守護霊の家
午後になるとツガは千松の家を作る手を止めて、サナギと一緒に自分の護役の服に刺繍を入れ始めた。白衣の広がった袖に緑の糸で鱗の模様を縫っていくツガの手つきを凝視し、サナギは自分が縫ったものと手を見比べて眉間に皺を寄せた。
「最初のうちはみんなそうだよ」
横目でサナギが縫ったものを見、すぐに目を自分の手元に戻してツガが言うと、サナギは唇を尖らせて黙々と作業を続けた。
怪我もなく素晴らしいものが仕上がるという幻想は、施設にいた頃に捨てた。そこでは自由時間に自分より経験豊富な先生役から趣味の範囲でいろいろ教えてもらったので、昨日今日始めた自分にその技術を越せるはずがないと納得したのだ。
──お裁縫くらいはもうちょっとできると思ったんだけどな。
尖らせた口の中でサナギは呟く。そもそも五年間裁縫どころか針も触っていなかったため腕が落ちていたのだが、サナギはその事を理解していなかった。当時の腕のままだと思い込んでいたサナギは、何度も指を刺しては眉間に皺を寄せ、口をギュッと閉じて体をこわばらせた。
「なんでこんな面倒くせぇことすんの?」
ごろ寝しながら二人を眺めていた千松は一所懸命なサナギに目を注ぎつつ、面倒臭いという感情をその言葉に込めた。
「護役ってのは、神の社の世話だけしてりゃあいいんじゃねぇの?」
「端的に言えばそうだけどね」
ツガは自分の手を止めず、手元に視線を注いだままそう前置きして続ける。
神様は島を護ってくれる存在であり、その神様の下で暮らす人間たちは神様に感謝を抱いた上で生活している。神様を見ることができる護役は、見えない島民たちに対して自分たちの神様がどのようなお姿をしているのか、どのような特徴をお持ちかを、このように着ている物で示すのだと。そうすることで、島民の神様への意識は消えることなく留まり続け、それによって神様も力をつけるのだと。
「ふーん。つまりおっさんは、白衣の袖に緑の鱗、差袴の布にも緑の鱗と蛇の腹を刺繍して、この島が蛇に護られてるって示してんのか」
狼の軽口を諌めようとツガが口を開くが、それをサナギの言葉が遮った。
「龍だよ、千松くん」
「あ?」
千松は横になったまま、刺繍を続けるサナギに目をやる。
「蛇でいいよ」
「よくないよ」
だって、とサナギは続ける。初めて見たこの潜竜島の守り神の姿を思い浮かべ、千松の「間違い」を訂正していく。
「神様たちの頭に角があったよ。蛇は腕ないし、空飛ばないもん……いたっ」
また指を刺したようだ。サナギが左の人差し指を口に持って行く。
「おい、んなもん真剣にやんなよな。さっきから指ブスブス刺してんじゃねえかよ」
半身を起こして千松はサナギの白衣を取り上げようと手を伸ばすが、サナギはそれを拒否した。
「真剣にやらなきゃダメでしょ」
「じゃあ、せめて手伝ってやるから」
横で聞いていたツガが止めようと口を開けるが、それより先にサナギが千松の申し出を突っぱねた。
「いらない。自分でやるの!」
二十二歳なのに子供のような拒否の仕方を聞き、本当に子供のようだとツガは手を止めると同時に、サナギに関して守り神たちが言った言葉が頭をよぎる。
──お前のように様々なものと相対し様々な経験を積むのが大人であれば、サナギは揺るがぬ幼子よ。
──あの娘は幼いのだ。見た目に惑わされずに導いてやるがよい。
守り神は──人間より長い時を生きる存在である者たちは人間の年齢で大人と子供の区別をつけない。いや、大昔ならば特殊な能力ではなく、観察眼によるものとして人間もその目を持っていた。今ではもう、それを持つ者は少なくなってきているが……。
サナギが幼いという話に戻すと、おそらく千松の存在のせいだろう。守護霊とは、人間が対処しきれない禍──主に不慮の事故や子の成長に無用のトラブル──から子を守るために親が護役の手を借りて呼び出すもので、千松のように表立って干渉しないものだ……例外はあるが、本来なら守護霊憑き本人にさえ見ることはできないのである。しかし千松はその特殊な存在から誰にでも姿が見え、守護霊を自称する割には対象に過剰に手を出している。これではサナギの将来が心配だ。
