事情
大きな妖怪がユウトを──禊月神社の護役を抱えて風のような速さで駆けていったという話は目撃者によって瞬く間に年寄りたちの間で広まっていき、社務所の電話がその問い合わせで鳴りっぱなしだ。
「……はい、いいえそれはありませんので、ご安心ください。……はい、それは確かに……その護役はこの神社にいます。怪我もなく無事です。はい、はい……」
社務所の中。先輩護役が壁掛け型のダイヤル式黒電話の受話器を置くと、息を吐く間もなく次の電話のベルが空気を震わせる。護役は再び受話器を耳に当てて同じ質問に同じ答えを返していく。その奥の休憩室では、別の先輩護役が長方形の卓袱台を挟んで座っているユウトと、ユウトたちを連れてきた狼の姿の妖怪と狼の連れて来た女が並んでいる。護役はその三人に呆れたような目を投げていた。
「お前、とんでもないことをしたな」
責める口調でもなく、腕を組んでから先輩護役は頭をボリボリと豪快に掻きながら、「オレのせいですかね……」とこぼすユウトの言葉を無視して拝殿の方向に心配そうな顔を向ける。
狼が連れてきた雪月夜幽香という雉の姿をした神様は、今朝のニュースで流れていた巣降の村の守り神だった。六年前にその座を降りて村の外でひっそりと暮らしていたのだが、目の前にいる赤黒い色の体の狼が連れてきたのだ。そして今、その神様はこの時鐘島の守り神のいる拝殿の奥で、この島の守り神と話をしている。今にも消えてしまいそうな幽香を見た護役たちは彼女の願いを聞き入れ拝殿に通したが、ユウトも他の護役も今にも幽香が消えてしまうのではないかと心配している。もっともそれを簡単に顔には出さずに、変わったお客様が来たという体を成して行動していたが。
狼とその連れの女の前には麦茶を、ここの勝手を知っている後輩護役には空のコップを出した。自分で注げということのようだ。
「うちの護役が迷惑をかけたようで申し訳ない」
顔を三人に戻して護役は頭を下げるので、ユウトは居心地が悪くなりコップを持って先輩の隣に移動して麦茶を注ぐ。
「今うちの護役長は外出しているんだ。詳しい話は私が聞く」
すると今度は狼の方が頭を豪快に掻いた。
「どっから話したもんか……」
狼は視線を上に向けてあれはああで……と呟きながら腕を組み、首を傾げる。焦らしているわけでも相手を馬鹿にしているわけでもなく、本当にわからないようだった。
「そこのお姉ちゃんは、幽香様が見えないのかな?」
隣の狼を心配そうに見上げている女に話しかけると、女は護役の方を向いた。
その顔に護役は奇妙なものを感じ取る。一見して成人女性なのであるが、顔つきが幼いのである。童顔というのも少し違う。まるで、ずっと何かに閉じこもっていて世間に揉まれたことがないような、甘ったれた顔という形容がぴったりだ。
「私は妖怪さんが見えません。でも千松くんは見えます」
そう言って女はコップを両手で持ち、くいっと麦茶を飲み干した。
「冷たい! 千松くん、冷たい麦茶だよ!」
女は驚いたように目を大きくして狼の着ている着物の裾を摘んで軽く引っ張る。狼はしかし、それには反応せずに天井を仰いだまま連れて来た女に訊いた。
「サナギ、あの妖怪と初めて会った時のこと憶えてるか?」
サナギと呼ばれた女はもう一度麦茶を口に含み、ゆっくりと喉を通していく。
「えーっとね、村の鳥居を見て、千松くんが嫌そうにしてた。そこに妖怪さんが来たんだよね?」
「あー、思い出した、思い出した。そうだ、そこからだな」
「昨日のことなのになぁ。千松くんが何もないところに話しかけてたから、そこにいるんだなーと思ったよ」
千松と呼ばれた狼は話し始めた。困っていたところを助けてくれたこと、千松が世話になったこと、連れていた女、サナギが村人に追われたこと。そして隣に座るサナギの両耳を塞ぎ、その夜に何があったかを、千松は続けた。護役たちの顔色が変わっていくのがサナギには見えたが、千松は淡々と続ける。
電話のベルは戸の向こうで相変わらず喧しく響くが、話を聞く護役たちにはそれが遠くに聞こえた。社叢林の中を通る風がさやさやと木々を撫で、社務所の開け放された窓を通って空気の入れ替えをして、ユウトの「そんな……」という呟きを乗せて抜けていく。
「そんなもこんなもねえよ。嘘も偽りもない、俺が見たすべてだ。その後のことは想像に難くねえだろ」
「千松くん、放してよ」
「ほいほい」
ぱっと解放されてサナギは座り直し、白髪の混じった護役をじっと見た。何か言わなくてはと思う。しかし、何を言えばいいのかわからない。あの妖怪さんは神様なんですか、なんて聞けるわけがないのはわかる。何しろ巣降にいた時に周りの人間たちがそう言っていたのをしっかりと聞いていたのだ。村の守り神様がその土地を離れたということを自分に置き換えて考えて出てきた答えは──護るべきものを、見捨てたということ。それを思うとサナギも何も言えない。
