。
何て思っている間に、赤ん坊は手を逃れてよちよちと、俺のアパルトマンと言う未知の空間へ歩き出していた。うわっ、走るな。転んだ…赤ん坊の額がガラスのコンソールの角を掠るように落ちていくのを冷や汗と共に見ていた。
小さな足は迷いが無くて、思っているよりずっと早い、あっと思った時には対処しようとしてもまるで間に合わない。
たいへんだ。
哺乳瓶に計量された粉ミルクを入れて、定量の目盛まで湯を注ぎ、蓋を閉めて振り溶かし、流水で人肌まで温度を下げる。手の甲に振り出してみて、熱くないところまで冷やしてからでなければ、火傷させてしまう。
ミルクを作るにもこれだけの工程を踏まねば成らないのかと、溜息が出る程だった。その上、この後、2度目に使おうと思えば、哺乳瓶を殺菌消毒せねばならない。この子は1歳前後には成っているようだからそこまででは無いが、ネットの情報では、新生児は4時間おきの授乳が必要と有った。この繰り返しを4時間おき…
これでは世話をする者は、寝る間も無い。
「子供ってこんなに手間が掛かるんだな…」
ミルクを飲ませて、オムツ替えして、眠って起きて。揃えて貰った離乳食を食べさせて、もう一度オムツを替えると10時を回っていた。
「出来た…」
替え終わって、赤ん坊を抱いたままソファに沈み込むと、目の前に広がる惨状にどっと疲れた。何をするにも拙い段取りと、あやふやな手順で部屋中に物が散乱している。
溜め息を付きつつも、アウルがしていたのを思い出して、肩にかけたタオルに寄りかからせるようにすると、腕の中にすっぽりと嵌まった。
安心感からか、間もなく気持ち良さそうにスヤスヤ眠り始めた。ホッとして見たのを最後に、俺もウトウトしたらしい。
抱えていた腕から赤ん坊が抱き取られた。
アウルが帰ってきたのだと思うと余計に躰から力が抜けた。
座り込んだソファの横が柔らかく沈んで、背にもたせ掛けた頭が傾ぐ。ふわりとサボンの薫りが鼻腔をくすぐり、たった今湯浴みを終えた肌の、しっとりとした手触りを思い起こさせた。
「お帰り」
「ただいま」
応えて、潤った唇が触れた。
啄むように、触れては離れ、離れてはまた触れられ、その度に、離れていくのを止めたくなる。
誘われて、差し入れた手に何も着けない躰が触れた。
深く合わせた唇の中で、絡めた舌が肌を撫でる掌に応えてうねる。襟足を指輪を着けた左手が辿り、髪を掻き上げてより強く引きつけた。
ゆうるりと熱を帯びる躰の奥深くからロズィエ・ドレスが燻り立ち、ヴァーベナの薫りと合わさって、他の何者でも無いミドルノートが現れる。
俺だけに許される恍惚。魂が満たされる。
刹那の声に俺の総ても共に沈んだ。
含んだワインを口移されて、ふ…と、意識が戻る。
「…アレン…」
「愛しています。貴方だけだ。他に何も要らない」
「うん」
傷付いて終う事態は、防ぐ手立ては無いのだろう。だが、痛む傷を癒やすことは出来る。
「おねだりが、上手く出来るように成りましたね」
からかうと、怒る事は変わらなくても、今はもう、何も言わずに済ませてしまわ無くなった。
バスルームまで抱いていって、温めの湯を張ったバスに入れた所で、漸く正気を取り戻したらしい。
「こんな事してる場合じゃ無かった」
「大丈夫。さっき、オムツを替えて、よく寝てますから」
へぇ…と言うように見上げた。
「あの惨状を作った奴が。成長著しいな」
「でしょう?!」
惚けて言うと、アウルが笑った。
嬉しい。
こうして向けられる笑顔が、染み入るように嬉しかった。
「『こんな事』じゃ有りません。大事な事です」
アウルの唇が寄せられて、頬の雫に口付けた。
翌朝、テーブルの上に赤ん坊を座らせて、ヘビーフードを口に入れてやっている。ベテランの準備は抜かりなく、もくもくと口を動かしては、もっとと催促する。
昨夜、入れてやれなかった風呂に、洗面ボウルが成るとは思いもしなかったが、成る程、滑らかな大理石は、淵にタオルを敷いて湯を張ると、赤ん坊用のバスタブと言えなくも無かった。
カモミールのティーバッグを煮だした湯と、石鹸の柔らかな薫りが、目の前の赤ん坊から漂う。
「坊や。美味しいか?!」
聞くと口を動かしていたが、俺を見てにぱっと笑う。
機嫌の良い子だ。姉の長男何ぞには、会う度に泣かれたもんだが…
「『坊や』は『フランシス』だと」
