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鳥居の島  作者: 青竹煤
サナギと千松
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病気の少女と空腹の化け物

入院していた病気の少女は救いを求めた。


空腹でも死ぬことができない化け物は救いを求めた。


それだけの話。

 その少女は、自分の身体が弱いことを知っていた。


 9歳の少女は、病院の208号室のベッドで天井を見上げながらベッド脇に置かれたテーブルに手を伸ばして折り紙を探し当て、自分の腹の上に持ってきて顔を動かさず一枚を取り出し、感覚を頼りにして器用に鶴を折り始めた。出来上がったのはオレンジ色の鶴。

 とても元気そうな色で、今にも窓の外に飛んでいくのではないかと、少女は生気のない顔にほんの少しだけ笑みを浮かべる。

 できあがった鶴を折り紙の束と共にテーブルに戻すと、今までに両親と一緒に折った、赤や黄色の鶴が視界に入る。その向こうには、看護師がまとめてくれた鶴の束がかかっていて、入院生活の長さを物語っていた。


 この生活は2年を超えたかもしれない。今では自分がどこに住んでいたかも、退院したらもらえるはずの、自分の部屋がどんなビジョンだったかも覚えていない。代わりに無機質だった病室が、親子で毎日折る鶴によってカラフルに彩られていった。

 病名は知らない。聞いたところでどうしようもないから。治療法が、ないから。

 少女は後学のために実験体になった。しかし自分のような患者がいつか現れた時のために、などと言う高尚な考えを持っていたからではなく、どうせ死ぬのならもうどうだっていいという思いに達していたからだ。人助けならついででいい。


 親は毎日大好きなオカルト雑誌を持ってきてくれたし、元気になったらどこどこに行こう。そこはね、と夢のある話をしてくれた。少女は、日に日に近寄るその日を少しでも遠ざけようとしてくれる両親が大好きだ。病院の先生や看護師たちのような作った優しい声ではなく、心からの声をくれるから。なんでも信じてしまえる声で抱きしめてくれるから。

 全快などしなくていい。ただこの状態でもいいから、少しだけでもいいから長引かせたい。もっと、親に甘えてたくさん話をしたい。少女の希望は、病が進行しても胸に持ち続けていた。それだけが、今この瞬間瞬間を生にしがみつかせていたのだ。


 その化け物は、腹が減って仕方がなかった。

 ケモノと人間が合わさったような姿をしている者が多く住む、とある土地。


 その狼がどこからか現れたのは、一面の荒野。土地は痩せて作物もなく、枯れた木の根を掘って齧ることで少しでも飢えを凌ぐ日々。しかし空腹は全く変わらず、襤褸(ぼろ)を纏い骨の浮き出た体を引きずりながら彷徨う毎日。

 周りの者たちは自分を蔑んでいた。なんでも口に入れる卑しい奴だと。本人に聞こえるように吐き出された陰口も空腹の状態では聞こえず、死ぬこともない体はそれでも生きよと空腹に鞭を打つ。


 人間と異なる国に住む身である自分がなぜ存在するかもわからず、何のために存在しているかもわからない。ただ、この空腹をどうにかできればそれでよかった。

 空腹を取り除く為なら、石にだって齧りつき、土さえも飲み下した。生まれたから生きている。それだけが空腹と戦うに足り得る理由だった。



 病院の窓から見える月は半分。なんだか落ち着かないのは、消灯前に読んだ雑誌のせいだ。

 そこには、少女のいる所から遠く離れた地方に伝わる儀式のことが書いてあった。夜に行う儀式で、地面に印を描く。そして守護霊を呼び出して、(わざわい)から護ってもらうというものだった。

