ツガと狼
西の海岸は歩いて十分程度の場所にある。遊泳場所でもなく、港も逆方向にあるので訪れる人も少なく、堤防のみが聳えていた。
そこに向かう途中でもツガには忙しなく動き回る魍魎が見えたし、民家で飼っている犬が喧しく吠えていて、飼い主が大人しくさせようと苦労しているのも見ているので、やはりただ事ではないことを実感させられた。防波堤に着く前に何人かの島民と挨拶を交わしたが、やはり敏感な者は異変に気付いていて、世間話の流れの中にもうっすらと住人の好奇心が聞き取れた。これは一刻も早く調べなければならないと、ツガは足を速める。
堤防への階段を越えた先が件の海岸だ。魍魎たちはもう、この辺りには全く見えなくなっていた。自我はなく存在するだけの塊が、まるでその先を恐れるかのようにすっかり消えてしまっている。そこまでするほどのモノがいるのだろうか。
階段を上りきった。波の音が大きい。砂浜に目を走らせると……いた!
大きな何かが転がっている。確かに魍魎たちが落ち着かなくなるようなざわざわした気配を感じてツガはそっと近づき、それがやっと、人間の女とその下に狼のような姿をした妖怪がいることが分かった。
どちらも息をしているので生きているが、呼びかけには応えない。全身が濡れているので泳いできたということだろうか。それにしても、どこからだろう?
とにかく人間の方をよく観察してみる。人間の女性だ。茶色の髪の毛をしていて、明るい色の花柄のワンピースを着ており、狼にしがみついていたのかその指には狼の赤黒い色の毛が絡みついている。
女性は震えていて、首に触れてみると酷い熱が手を伝う。考えている時間などない。ツガは急いで女性を抱え上げると、その場を去ろうとし……足首に掴みかかる力を感じて足を止めた。狼の黄色い目が、こちらを睨んでいた。
「連れて、行くな……」
呼吸音と共に喉から絞り出す声とも音ともつかぬものを聞き、ツガは身を強張らせる。場合によっては女性を診療所に運ぶよりも先に、こちらを片付けなくてはならない。
疲労が溜まっている狼には言葉を語るどころか、冷静に物事を見ることができなくなっていて、着ている物は全く違うのに、その目には護役の服を身にまとった中年の男が、連れている女を連れ戻しに来た施設の職員に映っていた。
「いいや。君はわからないかもしれないが、この人は病気だ。すぐに医者に診てもらわなければいけない。後でまた来るから、君はここで待っていなさい」
しかし狼の手はツガの足首を掴んだままだった。男が喋っている間に狼はその姿をじっくり見、男の身に付けている白衣に差袴を見て、掴む手に力を込めた。
ここでやっと狼は、ここに来る前にいた時鐘島で話をした護役と同じ衣装であることに気付いたが、警戒は解かなかった。このような姿の人間は、自分を祓う力を多少なりとも持っているということを今までの生活の中で何度か見てきたし、その力は見ずとも時鐘時まで会った護役たちも同じような力を持っていることは肌で感じられた。その人物が、自分から彼女を奪おうとしている。何があっても自分は彼女を守らなくてはいけない。だからこそ、男を放してなるものかと必死になっていた。
病なら、自分が治せる。そう言いたかった。しかし時鐘島から海を泳いで来たために、溜まりに溜まった疲労が口を開かせない。
「大丈夫だよ。悪いようにはしない」
安心させるように穏やかにそう告げると、狼の手の力が緩んだ。ツガは更に言う。
「いいかい、私の名前はツガというんだ。私は君に名前を告げた。私の言うことが信じられないなら、裏切られたと思ったなら、好きな時に呪ってくれてかまわないよ」
そう言うと、やっと狼は手の力を抜いてツガの足を完全に放した。
「サナギを、頼む……あいつらには、言うな……」
「ああ、わかった。君はここにいなさい。後でまた来るから」
あいつらというのが何のことかツガにはわからなかったが、返事を聞いて狼は大人しくなった。とにかく今は、この女性を助けなければ。
海岸で倒れていた女性はこの潜竜島では見たことがなく、島の誰に訊いても知っているという人はいなかった。ツガは医者に彼女を任せると、島でおすそ分けされた野菜をいくつか持って、島民に西の海岸に近付かないよう言ってから、狼のもとに急いだ。
狼はまだ海岸にいて、胡坐をかいてぽかんとした顔で海と島を隔てる壁を向いていた。そこで初めて狼の様子が分かった。体毛は赤黒く、がっしりとした体格で、本島から泳いで来たと言われても頷けてしまえるほどだ。
声をかけると狼はツガに食って掛かった。
「サナギはどこだ!?」
「医者に診せたよ。だいぶ熱が上がっていてしばらく安静にするようにと言われたから、今日は診療所で一泊かな。きみも腹が減っただろう。少しだけだが、食べるものを持ってきた。食べるか?」
ツガは持って来た野菜を見せる。狼はふらっと立ち上がり、手を伸ばしてツガから野菜を奪い取るようにして、がつがつと口に運ぶ。丸々一つのカボチャなど、堤防の壁にぶつけて入ったヒビに指をねじ込んで豪快に分けて食べている。ツガはその横、狼が許すだろう距離をとって座り込んだ。やがて狼は野菜を平らげた。物足りなさそうだったが、とりあえずこの場を凌げるようだ。
