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鳥居の島  作者: 青竹煤
サナギと千松
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サナギと千松

 少女の面倒を見てくれた女がいなくなって1年が経つ。その間も狼は施設に入れずとも、外から少女を見守った。施設の庭で他の利用者たちと鬼ごっこでもしているのだろうか、笑いながら走り回っているのを見ると彼女の成長を感じられて声をかけたくなってしまうのだが、体は大きくなってもやはり彼女は少女のままで、ここで会ったときのあの目がどうにもムズムズして呼ぶことができずにいる。


 ──成長したな。

 彼女と一緒に庭に出ていた職員たちはもう彼女に向かって乱暴なことはせず、笑顔で何かを話していて彼女もそれに答えている。ふと、ここにいた方が彼女にとっていいのではないかと思ってしまうが、狼は頭を振ってそれを追い払った。

 もう何度も考え、どちらがいいかという答えは出たにもかかわらず、却下した答えが何度も狼の足にしがみつくのだ。


 少女の面倒を見ていた女が施設から出たということは、出ることができるということだ。しかし少女は全く出ることができなかった。あの女のように検査着ではない服を着て正門から出て行く人間は何人も見たが、その中に少女は含まれていない。いつ見ても少女は灰色の制服のままだった。

 ──町の人間みたく、もっと色のある服を着せてやりたいな……。 

 狼はずっとここで彼女を見守っていたわけではなく、施設か外か、どちらが彼女にとっていいかを考えるべく何度も町に繰り出して調べていた。

 人間は好意ある相手とは仲良くし、拒絶する相手は疎外し蔑む。かつて自分がいた場所にいた者たちとたいして変わらない。そういうところは人間も妖怪も同じだろう。彼女をかつての自分として考えると──。


 ──そりゃあ、一所に留まるよりはなぁ。

 留まっていても、自分の空腹は収まらなかった。あいつは周りの人間に取り残されて、この場所で過ごすことになるだろう。それは寂しいことだ。だったら、あいつの名前を食べてしまったその日に漠然と頭に浮かんでいたことを実行に移そう。呼び出された理由は……。

 ──やっぱりやるしかねぇか。覚悟しねぇとな。


 その次の日。夏の暑さも落ち着き、空はそろそろ秋の色を浮かべる日。町征く人間たちも、まばらだが半袖に混じって長袖の服が混じってきた。少女の制服も長袖になっていて、季節が移ることを感じさせられる。

 少女の面倒を見ていた女と接触した際に、狼は強引にではあったが「招かれた」という状態を作り上げたため、注意深く門を潜った。元々は広く美しい庭が売りだったこの旅館は、実は鬼ごっこよりもかくれんぼの方が向いていて、隠れるところならたくさんある。狼は施設の広い庭の端の岩陰で少女を待った。


 ──あいつがここに送られた時にできたことも、今じゃできなくなってるからな……。

 手にした小石を軽く真上に投げ、手に落として狼は顔をしかめる。

 ここに来た時には、その辺の小鳥や小動物と話ができたし少女の様子を見て報告してほしいという頼みごともできたが、今ではそれもできなくなっていた。5年という月日は少女のできることが広がったと同時に、妖怪に身を落とした狼の可能だった能力を少しずつ剥ぎ取り、妖怪になることと引き換えに強靭な肉体を得、生まれ持っていた能力の他に嗅覚くらいしか残さなくなっていた。


 狼の鼻が、少女の匂いを嗅ぎ取った。近付いてきたようだ。

 すぐ側まで来ている。岩の後ろから顔を覗かせると、やはり少女がいた。手には萎れかけた派手なピンク色の花が握られており、それを見ているとやはり彼女が成長していないことを痛感させられる。

 少女は狼の側にいるにもかかわらずなにも気付かないようで、その場にしゃがみ込んで植え込みの花を摘もうとしていた。狼は呆れて声をかけた。

 「何してんだお前は」 

 突然横から聞こえてきた声に、少女は驚いてしゃがんだまま横に倒れてしまった。すぐに起き上がって声のした方を見ると、赤黒い体の人間のようなものがこちらを見下ろしていた。目を凝らすと、人間の言葉を喋る、人間のような見た目の狼だとわかった。興味をそそられた少女は目を大きく見開き、立ち上がって狼の前に来た。

 「おおかみさん?」

 首を傾げて訊く少女に、狼は少し笑ってしまった。

 以前会った時のムズムズする目はまだ健在だったが、不快ではない。手足は伸びているし声も年相応に落ち着いてはいるが表情は幼いままで、やはりこのままここにいても彼女にとって良くないことだと狼の決心を堅くさせるには十分だ。