 自分も、護ってもらえるだろうか。

 病気から護ってくれるだろうか。

 昼に一度血を吐いた。確実に体は病に対して白旗を上げつつある。あの時の絶望感に身をゆだねるくらいなら、たとえオカルトだろうと縋ってみたい。


 少女はベッドから降り、月明りだけを頼りに雑誌を読みながら、床にクレヨンを叩きつけるようにして印を描く。その間一心に、元気になりたいと本音のみを思っていた。



 空腹で眠れず、ただ横になるだけの時間。自分のいる土地に作物は育たないが、よその町からの仕入れはある。しかし狼には交換できるものが全くない。ごく稀に、酔狂な奴が落としてくれた団子たった一つを掠め取って、貪っては食料を探しながら木の根や石を齧る。そんな毎日が崩れたのは、治まらない空腹を抱えた微睡みの中で自分を呼ぶ声を聞いたのがきっかけだった。


 助けて、と声は求める。聞いたことのない幼い声で。

 助けて、と声は求める。聞いたことのない低い声で。

 ふたつの助けを呼ぶ声が合わさった。

 それは始まりというほど壮大でもなく、しかし互いに救い救われる何かが動いた瞬間だった──。


 少女の目の前に、大きく黒っぽい塊が現れた。頭だろうと思われる部分から、黄色い眼だけが月の光に浮き出て、とても気持ちが悪い。

 化け物の目の前に、小さな人間がいた。頬がこけていて、まるで泥沼のようにどんよりとした目。まるで自分と似ているように思った。しかし人間は、自分を見て表情をこわばらせている。今まで自分を見てきた者と同じ反応だ。

 二人は見つめ合って、少女が口を開く。

 「あなた、守護霊さん?」

 化け物は質問には答えなかった。

 「くいものを、よこせ」

 化け物の上げた頭が月明りに浮いて見えた。頭の上に三角の耳が2つ、斜めに向かっている。犬のように鼻が突き出ていて、大きく裂けた口。その特徴は、少女の母が読んでくれた絵本に出てくる狼によく似ていた。首の後ろから長く伸びている毛が少女の描いた(まじな)いの上にだらだらと広がっている。立ち上がったら、きっとかなりの長さだろう。その体を見るに、少女の父親よりも大きい。とても細い体は少女と似ている──ほぼ骨と皮だけだ。

 「病院には、何もないよ……」

 守護霊は無条件でついてくれるものではないのか。少女は困ってしまった。


 狼は辺りの匂いを嗅いだ。少女から、何かが匂う。口に入れてもいいものの匂いだ。永年の空腹から、解放させてくれる匂いだ……!

 「名前は?」 

 名を聞いて何になるのか、狼は理解していなかったが、それが狼にとって自然な流れだった。

 狼の問いに、少女は答える。

 きっと自分はもう長くない。それはわかっている。

 もう、どうなったっていい。

 世話をしてくれる病院の看護師たちも、心からの声をくれる母も、力強く抱きしめてくれる父も、今の自分も、すべてがどうでもいい。だから、せめてこのお腹を空かせた狼を救うことができるなら、それなりに頷ける人生だろう。


 「綿枝(わたえ)ノドカ」

 名を聞いてその化け物は黄色い目を見開き、少女に這い寄る。

 死が、少女の肩を掴んで大きく口を開ける。その骨ばった腕、鋭い牙にやっと恐怖を自覚した少女は悲鳴を上げそうになったが、不気味な黄色い目に声を奪う程の迫力で押さえつけられた。

 「ワタエノドカ。お前のその名前、記憶。全部俺によこせ!」

 何も言えない。しかしそのケモノは最初から答えなど期待していなかった。大きく開けられたケモノの口にまず反応したのは、部屋中の少女がいた証拠。折り鶴に差し入れられた雑誌、着替え、タオル…「早く元気になってね!」と書かれた寄せ書きに、机に置かれた家族写真。ひとりでに開いたキャビネットやロッカーの中の少女の着替え……それらがすべて、ケモノの口に吸い込まれていった。あまりの光景にノドカは気を失い、二度と気付くことはなかった──。


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