エピローグ後編
生徒のまばらな教室の中で、授業を受けていた皐月は、ふと人の気配を感じて横を見る。
梨子が立っていた。手には神剣を携えている。
思わず叫びそうになるのを、梨子が悪戯っぽく微笑んで手で押さえ込む。
他の生徒は気付いていない。自分だけ見えているようだ。梨子は静かにするよう身振りを交えながら、教室のドアを差し示す。
廊下にもうひとり、神剣を携えた進也がいた。出てくるよう合図する。
梨子が手を離し、口が自由になった皐月は、すぐさま気分が悪くなったと教師に告げた。
校舎裏の花壇――転移する前に、檎台の件で進也と密かに会っていた場所だ。
梨子の姿はない。一対一で、話をするつもりらしかった。
「行くことにした」
少し離れた位置から、端的に、あるいは言葉足らずに、進也が告げてきた。
「行く、って……どういう」
口にしながらも、皐月は、意味をつかみ損ねることはなかった。神剣を持ち、どこかへ行く、となればそれは、ダフニやトウダイと同じような道を歩む、という示唆に他ならない。
「どう……して。せっかく帰ってきたのに」
「確かに戻ってはきた。けど結局、帰り着いたってわけじゃねえんだな、って思ってな」
どこか遠くを見据えるように、進也が語る。
「あの日、自分の手で火を点けた時からずっと、ここでないどこかへ行きたかった。壊れた自分の居場所を探してた」
過去の澱。檎台と同じように、壊れたことを自覚して、それでもなお生きるべき場所を追い求めていた。
「……見つかったんですか?」
「そういうわけじゃねえ。ただ、行くことが出来るんなら、ひとまず果てまで向かおうって、そう思っただけだ。神剣に関わったからこうなった、っていうのが若干癪だが、幸いひとりじゃない。トウダイの奴もいるし、なにより物好きな相棒がいるからな」
進也は楽しそうに言った。
皐月は、自分も、と口にしようか一瞬迷った。
けれど声は出なかった。様々な葛藤が、皐月を踏み止まらせた。
何のためについていく? またあの過酷な世界へ身を投じる? 何もかもを置き去りにしてまで? 自分に何が出来る? 生きていていいとは言われたけれど、必要とされたわけではないのに。
だから代わりに、疑問をぶつけた。
「……どうして、私にそれを言いに来てくれたんですか?」
尋ねると、進也は虚を突かれたとように目を丸くする。
「あー……義理とか恩とか、色々……いや、違うか」
かぶりを振って、進也が目を合わせる。
「きっと、そうしたかったからだ。それだけだよ」
理屈めいたものは抜きに、そう言い渡してきた。
その一言を受け、皐月は、打ち明けるつもりのなかった言葉を、最後に口にすることに決めた。
「天杉くん」
「なんだ?」
「私――私、きっと、あなたが好きでした」
告げた直後、二人の間を風がよぎった。
進也はひどく驚いて、そして小さく呟く。
「そう、か……そうだったのか」
初めて、得心がいったように頷いていた。
同時に皐月も、ああそうか、と納得する。
好意を向けていたことに、気付いてすらいなかった。彼と自分で、どこまで気持ちに距離があるか、まるで理解をしていなかった。幼い頃から愛を憎んでいた相手に、行為で感情を示し続けても、伝わるはずもなかった。
もっと早く会っていたら何か変わったのだろうか? もっと梨子のように直接伝えていたら気持ちが通うこともあったのだろうか?
それら全て、もう意味のない想像だった。皐月と進也の生きる道は、二人が今空けている距離と同じだけ、別々に分かれていた。
「今度誰かを助けた時には、気を付けてあげてくださいね。あなたにそのつもりがなくとも、生まれる思いもありますから」
「余計なお世話だ。……いや、ありがとよ。じゃあな」
いつもの憎まれ口の後、進也は告白されたことを顧みる言葉もなく、はっきりと別れを告げた。
「はい、さようなら」
振り返らずに進也は行ってしまう。
皐月は、ただその姿を見送った。
もしも世界を自由に行き来できるとして、自分ならどこへ行くだろうか。
その仮定と想像の中にあっても、皐月はこの世界へ根付くのを選ぶだろうことを知っていた。
壊すことで立ち向かえなくとも、もう逃げたりはしない。そう学んだから。
「あれで良かったのかい?」
学校を出たところで、同化を解いた梨子が尋ねてくる。
「見てたんなら分かるだろ。いいんだよ。お互いな」
「ボクとしては何というか、色んな意味で複雑だよ。もうちょっとこう、ドロドロの愛憎劇を繰り広げてくれるものかと」
手前勝手な梨子の発言に、進也は呆れ顔を作る。
「お前は何を期待しとるんだ。それより、トウダイのやつは――」
言うが早いか、神剣の共鳴と合わせて次元の穴が開き、トウダイが現れる。
「やあ、久しぶりだね。積もる話もあるが……とりあえず、君の霊格が引き上がったことへの詳しい説明を」
「ふんっ!」
「今さらぁっ!」
「ぐほっ!?」
来たら殴ると決めていた通りに、進也は拳を叩き込む。梨子も悪乗りしながら蹴りを入れる。
「……待って欲しい。何故に?」
「一年前に分かってただろ。先に言えや」
「あの激闘の後にすぐそれではまずいだろう。僕は僕でイールドの後始末に回らねばならなかったし、時間を取ろうと気を使ったのだが」
「だからって何で梨子にわざわざ預けるんだよ」
「サプライズにしたのは彼女の提案だ。それはそれとして、君だけで来るのは問題があるだろう?」
「だろう?」
「こいつら……」
トウダイに同調するように梨子がにやにやと笑みを浮かべる。
「えーい、もういいから、とっととどっか移動しろ」
「うむ。だが気を付けてくれ。彼女の方はまだ未覚醒だし、君も段階を踏破しただけで、強くなったとは言い難い。ひとまず自力で転移をこなせるくらいにはなってきて欲しい」
「うーん、そっかー。早くレベルアップしなきゃな。どっかに狩りやすい神っていませんかね」
「無茶を言わないでくれ。ダフニの時のような例外はそうそう転がっていない」
「手ぬるい場所なんか行っても意味ねえだろ。俺たち以外、全員ぶっ潰すつもりで挑まねえとな」
「無闇に上位者を討伐されても、それはそれでバランスに困るのだが。まあ、やる気があるのはいいことだ。デビュー戦と行こう。もちろんここから先、僕の助けには期待しないでくれたまえ」
「うわーお。ちょっと不安になってきたよ、ボクは」
「何、弱気になってんだ。上等だ。神でも悪魔でも世界でもかかってこい。全部ぶち壊してやる。行くぞ、梨子」
「はいはい。こっちが強くなるまで、ちゃんと守ってよ、相棒」
進也は梨子と共に次元の穴へ飛び込む。
この先に何が待ち受けているのかは分からない。
だがどのような困難であろうと、乗り越えて行ける確信があった。
もう、ひとりではないのだから。
どこまでだって辿り着けるだろう。
そして二人は旅立った。
まだ見ぬ世界へ、まだ見ぬ地平へ、自分たちの歩みを刻むため、互いが互いの翼となりながら。