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鳥居の島  作者: 青竹煤
潜竜島
39/81

新しい護役と狼

 セミの声が神域の丘に響く午前九時二十分。

 玲瓏れいろう神社の古ぼけた鳥居の前には新しい護役もりやくが出てくるまでそこを潜れない人々が集まっていたが、その多くの表情は晴れず、疑いを含んだ眼で神社への階段を見上げていた。


 数日前にこの潜竜島せんりょうじまに流れ着いた体の大きな狼の妖怪の話は、大きな事件のないこの島であっという間に広がった。しかし狼と一緒に流れ着いた人間の女に関しては狼ほどの話題性を持たず、気に留める者は少ない。今日この日に人が集まった理由も新しい護役よりも、その狼が目当てだ。

 何しろその狼はこの島の護役であるツガが神社に連れて行ってそれきり。更に言ってしまえば、その狼の寸法を測ったタゲさんが新しい護役の側にあの狼がいると聞き、心中穏やかではない島民の方が多かった。この島に新たな護役が生まれたことより、大きな妖怪に対する好奇心と恐怖が勝る。

 狼を一晩置いて何ともなかった診療所の老先生や、着物を仕立てるために寸法を測りに行って、危害どころか目の病を治してもらったタゲさんの言葉を信じないわけでもなかったが、やはり皆一様に自分の目でそれが安全かどうかを見極めたかったのである。


 その中には、よその土地から赴任してきたこの島の駐在も含まれていた。

 五十代のこの男、アズマは妖怪の類を見ることはできなかったが、それらを信じる男である。島民の不安の声と害はないとふれまわる声の混ざりあう中、万が一に備えて監視のつもりでやって来ていた。警棒と拳銃しか持っていないが、それでも不安な気持ちを隠し切れない島民を落ち着かせる程度の効果はあるだろうと持って来たことが吉と出た。アズマに挨拶をし、その装備を見た者の表情から険しいものがいくらか取れていくのを見て、この駐在もそっと息を吐いたのだった。


 アズマは妖怪の類は見えないがしかし、その存在は信じる男だ。それは守り神のことも信じているということだ。守り神がこの島にくない者を手元に置くはずがないと信じ、神に護られていると信じる島民たちの不安を疑問に思う。

 ──先生にしたってタゲさんたちにしたって、狼について悪く言っていない。何より、何日も一緒にいるツガさんがピンピンしてるじゃないか。本当に好くないものなら、ツガさんだって黙ってないだろうに。

 そう。それこそ守り神だって黙っていないだろう。何を怖がるのか、アズマには理解できなかった。


 やがて鳥居の向こうを見上げていた島民たちのどよめきを聞いて、アズマも皆に倣って階段を見上げ、その視界の上の方に草履を履いた白い足袋が下りてくるのを捉えた。何のことはない、いつも見る護役のツガの足だ。島民たちはすぐにツガの後ろへと目を走らせる。新しい護役の姿はツガの陰になって見えにくいが、ツガの後ろから微かにチラチラとはみ出している差袴さしこの赤い色が確認できた。性別で色が分かれるのだから、女であることはわかる。

 先頭を行くツガですら地面に下りきっていないというのに、島民たちはその新しい護役が階段を一段一段とゆっくり下りてくるのに従って少しずつ下がり、道を開けていく。


 ゆっくりと下りてくるその新しい護役は、覆いに白い鱗のような模様が縫い付けられている赤い差袴と黒い糸で不揃いな大きさの鱗の模様がつけられている袖を風に靡かせて階段を下りていく。茶色でまっすぐ、肩までの長さの髪には何の飾りもなく寂しく見える。どことなく幼い印象を受ける表情は緊張に引き攣っており、視界に人を入れないことで何とか平常を保っているように見えた。

 「斜め上向いてるよ。あれ転ぶんじゃない?」

 「護役さん、足下見て、足下!」

 「危ないよ!ちゃんと前見な!」

 先程まで狼の心配をしていたのに、島民たちは目の前の女性を心配し始めたのでアズマはやっぱり本当に危ない妖怪だと思っていなかったんじゃないかと笑ってしまった。


 前を見ろ、足下、危ない。それを聞きとれた時、新しい護役の足が階段の一段を踏み外した。体ががくんと傾く。しかし悲鳴を上げる前にその体は黒いものに抱き止められて落ちずに、後方に引っ張られて崩れるのが見えた。

