タゲさんの家
セミの声を背に帽子も被らず海岸に佇むのは、白い鱗を示す赤い袴の護役。砂に埋まりかけたつま先は、楽しい気持ちでここに来たわけではないことを示していた。
怒っていた。サナギはそう感じていた。先程まで自分がいた護役の家の皆が、怒っていた。
守り神様である玲瓏ヒに、履くことができない沓を持って来いと命令したという昔話の本に書かれていたことが本当かどうか聞きたかっただけだ。答えてくれなかったから、何度も訊いた。困っている人に対してできもしないことを要求した神様を、サナギはわがままだと思った。
しかしそれを言ったら守り神の一柱、玲瓏スイに別のことで叱られた。神様に対して、そんな態度ではいけないと。護役の先輩であるツガも、お前は大人なのだからと厳しい顔をした。千松はヒをからかったことでツガに折檻されて床に転がされ、目を回したせいで何もしてはくれなかった。
だから、いたたまれなくなって逃げてきた。あの家の全員が、自分を好く思っていないのだ。床に伸びていて、味方になれなかった千松でさえも。
一人で島を歩き回ったのは初めてのことだが、会う人やすれ違う妖怪たちも挨拶をしてくれた。大半からは守護霊と一緒ではないのかという質問をされたが、自分は歓迎されている、受け入れられているという自信に繋がり素直に嬉しく思えた。あの家にいた五人は自分を嫌ったが、他の人たちはそうではないのだろう。意思がないと言われる魍魎は、自分がいることに気付いて寄ってきたり逃げたり反応がなかったり、自分を生活の背景の一部だと意識しているようで、少なくとも悪く思っていないという事実も嬉しい。
それでも、満たされない。
何が足りないのだろう。サナギ自身が多くを望む方ではないが、誰の声掛けよりも欲しいと思うものが足りていない。
──どうしたらいいんだろう。
欲しいものが何かわからない。誰に話してもわからないと思う。
千松ならわかるだろうか。いや、千松の分は足りているし、そんなものは気にするなと頭を撫でたり抱きしめたり、サナギの足りないものの代わりを自分で埋めようとするだろう。
──嫌じゃないけど、もらいすぎはダメだ。
千松のことは好きだが、今欲しいものは千松ではない。
夏の空の澄んだ青に、海の向こうの入道雲はとてもよく似合う。海の遠くで、大入道が雲をつかもうと手を伸ばしては濡れた手を見下ろしてしょんぼりしているのが見えた。空を悠々と飛ぶ海鳥の中には、見たことのない色のものが混ざっていて、こういうものとこれから付き合っていくことになるのだということを何度も頭の中で繰り返した。
じりじりと刺さるほどに厳しく光を放つ太陽に目をしばたたかせ、汗を拭って戻ろうとすると、入れ違いに海へと走りこんできた子供たちから挨拶をされ、サナギはそれを返す。子供たちの中に、同じくらいの大きさのタヌキが混ざっていたので少し笑ってしまった。
あっという波打ち際に到達した子供たちは遊び始めたが、一人がサナギに向かって声を上げる。
「護役の姉ちゃん!ツガさんが呼んでたぞ。用があるから帰って来いって」
ツガの名を聞いてサナギはあからさまに嫌そうな顔をしたが、今度は別の少年が付け足した。こちらもサナギを呼んでいるという伝言で、帰りたくなかったサナギはそちらを優先することにした。
「ありがとう。先にタゲさんの所に行ってくるー!」
互いに大きく手を振って、少年たちは波の音響く海へ、サナギはセミの声降る島の中側へと別れていった。
タゲさんの家は護役の家からしか行っていないため、海からどう行けばいいかわからなかったが、人に訊けば何とかなるものである。ついでにツガと一緒の時以外でも人と話しができるので、その人を覚えられるため苦ではない。