どうしようかと考えながら手を動かしていると、ツガもサナギとほぼ同時に指を刺して小さく悲鳴を上げてしまった。千松がケラケラと二人を笑うので、サナギは脹れて、ツガは黙々と作業を再開させた。
ツガは千松に、護役の仕事について先程の話の続きをする。
「この潜竜島を例にしてみると、お社の掃除や修繕の他にも魍魎たちのイタズラから島の人たちの家を守ることも仕事だよ」
「魍魎だぁ?」
千松はまた寝転がって、雪見障子の向こうを見る。
縁側を挟んだ庭では、形のない黒いものがムニュムニュと動きながらこちらへ向かってくるのが見えた。死角に入ったかと思うと、もっそりと縁側に上がってこちらをじっと見ている。
「あんたら、祓う力がないわけじゃないんだろ?俺が追い払ってってやろうか」
「いや、必要ないよ。神様のお心遣いだ」
華表諸島の島々にいる神様たちも人間と同じく個性があり、それぞれに方針が違う。潜竜島の守り神である玲瓏ヒと玲瓏スイは、「魍魎もこの島で暮らす以上はこの島の一員であり、守る対象である。故に理由なく祓うことまかりならぬ」と取り決めていた。
「それに、この土地には人間よりも魍魎の方が先に存在していたし、見えない者には互いに触れることもできない。互いの領分さえ守れればいいんだよ」
「いたっ!」
サナギの悲鳴に、千松はツガの言葉を考える暇を奪われてしまった。
サナギの最初の仕事はなかなか終わらない。それとなくサナギの手つきを確認したツガは自分の刺繍を終わらせて、再び千松の家に取りかかる。庭に向く雪見障子を開け、千松は強い日差しが降り注ぐ庭に近い縁側に寝転がったまま、ツガの作業を眺め始めた。
ツガは千松が目を見張るほど簡単に家を作っていく。力にものを言わせるだけの千松では、そんなものなどきっと用意できずに不貞腐れていただろう。少しでも守護霊として振る舞いたいのは事実だが、そのためにいたずらにゴミを増やしたくなかった千松は、安心したようにゆっくりと目を閉じた。
ツガに呼ばれて目を開けた頃にはもう空は鮮やかに赤く、セミの声も大人しくなっていて夏とはいえ微かな涼しさを感じた。
「ほら、これでどうだろう」
汗を拭うツガが足元を指すと、本土でいう神棚によく似ている小さくて立派な家が目に飛び込んできて、千松は飛び起きた。
「おおお、俺の家……」
千松は目を見開いてそれを食い入るように見つめ、大声で自分の後ろで縫い物をしているサナギを呼ぶが、サナギはその声に驚いてまた指を刺していた。
「痛い!びっくりするじゃない!」
「あー、悪ィ悪ィ。それより見ろ、俺の家ができたぞ!」
サナギの針を刺した指を撫でながら千松は笑顔満面で庭を指すので、サナギは軽く千松を睨みながらその指の先に目をやった。喜びが治まらない様子の千松に対し、サナギは困った顔で首を傾げて千松を見上げる。
「小さいね。千松くんが中に入るの?」
「違ェよ!これがここの守護霊の家なんだってよ!」
「だから、千松くんの家なんでしょ?」
千松の説明の内容が分からず、サナギは首を傾げたまま庭のツガを見上げるのだった。
「守護霊と言えど一つの意思あるものだからね。野生の動物にだって家があるのと同じように、守護霊にも必要なんだよ」
ツガが抱える大きさのそれを縁側から入ってすぐ右の壁側に下ろした。本来なら棚でも置く場所としてできたであろう凹んだ空間に、千松の家はちょうどいい余白を持って置けて、この家の主は腕を組んでニヤニヤと何度も頷いている。
「俺の家……うへへへ」
「千松くん気持ち悪い」
「バカ言え、一国一城の主は夢だ。浪漫だ!」
「君の城を内包するこの家は、私の国だからね」
「聞こえねぇ」と千松がやったところで、サナギもやっと第一段階が終わったと笑顔になったところと重なる。千松の家を見たサナギはしげしげと見るが、やはり何度見ても身体の大きな千松が入れると思えず、この小さな家と千松を見比べて首を傾げた。
「この華表諸島の守護霊にはね、名前の他に家を用意することが礼儀なんだよ」
