サナギと犬
着物を着て笠を被っている雀が、ツガの手の中でよだれにまみれて目を回している。あの時ははっきりとは見えなかったが、新しい護役のお披露目の時に堤防の上で見た妖怪に大きさがよく似ている。
ツガが交代を頼むが、犬のよだれに触りたくはないと思ってしまったサナギは抗議として、吠える犬の体を抑えたまま手を動かそうとしない。
ツガはまったく、とこぼして差袴の覆いの内側にあるポケットから白く大きな木綿のハンカチを取り出して手と雀を拭いた。
「もっと触りたくないものに触らなければならないこともある。今日はいいが、これからはすぐに手が出せるようになりなさい」
なりなさいと言われても、サナギは喉まで出かかった「いやだ」の三文字を飲み込むので精いっぱいだ。
口を結んだままのサナギに、ツガは返事を求めようとした。じりじりと照り付ける日光と熱が二人の顔を焼く。装束の中に熱がこもっていく。このまま黙っていても物事は進まない。ツガは新人の教育は帰ってからだと決め、静かに立ち上がった。
「何でもありませんよ」
身体を拭かれた雀を持ったまま、ツガは縁側に歩いていく。サナギはその背を見、次いで時折吠える犬を見下ろした。
「いじめちゃだめだよ」
背を撫でてやると、犬はやっとおとなしくなる。しかし今度はサナギの白衣の袖を引っ張り始めた。守り神の特徴である白い鱗を表す袖がじんわりと濡れていく。
「え、え、なに。遊びたいの?」
言葉がわかるのか、犬はサナギを見て丸まった尻尾を勢い良く振り、右に左にと素早く跳んで遊びに誘う。サナギはここから見える客間に目をやると、まだ受け取ったばかりの寝巻を羽織って呆然とこちらを眺めている千松とこちらを見ずに麦茶を飲むツガ、ツガとサナギを交互に顔を向けつつ困った様子のタゲ親子。
──私に用があるわけじゃないし、少し遊んでもいいかなぁ。
自分の守護霊の用事でここに来たということ、千松が好かれるために自分がしっかりしなくてはいけないという決意。それらが崩れてしまうほど、サナギは心細くなっていた。自分はいるだけで、何もしなくていいものなのだろうか。いや、ここにいる理由は千松なのだ。千松が中心で話しは進んでいくだろうし、詳しい受け答えならツガがいる。自分がここにいる意味はあるだろうか?自問するサナギは、ここにいたくないという気分だけで答えをはじき出す。ここにいる理由はない、と。
「ツガさんに千松くんを任せて、私は家で勉強でもしていればよかったんじゃないかなぁ」
家にこもっていれば、守護霊の出番はない。サナギはツガがどうして自分を連れて出たかわからなくなってしまい、犬に引かれるまま庭を走り出して時間を潰すことにした。夏の日差しの下、対策もしていなかったサナギは汗を流しながら庭を駆け回り始めた。
「ジゴロクが、まだ家にいるの?」
自分が若かった頃、ツガがまだ子供だった頃に家にいた飼い犬の名を出し、タゲはかつて子供だった護役の目を見た。
「すげえ名前だな」
寝巻をそっと脱いだ千松のつぶやきに、ツガはそっけなく答える。
「華表諸島の名付け方は、音に因るところが大きいからね」
庭の犬を見てその名前と比べる千松はそれを聞いて、自分の着物を作ってくれた老婆を見る。
「タゲって、ゲタを逆に読んだような名前だと思ったんギャア!」
千松が悲鳴を上げる。余計なことを言うなと、ツガが尻尾を強く引いていた。狼の姿の守護霊は渋々口を閉じ、乱暴に腰を下ろしてツガの膝の上に転がっている小さな妖怪を一瞥する。
「ツガさん、うちの犬がまだいるんですか?」
親子による同じ質問に、ツガは静かに答えた。
「最近は、とんと見なかったんですけどね」
庭に目だけをやる。タゲ親子も同じように庭を見るが、どんなによく見ようとしてもかつて飼っていた愛嬌ある犬の姿などなく、楽しそうに庭を駆け回る女性護役しかいない。
「次に進んだとばかり思っていたんですが、どうやら住む世界を変えただけだったようです」
ツガの言う次に進むとは、生を終えることを指す。こちらで死を迎え、死後の世界を生きまたこちらへ生まれるという、命は進み続けるという考え方からこの島々では──特に護役たちは死という言葉を使わない。
ツガの言う次へ進んだ場合には、それまでの生で培ってきたすべてを消し去り全く新しい存在として生きることを指すが、あの犬は次の生に進むことを拒み今までの記憶も姿も持ったまま、どうにかして生き残ってひょっこり顔を出している。住む世界を変えたとでも言わなければ説明がつかない。いくら守り神と同じ目を持とうとも、世界のすべてを知ったわけではない。わからないことの方が多いため、臨機応変に対応し──ごまかす能力も必要になってくるのだ。
「おっさん、うまいこと言うなぁ」
千松のからかうような言葉を無視し、ツガは続けようとした。
「飼い犬や飼い猫など、愛情をもって接していた動物などにはよくありますが……」
「次がわかってないんだね」
タゲが庭に顔を向ける。
「愛嬌たっぷりだったけど、あんまり賢くはなかったものね」
娘も同じようにした。
親子は見えなくなっているかつての飼い犬に、今になっても情けない思いをさせられるとタゲ親子は力なく吐き出すのだが、千松にはそれが嬉しそうにしているように見えた。
──妖怪の世界にも、俺みたいにこっちで死んだ動物の姿をまとって変化していく奴、人間そっくりな姿の奴、動物そのままの奴と姿は豊富にいたが、あの犬はあそこに逃げ込んでたのかもしれない。教える気はねえけど、そういうこともあるんだろうな。
千松はまた庭を見、縁側に出て笑顔で走り回るサナギに声をかけた。
「サナギー、その犬ここのばぁちゃんちのだってよ……あー……」
言い切らないうちに千松の声が落胆に代わる。サナギは犬に引きずり回され、真っ白だった白衣に土の色がついてしまっていた。差袴の覆いにつけられていた白い鱗を示す布も同じように茶色くなっている。
「おっさん、アレ、帰ったら風呂に直行?」
千松はタゲ親子と同じように、情けないという音声で庭を指さす。
「風呂?どうしたんだ、あーららら……」
絶句する二人に、タゲ親子は憐みの目を向ける。重い空気の中でサナギの身体はふらりと傾き、ぐんにゃりと崩れた。客間にいた全員が慌てて立ちあがるのをわかっていなかった犬が、倒れたサナギの匂いを嗅ぎまわってはまだ遊ぼうと白衣や差袴を引っ張っては吠えていた。




