流される
質問に答えてくれなかったから怒っただけで、サナギ自身は悪いことをしたと思っていない。だから、ツガと守り神を相手に喧嘩をしたとも思っていない。
なぜわかってくれないのだろう。そんな苛立ちを抱いたまま帰ってきたサナギは、食堂から漂ってくる夕飯の香りと守護霊の千松とこの島にやってきたお客のアキノヒのお帰りという言葉に迎えられて拍子抜けしてしまった。
黙って一人で外に出てしまったのだから何かしらのお小言でもあるかと思ったのに、ツガからは何もなかった。
サナギとしても何か言われたら、自分が何に対して怒って出ていったのか解ってくれないと思いながらも口だけは謝っておこうと決めていたが、ツガは何も言わずに淡々とサナギの分の夕食をテーブルに並べ、遅れてきたサナギを置いて先に食べている。
何か言った方がいいのだろうか。それとも、もう終わったこととされたのだろうか。
昼間のやり取りを思い出せば、話をほじくり返してもわかってもらえないやり取りの繰り返しになるだろうと予想がつくので、サナギは静かに席に着いた。
「サナギ」
少し低い声で呼ばれてサナギは茶碗を持ったまま身を竦めて目だけを向かいに座るツガに向けると、ツガも同じように目だけをサナギに向けていた。
「明日から千松と、よその島に挨拶に行きなさい」
「え?」
茶碗を持った手を下ろし、目を見開いたサナギの顔が完全にツガに向く。
「私、まだ護役として何もしてないと……思うんですけど」
この島に来てやったことといえば、この立場になってお披露目で島を回り、ツガについていって島の人たちと顔を合わせ、その合間に古い文献を辞書とにらめっこしながら読み、自分の守護霊の着物を受け取りに行ったくらいだ。言ってしまえば、何も考えずにただ親の後をついていく子ガモのようなもの。
「よその島に行っても、何もできないのに?」
しかしツガは調子を崩さず挨拶に行くだけだと返した。昼間のことがなかったら、きっと大丈夫だと励ましていただろうが、ツガもサナギにどう言って聞かせればいいかわからなかったために淡々と言葉を吐いていく。
「どこの島でも、新しい護役が就任したら他の島々の守り神様や護役たちに挨拶をしに行くものだ。
この華表諸島は九つの島で一つの地域。一つの島で大きな変化があったら、その情報を共有しなくてはならない。新しい護役が誕生したなら、特に」
護役は一年に何度か会合を開く。その時のためにも、早いうちから顔を覚えてもらわないといけないとツガは言う。会合以外でも、稀に上がる救助要請にも応えなければはならないと。
「会合って、何するんですか?」
「集まって飲み食いするだけだろ」
サナギの隣に座る守護霊の千松はサナギの小鉢に箸を伸ばしながら聞くが、減っていない中身を見てから自分が守護する対象のこわばった顔を見、ほんの少しをつまんで口に入れた。
「会合については、また別の機会に話す。
とにかく、サナギと千松は明日から本島時鐘島に行って、そこから好きなように島を回りなさい」
「挨拶って、自己紹介して帰ってくればいいんですか?」
ツガの言う挨拶とは、サナギにとってそういうことになる。わざわざ「こんにちは、よろしく」を言うためだけに船に乗れと言うのだろうか。するとツガはそうじゃない、と息を吐いた。
「一つだけ、その島の手伝いをしてきなさい」
ツガは詳しく話さず、それだけ言うと後は持ち物についての注意事項を伝え、食器の片付けを始めた。その背中は怒っているというより話しかけるなという拒絶に見え、サナギはそれ以上声をかけられなくなってしまった。
