駐在側と護役側
新しい護役が連れていた狼に危機感を抱いた駐在が、特に大きく整備することを必要とされていない道を走ること二十分。駐在所は島のほぼ中央にある。のんびりとしていて大きな犯罪がないため、駐在は島に一人。妻に先立たれて娘も巣立っていたアズマは、この島の駐在所の二階に住んでいた。
「あー、駐在さんお帰りぃ」
駐在所に到着し、急いで中に入るといつも遊びに来る背中の丸まった小さなおばあちゃんがアズマを出迎えてくれた。
「あれ、ノノイさん来てたの。新しい護役を見に行ったと思ったんだけど」
「あたしゃあ、ツガファンだからね。新人のヒヨッコには興味ないよ」
アズマは汗を拭きながら長椅子に座り、丸まった背中のまま自分で入れた茶をゆっくりと飲んでほっと息を吐くノノイに向かって、
「冷蔵庫に冷たい麦茶が入ってたでしょ。熱いお茶じゃなくてそっちを飲みなさいよ」
と落ち着かずに言うと、暑い時は熱いものがいいんだよぉ、とのんびり返されてしまった。
「お茶菓子は?この前たくさん買っといたんだけど、出す?」
「ノエさん、お菓子あるって」
早口で言うと、ノノイが隣の何もない空間に向かってのんびりと声をかけるので、アズマはまたかと思いながらそこに向かってゆっくりしていきなと声をかけた。ノエさんというのは、妖怪が見えるノノイの茶飲み友達らしい。
少ししてノノイの皺だらけの顔がにっこりしたのが見えた。
「お菓子、何があるの?羊羹あるかい?」
「水羊羹を買ってあるよ。ノノイさんよく二人で来るから、二人でも食べられる量に切るよ」
羊羹を二人分に切り分け、ノノイとその隣の分を置くと、ノノイはまた何も見えない隣を見上げた。
「用意がいいねぇ。ノエさん、遠慮せずに食べよう」
小さいおばあちゃんノノイのにっこり顔を見てアズマは和んでしまうが、
「急いでいたようだけど、何かあったの?」
という質問で何をしに戻ったかを思い出し、慌てて棚からファイルを取り出す。
──行方不明者じゃない。あんなに目立つ行方不明者、いてたまるか。すると指名手配か……。
ファイルを捲っていくが、それらしいものは見当たらない。それではとこのファイルの前のものを探し、その前を探して手が止まった。
光輝八年、秋から同十三年──つまり今年に亘り、枝穂の国の一部で都市伝説か妖怪か、詳細不明の狼による窃盗及び恐喝があったという見出しが目に飛び込んできた。犯人はそのいくつもの現場から離れた土地で短期間に何百件もの犯行に及び、金品や商品を略取したとある。着ぐるみであれば、複数人が同じ着ぐるみを着ればいいのだから短期間に距離のある地域での犯行は可能だ。
しかし同時刻に同じ状態での犯行がない上に、住居侵入の通報の後に採取した犯人のものと思われる体毛が着ぐるみではないということを決定づけた。侵入された住居からは女性服が数点、時には冷蔵庫の中身も失敬されたようである。
パトロールを増やしたがそれを嘲笑うかのように犯行は繰り返され、いつの間にか犯行が途絶えたという事件は、未だに犯人が捕まっていない。
ふと、狼と親しげに話していた新しい護役を思い出して通達を何度も確認するが、女性については記載されていない。どこかで出会い、行動を共にしていたというのだろうか。
確証もなく、アズマは行方不明者のファイルを引き出して中を調べた。狼の事件が光輝八年に始まっているなら、その辺りの年代だ。
その考えは、当たっていた。
光輝八年の秋三月十九日。とある施設から行方不明者が出た。都市部では珍しくない再生施設とでも言えばいいのだろうか。心身共に疲弊し、現実に対応しきれなくなった者を受け容れ、休ませる施設である。ここは行き場のない子供から老人までを受け容れており、ある程度自由に過ごさせるという規則の下で運営されている。ファイルには当時の新聞の切り抜きがアズマの手でしっかりと貼られていて、その写真に先程見たサナギという名の護役とよく似た顔の少女が映っていた。
その少女は十七歳で、ユウという名だ。苗字がないのは身寄りがないからだという。そして現在、まだ見つかったという報せはない。
事件当時すでにこの島の駐在だったアズマの記憶の引き出しが狼を見た時にすぐに開かなかったのは、これを本土の都市部の事件だとして全く気にかけていなかったからである。