 「憶えてないのか。お前に名前を付けてやったんだぞ」

 少女は人なつこい笑顔のまま停止した。おそらく思い出そうとしているのだろう。

 「私の名前、ユウ!おおかみさんがつけたの?」

 嬉しそうに少女ユウは見上げるが、狼はぽかんとした顔をし、あさっての方を向いて長く盛大にため息を吐き始めた。

 「おおかみさん、私、間違えた?みんな私をユウって呼ぶよ?」

 ──確かに、こいつをなんて呼ぶかは任せるっつったが……。


 施設からすれば優しいの優、たくさん遊ぶ遊という意味でつけられたユウという名だが、狼は知る由もない。狼にとって、ユウは幽。幽霊の幽以外に思いつかなかったため、大事な少女にこんな名前をつけやがってと怒り、施設の人間を一人残らず食い殺してやろうかとも思ったがそれは腹の底に収めた。なんにせよこの少女をここまで育てたのだから、その恩に免じて水に流してやることにする。

 狼は少女の顎を持ち上げて自分の顔に向かせ、目を合わせる。今の自分にできるかわからないが、微かな希望に縋って狼は少女に訊いた。

 「お前に名前を付けたんだ。憶えてるか?」

 暫しの間に狼は願う。思い出せと。願いを込めてつけた名を、思い出せと。

 「……ユウは違う」

 ぽつりと、少女はこぼした。

 「ユウじゃない。おおかみさんは名前つけてくれた」

 「わかるか? 言ってみろ!」

 狼は逸る気持ちを隠さずに少女の肩を掴むので、痛みに顔を歪めるが少女は嬉しそうに答えた。

 「サナギ! 私の名前、サナギ!」

 狼は胸に温かいものが流れるのを感じて、思わずサナギを抱きしめた。ニヤニヤが止まらない。サナギの頭は狼の硬い体毛と胸に当たり痛い思いをしたが、狼はそれに気づかずにサナギに情の籠った声で話しかける。

 「よし! よく思い出した! えらいぞサナギ! そうだ。お前にはつけた名前は、サナギだ……!」

 「おおかみさんは?」

 腕の中から上がる言葉に、狼は、漠然と自分を指すのであろうと認識した単語を、サナギに告げた。

 「俺の名前はな、千松(せんまつ)だ」

 「せんまつさん?」

 少女の頭の上で、ぶほっと空気が大量に勢いよく抜けた音がした。見上げれば、狼の笑った顔がこちらを見下ろしている。

 「千松でいい!」

 千松の体は間隔を空けて震えていて、サナギはどうしたらいいのかわからなくなってしまう。とりあえず、呼び方に問題があるのだろうか。

 「じゃあ、千松くんだね!」

 ぴたりと千松の体の震えが止まった。その目からも笑みが消えた。何かいけないことを言ってしまったのか不安になり、サナギは慌てて説明をする。

 「あのね、男の子には『くん』をつけるんだよ! だから、千松くんは千松くんだよ。呼び捨てはいけないんだよ」

 千松の震えがまた始まった。サナギの頭が自分の胸に押し付けられて顔を見上げられないようにされ、息ができないサナギは頭を横に向けた。やがて頭にぽたりと滴が落ちてきて、サナギを濡らす。気になって頭を上げようとするが、千松はそれを阻止した。


 千松というのは、元は人間の古典芸能に登場する人物の名だ。常に空腹で彷徨っていた千松はしかし、食べる物を乞うという行為だけはしたことがない。落ちた食べ物ならばそれをさっさと口に入れたが、ごく稀に食物を恵んでくれる者がいたとしてもそれを良しとせずに意地を張った。それを見た周囲の妖怪たちは、その古典芸能に登場する「腹が減ってもひもじくない」と強がる名家の娘に見立て、嘲りの意味でその娘の名、千松で狼を呼び始めていつしかそれが狼の名になってしまっていたのだ。

 だから狼自身、この名を気に入ってはいなかった。しかし自分に名をつけようにも全く思いつかず、仕方なく千松を名乗ったが、サナギに呼ばれると不思議と温かな気持ちが体を巡り、それがそのまま目から溢れていった。

 「サナギ、俺はな」

 千松の声が震えているのに気付いたが、サナギは見上げることができずにそのままの状態でただ言葉を聞いていた。

 「お前のためだけに存在することにした。

 お前のために、お前をここから連れ出してやる」

 ふわりとサナギの体が浮いて、千松の肩に担がれて……そのまま、彼女は姿を消した。


 光輝(こうき)8年 秋3月19日。

 星戸(ほしど)地方(まく)町の施設から入所者一名が行方不明になったニュースは、最初こそ大騒ぎとなったが月日が経つと同時に沈静化し、やがて世間から忘れられていくことになる。

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