道すがら、トラックに乗った島の雑貨屋のおじさんが向こうからやってきて、声をかけてくれた。仕入れた荷物を店に運ぶ途中だと言うおじさんは、トラックの中から後ろの荷台を指した。見れば、段ボール箱が三段積まれてゴム紐で括りつけられている。
「島に一軒の雑貨屋だからね。荷物はまだ運びきれてないんだ」
雑貨屋には、ツガに連れられて行ったことがある。服やお菓子、日用雑貨などが幅広く扱われていて、ゆっくりと見て回れる広さの店の中に並べられる品は、すっきりと見やすく陳列されていた。一度お客さんになってみたいと思ったものだ。
まるでカバのように口が大きくて豪快に笑うおじさんは前回会った時よりも親しげで、トラックを降りてタゲさんの家への道を教えてくれた上に、「これを持っていきな!」と段ボールから出してきた売り物の手鏡をひとつ持たせてくれた。受け取れないと言っても豪快さに押され、さっさとトラックに乗って行ってしまった。教わった道を歩きながら、貰ってしまった手鏡で自分の困った顔を映し、「う~ん……」と唸る。ひっくり返せば、裏の面は白い貝のかけらが鱗に見立てられて縁を飾っている。この島のお土産と分かるように、守り神様をイメージして作られたのだろう。
「この前お店で見たけど、これ確か値段が千を超えてたよね。顔が全部映るのは嬉しいけど、やっぱり貰えないよ」
貰えるほどのことを、自分はしていないという事実は罪悪感を抱かせる。これを持って帰ることを考えると、余計に足が重くなる思いだ。
目的地は、以前家から来た時とは逆の方向からの到着になった。
玄関の前には以前と変わらずに、立てかけてある「着物のお作り、お直しいたします」の看板が客を待っていて、一度来た安心感が更に声掛けを簡単にさせてくれた。
青々とした生垣を通り抜けて玄関の前に立ち、引き戸を叩く。
「サナギです。タゲさんいますかー?」
「わう!」
反応は家の中ではなく、庭からだ。見れば尻尾をちぎれんばかりに振って右に左にと軽快なステップを踏む犬が、キラキラした目でこちらを遊びに誘う。先日、この犬と夢中で遊んだばかりに熱中症で倒れたのを思い出し、サナギは今日は遊びに来たんじゃないんだよと断る。犬は尻尾を振ったままその場でお座りをして、撫でられるのを待ち始めた。
「お利口にしててもダメだよ。タゲさんに呼ばれて来たんだから」
サナギとしては服や髪を引っ張られはしたが、犬と遊ぶのは嫌でなかった。ただ、季節が悪い。
「もう少し涼しくなったら、遊びにおいでよ」
タゲさんの娘さんが玄関の戸を開けてサナギを迎えたのは、犬が大きな鳴き声を上げて家の裏に走り去ってしまってからだった。
以前にも上がったこの家は風通しがよく、軒下に吊るされた風鈴が時折小さく鳴っていたが、今回サナギが通されたのは千松が着物を受け取った客間ではなく、小さなテーブルと椅子四脚が備え付けられている台所だ。この家が大きい分台所もそれなりに広いが、住んでいるのが二人だけなので冷蔵庫も食器棚も小さくて、家具よりも空間が目立つ。食器棚の陰には黒い塊が、床にのぺーっと伸びていた。魍魎は気温の変化を感じないというが、ああやって伸びているところを見ると、暑さを感じているのではないだろうかと思う。
九十代のおばあちゃんであるタゲさんは席に着いていて、にこやかにサナギを迎えてくれた。サナギが挨拶をして椅子に腰を下ろすと、案内してくれたタゲさんの娘さんが麦茶を出してくれた。
「来てくれて、ありがとうね」
テーブルには三十センチメートルほどの長さの長方形の、高さのない箱が載っていて、タゲさんの手がそれを撫でるのでサナギはそれをじっと見てしまっていた。