ただ、戸の向こうの電話のベルの音だけが喧しくて、ユウトには自分の世界が壊れていない証明になっているような気がした。
華表諸島の神社は、実は正式なつくりではない。正式なものならば参拝するための拝殿とご神体が納められた本殿が存在するのだが、この島々の神社には本殿と呼ばれるものがなく、拝殿の奥にご神体とされる動物の木像が一体安置されているだけで、誰でも簡単に見ることができるのである。本土の神職に言わせれば実にいい加減で見掛け倒し、素人の作った真似事の神社だ。神像にしてもふざけていると、護役長のマサナリが面と向かって言われたこともあった。その事について一悶着あったが、このことについてはユウトが護役になる前のことなので、そんなことがあったのかという程度でしか知らない。
「あんたたちが幽香様と一緒にここに来た理由は分かったけど、この後どうするんだ」
護役の言葉を聞き、千松は何も言わず拝殿に目を走らせた。
消えてしまいそうな元守り神をここまで連れてきたのは、恩返しのためだけではないのだ。彼女に頼んだことが終わるまでに、消えられるのは困る。
千松とサナギが護役たちと話をしている間、雪月夜幽香は拝殿の奥で時鐘島の守り神と対面していた。
「幽香殿……」
拝殿の中で、熊の神像の前に人間と熊の混じった歪な姿の禊月ヅナが哀れみに満ちた目で床にへたり込む雉の姿の妖怪を見下ろし、その場に座りこむ。
「お久しゅうございます、禊月ヅナ殿」
見上げられてヅナの胸の奥に冷たいものが走った。昔は人間の腕と顔を持ち、それ以外は茶色い雉であったのに、目の前の幽香は全てが雉になっていた。かつて雪のように白く美しかった人の腕も顔も、もう雉の茶色い羽に覆われて、黒いくちばしが幽香の言葉を苦しそうに吐き出す。もう動くこともままならず、見ているだけでも彼女に時間がないのは明らかで、それでも禊月ヅナは今まで通りに接しようと気を張った。
「随分と神格を失われたようだな」
「以前はもう少し見られた姿でございました。このような姿で目を汚すことをお許しください」
床に翼をつき、幽香は頭を上げようとするのを、ヅナは止めた。
「何を言う。そなたがどのような姿でも構わぬ。我らも似たような姿を経たものだ……こうして姿を見せてくれたこと、嬉しく思う」
華表諸島の外の土地の神が生まれながらに神であるのに対し、禊月ヅナを始め雪月夜幽香も、他の呼び出された神は皆ケモノと人間が混じった姿で現れる。それは、彼らの成り立ちによるものだ。
華表諸島に存在する魍魎も守護霊も守り神も、元を正せば皆同じものなのである。魍魎は意志を持たない精霊で、やがて自我が芽生え、姿を得て妖怪となる。そして一握りの妖怪の中には、修行をして神になるという本能が眠っている。
何のために修行をするか。何をもって修行とするか。神となってどうするのか。その疑問は本能の前には些末なことであり、皆それぞれの方法で修行をして神格を積み、神になろうとするのである。華表諸島の守り神たちと雪月夜幽香はその修行中に呼ばれ、修行の一環としてその任を受け容れた。人間と違う時の流れの中で土地を守り、人間を見守っていくうち、それぞれが幸福を感じていると思っていたのに……。
「禊月殿、私は神の座を降り、神の国に戻ることにいたしました。金輪際、呼ばれても人間の世界には戻りますまい。私に力が残っていればすべての神々に別れを告げることもできましょうが、叶いませぬ」
「ああ……俺から皆に伝えよう。皆等しくお前を案じていた」
「最後にお願いがございます」
「言ってみろ」
幽香は頭を上げて、いまだ修行を積んでいる友の目を見据えた。今まで守り神として世話になった。しかしその地位がなければ、同じ立場の友だった。友として頼みたいと、幽香は絞り出す。
「私が連れてきたあの二人を、この華表諸島のどこかに住まわせてやってください。身寄りなく、何かに追われて疲れきっていた者たちです。久しぶりに私の存在を認め、温かい気持ちにさせてくれた子達です」
本当ならば自分が何とかしてやりたかったけれど、もうその力は残っていないから、と雉はか細い声を出す。
床についた翼がだんだんと透けていく。脚が短くなっていくのがわかる。このまま本物の雉の姿に……自分が姿を借りた鳥の姿に戻って、神の国に還る。
「禊月殿、どうか、どうかあの二人を」
その言葉を残して、雪月夜幽香は人間の世界から消えていく。
最後に見た禊月ヅナの頷く姿に、安堵の笑みを浮かべながら。




