千松と華表諸島の守護霊
「マジか……」
今にも消えてしまいそうなほどに力を失った雪月夜幽香という守り神だったものが時鐘島の守り神と話をしている頃、社務所ではユウトのみならずその場にいた護役が凍り付いたような無表情で、島の外から来た成人女性と赤黒い体毛の狼の姿をした妖怪に対して言葉を失っていた。
「私、何か変なことを言ったのかな」
空になった麦茶のコップを気まずそうに置きながら、その女サナギは縋るように隣に座る狼の千松を見上げると、千松はフンと鼻から息を吐いた。
「正直に話したのに信じようとしねえとは、護役ってのは頭が固いな」
我に返った先輩護役はすぐに謝る。
「すまないね。我々も初めてなんだよ……妖怪の守護霊だなんて」
自分の守護霊千松と一緒に住む所を探していることをサナギは話したが、島民を護る使命を負う護役たちは、千松と言う妖怪が守護霊だというところに食いついてしまったのだ。
「華表諸島の守護霊だろ、それが妖怪とか……」
先輩の言葉に、ユウトは呟いて付け足したのを千松は聞き逃さず、自分をまじまじと見上げるユウトに目を向けた。
「ごちゃごちゃ言うなよ、俺も驚いたんだ。呼び出されてからずっと、人間の姿の守護霊しか見てない。俺みたいな人間以外の姿の奴なんて、あの村の駐在だけだった」
「まぁ、この華表諸島はよそと違うからね。お前さんが言っている駐在は諸島の出身だから、人間じゃない姿の守護霊を連れているんだ」
先輩護役はユウトに、この島々の守護霊についての説明をさせた。
華表諸島の守護霊というものは、実は体を持たない魍魎が成長して自我と姿を得て妖怪となり、その妖怪の中に神様になるという本能を持った者が修行の一環としてなるものなのである。
「人間以外の姿であることの理由はオレたちにもわからないし、守り神様も教えてはくださらない。わかってるのは、その姿が既に死んだ動物のものであることと、その姿で存在していくうちに少しずつ変わっていくことくらいだな。千松だっけ?お前みたいな色の狼なんて、オレ知らねえし」
ユウトの説明を受けた千松は自分の腕を上げてその体毛をじっと見つめるので、サナギも同じように千松と同じ腕を見つめた。
「よく覚えちゃいないが、昔は茶色だったと思う。いつの間にかこんな色になってたんだよな。気持ちの悪い色だと笑われたっけ」
千松が何でもないというふうにそう呟くのを聞いたサナギは、千松が強がっているような気がして、その腕にしがみついた。
「千松くんの色は安心の色だよ。私は好きだよ!」
幼い子供のようにニコニコと笑ったサナギに見上げられて、おう、と答えた千松の顔が若干歪むがそれに水を差すようにユウトの言葉が千松の耳に入る。
「妖怪が守護霊になったなんて聞いたことがない。守護霊は妖怪よりも位が上だぞ。千松、お前括名を言ってみろ」
千松の表情が凍ったのを、ユウトは見逃さない。しかし畳みかけようとするユウトを、先輩護役が抑えた。
「括名はわかるか?」
ユウトは穏やかな調子で尋ねる先輩のやり方に、腹の中で何かがぐるぐると動き回るような感情を抱き始めていた。焦れていたのだ。
妖怪が守護霊というのは、ユウトは聞いたことがない。この狼が守護霊であると聞いて驚いていたのだから、先輩護役も同じだ。華表諸島中の守護霊を知っているわけではないが、この島々の外から来たこの狼を信用してしまうのは危険だ。
それではこの狼は何なのか。それを確かめないことには、ユウトたちとしても手が出せない。
「くくりな……」
セミの声だけが室内の重い空気を震わせる。この妖怪はどう答えるのか。ユウトは睨みつけるが、その質問をした先輩護役は不気味なほどに穏やかな表情で答えを待っている。
誰も何も言わない空気の中、女の声が弱々しく、しかしはっきりと護役の耳に届いた。
「くくりなって、何ですか?」
答えられない千松に知らないサナギ。ユウトの中でこの二人は守護霊と守護霊憑きという関係ではないと結論づけるが、それでもなお先輩護役は穏やかで優しく話しかけた。