「家には肉もあるんだ。持ってこようか」
「いらね、げふっ。聞かせろ、ここはどこだ?」
「ここは潜竜島だよ」
「華表諸島の中か」
「そうだよ。君はどこに行こうとしていたんだ?」
「宛てなんてねぇよ」
「あの女性は?」
ぎろりと狼の黄色い眼がツガをねめつけるので、ツガは口を閉ざし、話を変えた。
「君は、この島に何かをするつもりかな」
「あ?何もしねぇよ。ここにいちゃいけねぇってんなら、あいつを連れてすぐに出てく」
「華表諸島に、何か用があったのか?」
「ねぇよ。ただの観光だ」
「それにしては、奇妙だね」
「何が言いたい?」
「はっきり言っていいのかな」
「言えよ!ちまちま訊かれて気分わりぃ」
「では訊くよ。華表諸島を知っているということは、島の一つ一つに守り神様がいらっしゃることも知っているね?」
「ああ」
「この島にも神様がいらしてね。その神様が島に誰かが来たようだとおっしゃったんだ。様子を見に来たら、君たちだった。しかも二人ともびしょ濡れ。まるで、君が泳いで彼女を連れてきたかのようだった。そこまでしなくてはいけない理由でもあったのかな。定期船だってあっただろう?」
「金がねえ」
「……彼女について聞いてもいいかな」
「内容によっては答えねえぞ」
「まぁ、いいかな。彼女はどこから来たんだ?」
「ずっと俺と一緒だ」
質問の答えになっていない。そう指摘しようとしたが、ツガはやめた。答えたくない質問だったのだろう。
「君は、彼女の何だ?」
「守護霊」
そんなはずはないだろう。その言葉を呑みこむ。本来守護霊は守る人物から遠く離れることができないはずだ。狼も、時鐘島でのことがあったために自分が言っていることが相手に疑問を持たせていることを感じていたのだが、自分を表す言葉としてはこれが当然であり、それ以外の言葉など狼には浮かんでこなかった。時鐘島の護役と似た格好をしており、神様がどうのと言っていたというこの男もまた護役だろう。それなら多少は自分たち妖怪の世界に知識があるということだから、守護霊が本来はどういうものかを知っているはずなのだ。
自分が祓われるかもしれない。しかしそれ以上に、サナギのことを思うと気が気ではない。狼はここで初めて、懇願の声を上げた。
「俺のことを不思議に思うのはわかる。無理な話だってのは分かるが、俺はサナギの守護霊で、サナギのために動いてる。あいつの身に何かあったら俺は誰だろうと潰すし、あいつを守るためだったら何でもする。それが全部だ。今、俺はあいつの身の安全を信じてアンタに本当のことを話してる。信じねえなら、今すぐにでもあいつを連れてここを出る」
五十数年、それだけ生きていれば様々なことがある。特に多くの人と接していれば、その人が嘘をついているかどうかも簡単に読み取れる。ツガはそういう人生を歩んできた。だから、狼は嘘を言ってはいないと感じ、しっかりと「信じるよ」と答えた。狼は決まりが悪いというように「へっ」とツガから顔を逸らして、海岸に唾を吐く。嘘はついていないが、このような頼み方は慣れていないようだ。
狼の目に、自分を珍しそうに見、しかし怖がって近付かない魍魎の姿が映った。ほんの少し目を走らせるだけでも、今までに足を踏み入れたどこよりもたくさんいる。
「ところで、彼女の熱が下がったらどうするつもりなんだ?」
ツガの言葉に、狼は顔を戻した。
「そろそろ腰を落ち着けたい。住める場所を探す」
「しかし、華表諸島にそんな場所があると思うのか?」
ツガはこの島の守り神と接している。移住にしても、神様が許可しなければ住むことはできない。華表諸島すべてがそうだ。自分が守るべき島に、得体の知れない者の居住を、守り神様は許すはずがない。
狼は空を仰いで、そのまま後ろに寝転んだ。
「なきゃあ、作るさ。俺はあいつの守護霊だ。あいつの居場所くらい、俺が何とかしてやらぁ」
奇妙な妖怪だ。ツガの知る妖怪は、基本的に人間に情を持ちはしてもそれはまるで「飼っている感覚」、または「自分と全く違う者に対する好奇心」によるもので、「自分と同等かそれ以上」の扱いはしないはずだ。この狼の言動はまるで、人間同士のそれに似ていた。いや、人間同士にしてもなかなか出てこない言葉を平気で口にする。守護霊云々は置いておくとして、自分のすべきことにまっすぐに向かっていく狼に興味が出てきて、探りを入れることにした。
「きみは?」
「俺はサナギの守護霊だ。サナギ一人の頭数に入らねぇよ」
守護される者と守護霊は二人で一つ。サナギがここで暮らすなら、それは当然自分も入るだろ、と狼はふんぞり返る。
──確かにそうだが、なんとも偉そうだな。
しかしこの狼は、どこから見ても妖怪なのにどこか人間臭い。ツガの頭の中ではもう、この狼を祓うかどうかなどという選択肢は消えてしまっていた。元々島に害をなす存在だった場合に祓えとのお達しだったのだ。サナギという彼女に何事もなければ、祓う必要もないだろう。




