エピローグ前編
雲が流れていく。
授業が行なわれている午前中にもかかわらず、進也は学校の屋上でひとり寝転がり、空を眺めていた。
トウダイによって帰還させられた後、世間は大混乱に陥った。
何しろ、突然に学校ごと生徒や教師たちが失踪し、それがまたも唐突に、今度は帰還を果たすという事態が起きたのだから、マスコミや警察はもちろん、国もこぞって真相究明に乗り出した。
亡くなって帰還を果たせなかった者もいるため、追及の勢いは凄まじいものがあった。しかし生徒たちの多くは黙して語らなかった。荒唐無稽な内容もさることながら、異世界での過酷な出来事を振り返る気にはならなかったからだ。ほとんどは、よく覚えていないという形で無理矢理誤魔化した。
幾人かの生徒はテレビに出演したり、あるいは自分からウェブに動画や文章を発信して、世間の注目を浴びようとした。
しかしそれでも彼らの話が事実として受け止められることはなかった。もっとも簡単な証明となる神剣が手元に残らなかったからだ。
結果として、人々の耳目を集めはしたものの、空白の期間に一体何があったのか、世間が真実を知ることはなかった。
それから一年が経過した。風化はしていないが、事件について噂される頻度もずいぶん減った。
学校も再開し、進也はのらりくらりと過ごしている。イールドに残る、あるいはトウダイについていくという選択肢は思い浮かばなかった。本来は帰るつもりすらなかったはずなのに。
「まーたこんな所にいる。サボっていて、いいのかい?」
進也が顔だけ起こすと、いつの間にか梨子が隣に立って、こちらを覗き込んでいた。
「自主休講だ。というか、人のこと言えた口か」
「ボクはちゃんと、気分が悪いって断り入れて来たからいいんだよ」
進也が寝たまま素っ気なく返事をすると、梨子は何故か得意げに語る。もちろん全く顔色は悪くない。
「どう見ても元気そうじゃねーか。そもそも断り入れたからって屋上に来ていい理由になるか。立ち入り禁止だぞ」
「先に来て寝てる人が注意しても説得力がないなあ」
言いながら梨子は隣に座り込む。
「退屈そうだね」
聞かれて進也は軽く目を閉じる。
「まあな。けどそれだけだ。悪いわけじゃねえ。刺激のためだけに、あんな出来事がそう何度も簡単に起きてたまるか」
「魔王や女神まで倒したっていうのに、小市民な意見だねえ」
「ほっとけ。俺は別に神や魔王なんて器じゃねえんだ。せいぜい小悪党がいいとこだよ」
「神様を殺せる小悪党とか、それはそれで聞く人が聞いたら怒りそうな意見だと思うけど。あはは」
梨子は自分の言葉に笑う。
「それにしても、進也がちゃんと帰ってくるとは思わなかったな」
「どういう意味だよ」
「そのまんまだよ。実際、そんなに帰る気なかっただろう? だから、どうしてかなって」
「……まあ、言いたいことは分かるが。とりあえずババアに義理は果たそうと思ったからな」
「おばさまに?」
「ああ。自分の親へ火付けする様なクソガキを、伯母ってだけで引き取って、一回も投げ出さずに面倒見続けてくれたんだ。どうせ出て行く予定にしろ、帰れるんなら顔は見せるべきだろ」
「へえー。進也にも人間らしいところがあったんだねえ」
「やかましい。つっても、前に話した通り、ほぼ絶縁状態だけどな。向こうにいる間のことを、話せねえつったら、おっそろしいことに、弁護士呼んで札束で叩いてその日に成立させようとしてた」
「思い切りがいいよねえ。そのせいでずっと政さんが困ってたし」
「どうにも説明しようがねえからよ。そこだけは分からせようとこっちから頭を下げた。その後はいつもの喧嘩だ」
「なるほど。でも喧嘩で済んだの? 殺し合いじゃなくて?」
「大丈夫だ。持ち出したのは日本刀と薙刀までだし」
「それ、安心する要素ある?」
言いつつも、微塵も心配した素振りはなく、梨子が笑う。
つと、その笑顔が曇る。
「……結局、あの世界での出来事は、何だったんだろうね」
進也や梨子は、以前と同じように振る舞っているが、決してそう出来る生徒ばかりではない。いまだ学校生活に復帰出来ない者は少なくない。不便な共同生活を強いられ、間近に死を見続け、残された爪痕は深く、心の傷は塞がっていない。
「意味なんかねえよ。手に入る物もない、馬鹿げた茶番、それが全てだ」
「容赦ないねえ」
「あれを、全てあなた方のために用意された試練だったのです、なんて言われたところで受け入れられるか? あのクソ女神の行動を肯定しちまうだろ。俺たちは理不尽な運命を食い破って帰ってきた。そう考える方が、まだマシだ」