あのお披露目前の時、自分は最初から心配していなかった。島民たちは次第に警戒を解いた。そして自分は今、狼が事件を起こしていたことを知った。
この島に前からいる護役のツガは、このことを知っているのだろうか。狼は素直に話したのだろうか。守り神様は?冷や汗が流れる。この島に何か起こしてはいけない。
アズマはノノイに留守番を頼むと、また自転車に乗って走り出した。あの車がいるだろう方角へ──。
潜竜島は広い割に人がいない。ツガが言うには、三百人に満たないらしい。その上に本島に仕事に行く者が多く、昼間はどうしても人が少なくなるという。新しい護役のお披露目といえども、そのためだけに仕事を休めるわけではない。代わりというのもおかしいが、学校に通う子供たちはこれから世話になる護役のお披露目ということで特別に休むことが許されていた。
新しい護役のお披露目は島に住む人間だけが相手ではなく、魍魎や妖怪などに対しても顔見せのために行っているため、トラックの速度はサナギの顔を見やすいようにゆっくりと進んでいく。その間サナギは景色やすれ違う島民、見える人には見える黒い塊である魍魎、鳥や魚のような姿の妖怪をたくさん見た。皆サナギによりも千松に興味津々で遠慮なくじろじろと見ていたが当の千松はどこ吹く風で、人間が歩くよりは早い程度の速度で走るトラックと並んで早足で歩いている。日除けにとツガから渡された扇子を頭の上に開いて、サナギは小さな影の下で流れる景色を見渡した。
「ほら、今は堤防で見えないけど、あの向こうの海岸に」
ツガが指す方にサナギは顔を向けるが、石のような高い壁に阻まれて海岸など見えず、その上に青く明るく広がる空と雲の端だけが視界に入ってくる。
「あの辺りかな、お前たち二人が流れ着いていたんだ」
サナギは左から右へと流れていく堤防の壁を見送りながらその時の状況を思い出そうとしたが、熱に浮かされていたサナギは何も記憶にない。しかし何もない砂浜かもしれないが、自分のこの島の一歩だと思うとその場所に興味が湧いた。
「帰ったら、またここに来ていいですか?」
風に靡く髪を押さえてツガを見上げると、ツガはそうだなぁと斜め上を見てサナギに視線を戻した。
「すぐには来られないけど、私の仕事も見て学んでほしいし、その帰りにならいいよ」
「ツガさんのお仕事って、何をするんですか?」
「人間と妖怪たちの住む境界を守るんだよ」
考えるように眉間にしわが寄るサナギを見て、ツガは説明を入れる。
大昔一つの大きな島だったこの土地には、海や山など人間が住むことが難しい所、人間が所有を主張しない所に妖怪の類が住んでいた。人間も弁えたもので、それらの住処にはそこに暮らす者たちを見ることができなくとも形だけの許しを乞うてから踏み入り、必要最低限のものだけを手に入れて帰っていく。時に妖怪も人間のいる所まで足を延ばすことはあったが、大きな悪さはしない。付かず離れずの関係を保つことができたのは、互いに見合った土地があったからだ。
「その住むための線を守るんだ。言うほど簡単じゃないぞ」
何しろ、華表島が沈んで人々が山に逃げた時、もうふもとに帰ることができない人間たちは不可侵であるはずの妖怪の領分に大挙して逃げ込み、妖怪たちの住処を壊して自分たちに都合のいいように寝床を作り木々を伐採し、動物を狩った。
これに腹を立てた妖怪側は人間を神隠しに遭わせ、また食い殺しと出来得る抵抗をし、これをよしとしなかった人間の中の一人が妖怪と根気よく話をして新たな境界線を作ったという。
「それからおよそ二千年も経ったけど、妖怪たちは人間と違って長く生きる。彼らにとって、人間は未だに新参者なんだよ。だから今でも我々をよく思っていない者がいる。彼らから人間の暮らしを守り、人間から彼らの暮らしを守るのが護役の仕事なんだ。神様のお世話だけが仕事じゃないんだよ」
「そりゃあ、妖怪側にしてみりゃ自分たちのナワバリに入ってきて、ああだこうだと勝手に型を作られちゃ面白くないだろうな。結局護役ってのは具体的に何すんだ?」
トラックの横を早足で歩く千松が訊くと、ツガはその内容を説明するのだが……サナギは視界に入ってきた妖怪に目を奪われて、まったく聞いていなかった。