添付してあったマザーズバッグの中を、身元に繋がる物は無いかと見直していたアウルが言う。
完全に納得など出来るものでは無いのだろうなと思って、哀しいのか、嬉しいのか判じがたい感情を持って見ていた。
「パパのミドルネームを…あ!そうか!」
「何です?!」
思わず言って、テーブルの隣の席に座るアウルを向いた俺に、びっくり目のフランシスが、同じように顔を向けた。見た途端、アウルが笑いこけた。
「何なんですか?!」
「…わ…悪い。そっくりな顔が…同じタイミングで向いたんで…何か…凄い…」
ツボに嵌まって暫く治まりそうに無い様子に、溜息と共に、幸福感にも包まれていた。アウルが笑う。
今が日常とは言えないのかも知れないが、ほんの些細な事で笑っている。
あ…いかん。
「解った。睨むな。虐めてない」
「?!」
「お前が泣くからフランに睨まれてる」
そう言ってキスをくれる。
「睨むなって。こいつは私のだ。お前のパパじゃ無いんだぞ」
「えっ?!」
「ぷ~っ!はっはっは」
また2人で笑われてる。
「お前に懐くのは父親と間違えているからだ。フランのパパが別に居る証拠だな。この位の頃には、そう言う錯覚が有って当たり前なんだ」
「クリスはマーヴに会う度間違えた」
「そりゃ、クリスで無くとも」
「まぁ、私達は双子だからな。この時期母親と違って、父親は眼鏡をかけて居るとか、髪の色とか、目の色とかで見分けるくらいだ」
「そんなもんですか?!」
「もっと言うと、彼等にとって必要になるのは、相手が雄か雌かの区別をするのが先だと言うことだ」
話が見えなくなってきた。
「オスかメス?!」
「野生動物の雄は、例え自分の子共で有っても、繁殖期の雌を認めた時には、連れている子供を食い殺す事が有るからだ。より確実に自分の遺伝子を残すために」
「アウル。止めなさいよ。言ってる事と、言ってる顔のギャップが有り過ぎて、引く」
言われて、目を見張ったものの、どう対処して良いかを見失っている。
「…ん~」
「すみません。無理言いました」
「人間の本能の部分に、危険を回避する為に、先ず雄を見分ける必要だけが微かに遺っている。で、良いか?!」
無言で頷く俺に、自分に対する溜め息を付いた上で、言葉を繋ぐ。
「母親とは根本的に違う者だと言うことだな。生まれ出るまでは1つで有った母を、子は、殆ど伝わる音と、匂いで見分けてる」
言いながら、アウルの目が自分を振り返って何処かへ行ってしまう。
「フランシスの日常に父親の存在が有ったって事?!」
「そうだよ。だから、この子を省の玄関まで連れて来たのは、この子の母親じゃ無いって事だ」
「で、俺は君のパパじゃ無いってさ。フランシス」
言ったところで、俺の携帯が、警備主任のカールからの着信を示した。
「はい。ああ、居る。ご機嫌で飯食ってるぞ。…何だって?!すぐ連れてそっちへ行く。待って貰ってくれ!」
「迎えが来たって?!」
「ええ!両親とベビーシッターが3人で」
「そうか、良かったな。この子の準備は私がしてやる。自分の支度をしろ」
聞くまでも無く、アウルが一緒に来る事は無い。
その目で、この事態が間違いだったと確かめたく無いはずも無い。
「ついでに此処も片づけておいてやるから…」
「…ちゃんと報告しますから、待って居て下さい」
僅かに視線を逸らせるのを、抱き締めて口付けた。
何も言えない。
「待っていてやる。惜しいことをしたな。これが休日で無ければ、一騒ぎした上で、この際、広告塔を止める口実に使えたものを」
「そんなことを考えていたんですか?!」
「もう、お前を切り売りしない」
「如何してそう言う事を、ストレートに言えるんですかね?!」
「え?!…あ!」
無意識ですか?!
「危ないっ!!」
アウルが、フランシスを載せていたテーブルの淵で、落ち掛かった足を掴むのと、振り返った俺が、落ちてくる頭を支えるのがほぼ同時だった。
俺達が凍り付いて、声も出なかったと言うのに、フランシスは逆さまになったまま、盛大に喜んだ。溜息と共にどっと疲れたのは言うまでも無い。
お読み頂き有り難う御座いました!
随分前から、漫画で下書きまで済ませた作品です。メジャーの本に載りたくて、2人の関係を書かずに書いて、やっぱり駄目でお蔵入りしていました。
陽の目を見せてやれて、良かったです~
もう一遍有ります。よろしくお願い致します!