風呂を終え、微かに涼しい風が流れ込んでくる部屋。サナギは寝巻に着替えてタオルで頭を拭きながらサナギは護役の装束を部屋の畳の上に広げた。緑が抜けて枯れ色になったた畳の上に、袖に白い鱗を表す刺繍を施した白衣とその下に赤い行燈袴。横には前開きで、白い布を鱗のように縫い付けた袴用の覆い。サナギが昼間着ていたものと同じセットだ。
「いきなり明日とか、急すぎるよ」
膨れながらもそれらを畳み、部屋の隅に置いて押し入れから布団を下ろした。
「おっさんにも事情ってもんがあるんだ。今回は言うこと聞いてやろうぜ」
千松はサナギの風呂を覗こうとしたところを見つけたツガから叩かれた頬を撫で、装束をしまっている小さな収納クローゼットから自分の寝巻を取り出し、風呂の準備をする。
「千松くんは、持って行く物ないの?」
「俺は守護霊だからな。荷物はお前くらいだ」
「ひどい」
千松が笑いながら部屋を出ていくと、少ししてから小さな雀が締め切られた襖を叩いた。
「この時間に人間の部屋を訪ねるのはよろしくないが、少々付き合ってはもらえまいか。
明日のことで話があるのだ」
もう寝巻を着ていたが、サナギは襖の隙間をもう少し広げて雀を迎え入れた。
夕食も入浴も終わり、部屋を訪ねた雀の姿をした妖怪は、おずおずと一緒に行ってもよろしいかと言う。開け放した雪見障子の向こうから、外の温い風が木々を揺らす音が響く。
「この島の守り神殿たちと言葉を交わし、聞きたいことを聞き、私もまた神に近づくための礎を盤石なものとした……」
曖昧な笑みで自分を見下ろすこの島の護役を前に、アキノヒは嘴を閉じて再び開ける。
「神になるための考え方が、固まりつつあるということだ。
しかし昼間の騒ぎを見るに、この島の守り神殿は何かを隠しておられる」
昼間のことを聞くと、サナギは胸に気持ちの悪い靄が渦巻くのを感じて唇に力を籠めた。べたつく風に撫でられ、汗がじんわりとにじむ。
アキノヒが言うには、昼間の件で男神である玲瓏ヒとはしばらく関わらず放っておいた方がいい。サナギもちょうど挨拶回りという大仕事が終わっていないのだから、これ幸いと旅に便乗しようという寸法だ。
実のところ、ヒの妹神に当たる玲瓏スイとツガの計らいで、何も知らないサナギと千松だけを行かせないようにお目付け役として頼まれてしまったのだが、千松という類を見ない妖怪の守護霊に興味を持ったアキノヒとしても、これは願ってもいない頼みだった。
「この華表諸島の本島である時鐘島の禊月ヅナ様と萍水島の紡グイゴ様にはお目にかかり、神とはどのようなものかを拝聴した。
次は潤島というところで大きな海鳥に攫われてしまい、やっとの思いで逃げ出して辿り着いたのがこの島だったわけだ」
「思ったより、大冒険だったんですね」
鳥に攫われると言う思いを味わっても旅をやめなかったのだから、アキノヒの神になるという思いにはサナギが計り知れない決意と覚悟があったのだろう。
「私は千松くんと一緒にここに流れ着いてきただけで、アキノヒさんみたいに『護役になるぞー』なんて思ってなくて」
本を正せば、千松がサナギのために、サナギが安心して住める場所を探してきた結果が今の地位だ。放棄する気はないが、こんな……ツガや守り神様と変な雰囲気のままで務まるか心配になってくる。
それを言うと、アキノヒはきっぱり言い放った。
「それは私の知ったことではない。サナギ殿の問題だ。サナギ殿が解決されるがよろしかろう。
私が言えるのは、旅は良いぞということだけだ」
旅は良いぞ。その言葉に、サナギの目の前が明るくなった気がした。
そうだ、少しの間だけここを離れよう。
他の場所に行って、気分を変えてまた戻ってくればいい。
その間に、ツガさんたちも元通りになってくれればいいなぁ。
サナギはそんな都合のいいことを考え、明日への期待に胸を膨らませるのだった。