 それが何なのか、島民たちは目を凝らして確認する。階段の両端に自生していた木の影に隠れてよく見えなかったが、それは彼女より大きく、人間ではないことが窺えた。

 「狼だ……」

 誰かが呟くが、それ以降誰も騒ぐことはなかった。しかしただ皆息を飲み、護役と狼の妖怪という組み合わせの動きを探ろうとする中で、当の新しい護役が沈黙を破った。

 「痛いよ!千松くん腕引っぱらないで!」

 まるで子供のような言い方に、皆が呆気にとられる。そこに狼と思しき声が護役に向かった。

 「バカかお前は。階段下りるときは上じゃなくて下見ろってさっきも言っただろ!何回言えばわかるんだ」

 ぷっつり。アズマの耳はその緊張が解けた音を聞いた。幻聴だっただろうが、子供を心配する親、もしくは下の子に注意する上の子と何ら変わらない気持ちのこもった言葉の後、島民たちの階段の上に向ける表情が和やかになり、それは周りの者に広がっていくのを見て、ツガは気付かれないように小さく息を吐いた。


 「ほら、足下を見て歩け。ここに住むことになって早々に階段から落ちて大怪我なんて、後々まで笑われるぞ」

 「わかってるよ!」

 子供と大人のようなやり取りに、ツガはそこまでにしておけ、十分だと狼に声をかけると、やっと顔が見える位置に下りてきた狼は明るくにかっと笑って親指を立てるので、それを見た島民の何人かは小さく笑いを漏らした。


 ツガの足が地面に着く前、島民たちの顔がはっきりわかる高さで止まった。しっかりと日光が当たるそこに、ツガは隣に新しい護役、次いで狼を横に並ばせて低く広がる声を上げる。

 「皆様、夏の日差しの厳しい中、よくお越しくださいました。

 これより潜竜島せんりょうじまの新しい護役のお披露目の儀を始めます」

 ツガが隣の新しい護役に合図すると、彼女もおどおどと、それでもセミに負けないように大きく声を出した。

 「は、はじめまして、サナギと申します!」

 サナギはそれだけ言うと、ぐっと口を噤んだ。大勢の前に立ったことで緊張感に再び襲われた。声が裏返りイントネーションは狂い、自分でも何を言っているのかわからなくなってしまったのだ。

 「えっと、と、歳は二十二!誕生日は春の一月三十日!えっと、それから……あ、この千松せんまつくんが守護霊で、今日初めてコーヒーを飲んだらおいしかったです!あとは、あとは……」

 本人が何を言っているのかわからなくなった頃合いを見て、赤黒い狼がサナギの頭にポンと手を載せた。

 「こういう奴だが、よろしく!」

 それだけ言うと狼はツガと目配せをして、サナギの背を停められているトラックに向けて軽く押した。

 ツガの後に荷台に乗せられたサナギは大人しく座る。千松と呼ばれた狼はトラックの横について歩くようで荷台には乗らなかった。

 サナギは荷台の上から周囲の知らない人々を見回す。みんな笑顔ではあるが、どことなく近づきがたいものが見え、これからの生活が心配になる。


 サナギの不安をよそに、トラックのエンジンはかかる。ゆっくり動き出すのが分かったサナギは、皆に頭を下げて島一周に出るのだった。

 「行っちゃったね」

 「サナギって変な名前だねぇ」

 「それより狼だ。危害を加えるような奴じゃなさそうだな」

 車を見送った人々はそれぞれ感想を言い合うが、アズマだけはずっと車を見送り続け、見えなくなってから難しい顔をして腕を組んだ。

 ──あの狼を知っている。会ったことはないが、どこかで見ている。妖怪を見ることができない自分があの狼を見ていたとしたら、そう簡単に忘れられないはずだ。だとしたら、誰かから聞いたか……署からの通達だ。


 訓練を受けた警察官であっても人間である以上、妖怪という未知の存在には太刀打ちできない。むしろ人間と違い、法に遵う理由のない妖怪を取り締まってはいけない。しかしあの狼が過去に何かをしたなら、受け容れる決定をした護役引いては守り神に報告することはできるはずだ。

 護役たちが帰って来た時の為に、準備を始めようと解散し始めた島民たちとは違い、アズマは急いで自転車に跨り駐在所に急ぐのだった。

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