「これね、いい生地が手に入ったんだよ。とてもきれいな色でね。嬉しくて、リボンにしたんだ。
けど残念。私が着けるんじゃ色が若すぎるし、娘もこういう色は苦手でね。
誰か、これに似合う人はいないかなぁと思った矢先、思い当たる人が一人いたのさ。
最近、身体の大きなお客さん用に着物を拵えたんだよ。そのお客さんはこの島の偉い人の連れだったんだけど、私としたことがねぇ。お客さんのそのご主人様に、何もお出ししなかったんだ。
頼まれなかったとはいえ、この島にとってとても大事な人に何もないなんて、うっかりもいいところだ」
タゲさんは箱を開けて見せた。赤味の強いピンク色が、電灯の光を受けて微かにきらきらと光を返しているのを見て、サナギの目が惹きつけられる。
「きれい」とこぼしたサナギに、タゲさんは箱を開けたままそれを押してきた。
「私にですか?でも、私」
貰えるほどのことはしていない。それに、これに似合う人にあげるんじゃないんですか。そう言うと、タゲさんも娘さんも声をあげて笑った。
「さっきから言ってる!サナギちゃんに貰ってほしいんだよ!」
娘さんも、母親と同じで顔をくしゃくしゃにして笑った。
「今は物を貰うことに抵抗があるだろうけど、これはね、『私たちのこれからをお願いします』っていう、いわば前払いみたいなものだよ」
人間と妖怪や魍魎が同じ土地に住むこの華表諸島において、守り神の世話をし、両者の領域を護るという役割があるのがサナギたち護役だ。守り神から妖怪たちを見る目を授かった護役は、人間とも妖怪とも違う存在としてこの諸島内においては金銭のやり取りから外され、人間や妖怪の生活圏に互いを干渉させないよう動くことで食料や必要物資を分けてもらい生活している。そのことを理解している島の住人にとって、護役に何かを差し上げることは自然なのだ。護役になって半月も経っていないサナギはいまだ、それを受け入れることに慣れない。
「私、千松くんが着物をもらった時に、庭で遊んでましたよ。千松くんのご主人様になったこともないし、それに、それに……」
断ろうと必死なサナギ。遠慮していると取ったタゲさんは、それじゃあ、こう考えてごらんとサナギを自分に向かせ、目を合わせた。
「ばあちゃんから孫に、プレゼント」
「親もおばあちゃんもいないから、わからないよ」
親の記憶がないサナギがはっきり言ってしまうと、タゲさんは「ええい、いいから受け取ってもらうよ!」と素早くリボンを掴み、サナギの後ろに回ってセミロングの髪を少し取って頭の中間から上にゴムを巻き、その上にリボンを通して結ぶ。サナギは暴れた場合を考えると何もできず、ただされるがままだ。
「ほれ、かわいいじゃないか。似合ってるよ」
出来上がったサナギを見て、タゲさんも娘さんも笑顔を見せる。サナギも見たくなって、雑貨屋のおじさんからもらった鏡を取り出した。
「鏡を持ち歩くなんて、ずいぶんお洒落さんだね」
冷やかされると思っていなかったサナギは、自分の顔を見る前に鏡を胸に引き寄せて必死に否定する。
「違うよ!さっき、雑貨屋のおじさんがくれたの!家から持って出たんじゃなくて、歩いてたら増えた荷物なの!」
すると、娘さんは再び「貰っちゃえ貰っちゃえ。前払い、前払い」とおじさんの行為を肯定するのだが、そのまま「身に合わなかったら、怒ってでも突き返しなさい」と教えてくれた。
この雑貨屋のおじさん、悪い人ではないがサービスが行き過ぎるらしく、それが原因で奥さんに逃げられたらしい。
サナギは息を吐いて、貰った鏡を覗き込む。いつもの顔を少しだけ横に向ければ、垂れる茶色い髪の向こうに赤寄りのピンク色の布が下がっていて、頭を軽く振るたびにふわりふわりと優しく揺れた。サナギの頬が緩む。