「お嬢さん、サナギさんでいいかな。あなたが知らないはずはないんだよ。ご両親から何も聞いてないのかい?その千松くんの名前だよ」
え、とサナギは硬い表情のままの千松を見上げる。
「千松くんは、千松くん、ですけど……」
一言ずつ、言っていいことなのかを確認するようにサナギは千松を見上げながら、しかしなにも答えが返ってこないのでおずおずと口にする。そこに止めを刺すように、ユウトは口を出した。
「括名は呼び出した側が守護霊につける名と、守護霊が元々持っている名を組み合わせたものだ。そいつは何、千松だ?それとも、千松、何だ!」
先輩護役に窘められてもなお食ってかかるユウトにサナギは何も答えられず、千松の腕を掴む手に力を込めた。
「名前がそんなに大事か」
苦し紛れだろう、千松は低く声を上げてサナギの手を振り解くとそのままサナギを自分に引き寄せた。
「俺が信用できねえってか。雉の妖怪には世話になったから頼みを聞いたってのに、この仕打ちかよ。時鐘島の護役はいい奴しかいねえと聞いたが、そりゃあの妖怪に限ってのことだったか」
しまったと思っても後の祭り。千松は威嚇しながら、ゆっくりと逃げる準備をしてしまっていた。ユウトは何とか場を治めようとしたが、一度警戒してしまった千松は耳を貸そうとしない。
「その事については感謝してる。でもお前は島の外から来た妖怪だ。この島の人間に何かあってからじゃ遅いんだよ!」
「こんなしみったれた島の奴らを、俺がどうこうするとでも思ってんのか!」
千松の怒鳴り声は参拝客たちが見に来るほどに外まで響いた。ユウトが妖怪に連れ去られたという情報があってからはやじ馬たちで神社にはいつもよりもたくさんの人が来ている。
「俺は、サナギが暮らせる場所さえあればいいんだ。他の人間なんてどうでもいい!」
拝殿の外で、狼の遠吠えと何かが暴れる音が響いた。それは、友を送ったばかりの禊月ヅナには意地を張った子供の声に聞こえた。味方だと思った者に攻撃されるかもしれないという自己防衛の叫びにも、わがままな子供が周囲に当たり散らす喚き声にも聞こえた。いずれにしても、助けを求める声には聞こえず、時鐘島の守り神はそこから動こうとしなかった。
「幽香殿、すまぬ。そなたの恩人たちと話をすることは叶わなかったようだ。けれど、他の神々に話をしておこう。案ずることはない。他に八つの島があるのだ。そなたの最後に愛した子供たちを受け容れる島は、必ずある」
禊月ヅナの耳には、やじ馬たちの大騒ぎなど聞こえない。自分を呼ぶ護役の声も聞こえない。ただただ、もういなくなった友人のいた空間だけを見て、静かに目を伏せた。
空を覆っていた雲が晴れて夕焼け色に染まる海を臨む砂浜に、二つの影が伸びている。
「千松くんは、守護霊だよね?私を守ってくれるんだよね?」
不安を隠さずに見上げるサナギの肩に、千松は自分の手を置いた。この海の向こうには、他にも島がある。あんな小僧ではなく、もっと話のわかる専門家の下ならばきっと、サナギは穏やかに暮らせるだろう。
「今までの俺の行動を思い出しても信じられないか?」
サナギは首を横に振る。荒っぽくはあれど、今までも千松はサナギを第一に考えて行動していたし、都市伝説と呼ばれるモノからも妖怪と呼ばれるモノからも、守ってくれたのだ。疑うことなど考えられない。
「でも、あのお兄さんが言ってた言葉がわからないの。くくりなって何?」
泣きそうな声だったのは、自分の側にいる狼の妖怪について知らないことがあったからなのだろうか。それとも別の理由からか。
答えが返ってこないことに不安が深まる。堪らなくなってサナギは千松の着物を握った。
「俺でもわからないことはあるんだ。もしあの小僧の言ったことで俺を信じられなくなっても、これだけは信じろ。俺はお前のためだけに存在するんだ。何があってもお前を守る。
だから信じろ。俺に掴まって、大きく息を吸え。何があっても離すなよ」
時鐘島の守り神からの指示で護役たちがそこに到着した時、そこには既に誰もいなかった。
寄せては返す波に向かって消える足跡のような凹みだけが、その存在を主張していた。