ツガは不思議そうにしているサナギに説明をする。
華表諸島における本来の守護霊を呼ぶ流れは、子供が生まれる前にその子の親が字名を決めることから始める。
字名とは守護霊が守護霊として活動するための名のことで、守護霊の呼び名だ。母親は子の名前を、父親は守護霊の字名を考える。それが古くから伝わる華表諸島のやり方だった。
子が生まれれば、親はすぐに護役の所に連れて行き、守護霊を呼び出す儀式を行う。そして呼び出されたものに親がこの字名を付けることによって、それは守護霊として活動を始めるのである。
そして守護霊のために用意するものはもう一つ。家である。
守護霊は万能ではなく、傷を負うことも身体を崩すこともある。その場合、この家に籠って治すのだ。最後に家の表札として、守護霊の字名と本名を合わせた括名を書いた紙を置く。
「誰もいない家には、善くないものが入り込んで力をつけてしまうからね。そのための表札なんだよ」
「ふぅん……?」
実感がないサナギだったが、千松はそれでも満足そうにサナギに言う。
「俺はここにゃあ入れねえ。けど一応守護霊だからな。それなりのもんが必要ってことだ」
「まぁ、怪しまれないためにも、はっきりと守護霊であることを示せば千松も島のみんなに受け入れてもらいやすいだろう」
ツガは家の入り口に、一枚の札を立てた。そこには大きく「千松」の文字が書かれている。
「これで千松の家は完成だ。サナギ、作業を続けなさい」
「あ、急いで作ります!」
夜、布団は敷いたがサナギはまだ針仕事をしていた。千松はもう横になっており、明かりは机のスタンドだけだ。
「つっ!」
静かな部屋の中で、時折サナギの小さな声がそれを乱す。最初はよくやるなと放っておいた千松も、何度もそれを聞いているうちに気になって仕方なくなっていた。
「たっ……」
病気なら治すことができるが、怪我は専門外だ。千松はどうしてやることもできず、ただサナギの怪我を負う瞬間を鬱陶しく思い、せっかく自分の家ができたというのにサナギの声が聞こえるたびに気持ちがささくれ立っていくのが分かってしまう。
「っ」
「うるせー!やるんなら黙ってやれ!!」
遂に千松の苛立ちが頂点に達した。怒鳴られたサナギはこちらを睨みつける千松に、今にも泣きそうな顔を向ける。それを見た千松は苦々しく視線をサナギから逸らし四つん這いになって、怯えるサナギの隣に胡坐をかいた。
「ご、ごめんなさい千松くん」
震える声で謝るサナギの手に目を落としてみる。怪我の状況は、その手を白衣が覆っているため見えない。千松はそれを静かに払い、隠れていたサナギの左手を手に取った。主に人差し指に、小さな刺し跡がスタンドの灯りに浮かんで見える。
「こんなに穴開けやがって。あのな」
千松はサナギの顔を覗き込んだ。
「俺はお前を守るけど、お前が自分でやるっつったことには手ぇ出せねえからな」
赤黒い手が、サナギの指を優しく擦る。
「お前がイテェだなんだっつっても、心配しかしねえから。つか、心配で落ち着かねえから、やるなら黙ってやれよな」
「……うん。ごめんね、眠ってたのに起こしちゃって」
「眠ってねえよ。終わりそうか」
「まだ」
言い終わって小さく欠伸を漏らすサナギの横で、千松は座り直す。刺繍しかけの白衣に目を落とすと、まだまだ終わりそうもないが、指を刺しながらやったにしては早い方だろうか。それにしても、この後にも同じような刺繍を差袴にも施すのである。裁縫に疎い千松だが、進行度を見ると一日二日では到底終わらなさそうだ。
「おっさんも言ってただろ。お前のお披露目は島全体が祝うから、その準備もあるって。徹夜してまで仕上げんなよ」
「でも」
「眠気堪えてまで仕上げて、あいつらが喜ぶかねぇ?」
サナギが何か言おうとするが、千松はそれよりも早くサナギの体を自分に寄せた。
「眠れ」
有無も言わさぬ声と自分の体を擦る手の温かさに、サナギは小さく「ん」と返事らしい声を漏らし、静かに目を閉じた。その声はしばらくの間千松の鼓膜を揺らして、緩やかに眠気を誘うのだった。