「そのリボンは他より長くしてある。ちょうちょを大きくして結ぶんだよ」
タゲさんが言うと、サナギはリボンを解いて、自分でやってみた。
解いたリボンは確かに長く、幅もある。長い上に自分で結ぶと見えなくなるため、何度も絡まりそうになったがタゲさんの娘さんが何度も手を添えて教えてくれたので、時間はかかったしきれいな出来ではないが、なんとか自分で結べるようになった。
「護役は目立つけど、サナギちゃんは頭が寂しかったんだよ。女の子の護役には、華があった方がいいんだ。会話のとっかかりになるからね。妖怪たちにとっても、わかりやすい目印になる」
見える人であるタゲさんは、何人か妖怪と話をしたことがあると言う。妖怪たちは長寿で、今でもとうの昔にこの世からいなくなった護役のことを口にするらしい。似た容姿の者がいれば、区別がつかないこともあるようだ。明るいピンクのリボンは、そういった人違いから守ってくれるだろうとタゲさんは太鼓判を押してくれた。そこまで気を割いてくれるのが申し訳なくて、サナギは「ごめんなさい」とこぼす。
「そういう時は、『ありがとう』でいいの。私たちは、きっといつかあなたにありがとうを言う日が来るんだから」
それでも、サナギは「ごめんなさい」をやめず、もう一度それを言う。
それは自分の守護霊のことでありながら、自分は席を外したことに対する謝罪。守護霊の主人になった覚えはないが、それでも話しを聞いていなければならなかったという反省。それを自覚して、やっとサナギは伝える。
「千松くんに立派な着物を作ってくれて、ありがとうございました。リボンも、ありがとうございました」
聞いたタゲさん親子は顔を見合わせ、自分たちの孫やひ孫に対するのと同じ笑顔をサナギに向ける。
「どういたしましてだ。ところで、今日は一人なんだね」
ツガさんや、守護霊の千くんは?と訊こうとしたとき、電話が鳴った。娘さんが受話器を取ると、サナギは口をきゅっと閉めて聞き耳を立てる。
「あ、ツガさん。サナギちゃんですか?」
娘さんがサナギの方を向くがサナギは険しい顔で首を横に振った。
「……母が、サナギちゃんにお洒落させてあげたいって言うので。まだちょっと貸していただけません?」
受話器の向こうで低い音声だけが聞こえる。早く帰らせてほしいと言っているのだろうか。
確かにツガたちからすれば、守り神様たちが来ているのだから肝心のサナギには早く帰ってきてもらわないと困る。しかし、あそこで受けた厳しい目。あれがサナギには堪えた。まだ帰りたくない。
夕飯の時間が近いから帰ってくるようにと伝えられ、サナギは渋々と鏡をしまい、玄関で別れを告げた。
橙と紫が混ざる空には小さく星がきらめいていて、昼間より少々温度の落ちた風が新品のリボンを撫でて通り過ぎていく。
リボンを結ぶことに時間をかけたのはわかっていたが、まさか夕方になるまでとは思っていなかった──いや、タゲさんたちとお喋りしていたからだ。
暗くなっていく道をのろのろと歩いていくと、後ろから犬の鳴き声が近付いてくるのが聞こえる。自分の横にぴったりとつく犬は、タゲさんの家で出迎えてくれたジゴロクだ。
「一緒に行ってくれるの?」
「わう!」
わかっているのか、いないのか。犬は尻尾を振り振り、足取り軽くアスファルトの道をチャカチャカと音を立てて歩いていくので、サナギもそれに続いた。
あまりにも変な名前なので、サナギは犬を犬くんと呼んだ。
「犬くん、もう死んじゃったんだってね」
サナギはそのことを、今日知った。それまではずいぶんとはっきり見えたので、犬の幽霊だと思わなかったのだ。
犬はサナギを振り返り、また大きく「わう!」と鳴く。
サナギの帰る家は、まだ遠い。