「……それもそうか。でも、ボクは正直、ひとつはいいことがあったんだけどな」
「俺とお前が、お互い必要って話か?」
勿体ぶって話そうとする梨子だったが、進也が答えた途端、ひどくショックを受けた様子になる。
「さらっと言わないでくれる!? もうちょっと、なんかこう、あるだろ!?」
「なんかってなんだよ。面倒くせえな。……まあ、確かに気付けたのは良かった。それは否定しねえ」
「でしょでしょ?」
笑顔を浮かべる梨子に、進也も肩をすくめつつ、微笑を返す。
柔らかな空気が流れたところで、梨子が「あ、そうだ」と呟く。
「そろそろ相談しようと思ってたんだ」
「あん? 何だよ?」
「いやー、ひょっとしたら怒るかもしれないんだけど。この一年間、何も来ることがなかったから、セーフってことでいいんじゃないかって」
「……何だ、その不穏な発言は。気になるから早く言え」
「分かった。じゃあ……はい、これ」
そう言って梨子は何もない場所から、いつの間にか二振りの剣を取りだし握っていた。
見覚えがある。感覚が共鳴する。白く輝く精緻な剣。間違いなく自分たちの神剣だ。
「お、まっ、何でここに……!?」
驚愕に包まれる進也へ、梨子はいたずらっぽく笑いながら答える。
「いやだなあ、ボクの神剣の能力、忘れたの? 封印されたフリして持ってきた」
悪びれなく言い切る梨子に対し、進也は開いた口が塞がらなかった。
「念のため言っておくけど、ちゃんと許可はもらってるよ。トウダイさん曰く、『ダフニを倒した彼の存在は次の段階に至っている。頃合いを見て渡してくれ』って。それまではボクが隠しといてって」
「……あの野郎、殺す。つーか、どうすんだよ。持ち込んだところで何すんだ」
「そうだねえ。どっかに、遊びに行く? 別にこの世界じゃなくてもいいけど」
あっけらかんと告げる梨子に対し、進也は顔を手で覆う。体が小刻みに震える。
「……えーっと、進也、もしかして怒ってる? そ、そうか、そうだよね。ごめん、ボク――」
「あははははっ!」
堪え切れず、進也は爆笑した。それを見て、今度は梨子の方が呆気に取られた。
命を相争って、世界に変革をもたらし、女神さえ討ち果たした武器。こいつに散々振り回された。とある少女にとっては、魔王への覚醒のきっかけともなった代物でもある。
そんな神剣を前に、言うに事欠いて告げられたのが、これを持って遊びに行く、である。学校の誰かに聞かせれば、それこそ怒り心頭には違いない。進也でさえ、多少は不謹慎という気持ちが湧く。
しかしそれを差し引いても、笑いがこみ上げられずにはいられなかった。
とりあえず、トウダイは後でぶん殴ることに決めた。
「ああ、くっだらねえ――やっぱお前、最高だわ、梨子」
「えっ、う、うんっ」
梨子は、何を喜ばれたのかはあまり理解していないようだが、とにかく進也が楽しげにしているのを見て満足していた。
進也は神剣を受け取る。主に呼応するように剣がひと唸りする。柄を握る感触は、相変わらず手に吸い付くように馴染んだ。
「じゃあ、休暇は終わりだ。行くか」
「うん。どこにしようか? って言っても、別世界に移動するのはトウダイさんがいなきゃ無理だけど」
「どうせそのうち呼びに来るだろ。行くんならまあ、なるべく腐った世界がいい。あの女神みてーに高みでふんぞり返ってる連中を、盤面ごとひっくり返して引きずりおろせるような所で」
「世直しでも始めるつもりかい?」
「まさか。けど、面白い連中がいたら助けてやってもいい。とにかく行ってみてからのお楽しみ――と」
「どうしたの?」
進也は、伯母以外にもうひとつ、心残りを思い出した。
「あとひとり、挨拶しなきゃいけない奴がいたから、ちょっと行ってくる」
告げて、進也は屋上の入り口に向かおうとし、その首根っこを梨子につかまれる。
「はいはい。またひとりで勝手にどこか行こうとする。悪い癖だよ」
「……あのな。余計な立ち合いはいらねーよ」
「今、授業中だよ? ボクが呼んでくる方が都合がいいと思うけど」
「……お前、俺が何するか分かってんのか?」
「そりゃ、さすがにね。大丈夫。話す時は姿は消しておくから」
「盗み聞きはするんじゃねーか……まあ、いいけどよ。聞かれて困るわけでもねーし」
言って、進也は梨子と共に屋上から階下へ向かう。
やるべきことは、終えておく。この世界から、旅立つために。