7.賛同されない器官
「よっ、内藤。その後、妊夫の調査はどうだ?」
「あー、先輩。今日はちょっとこっちの記事でいっぱいいっぱいなんで、ちょっとそっちの話まで付き合う余裕はないです」
コーヒー差し入れられても、困ります、と知杖は先輩が後ろに隠している缶コーヒーの存在を指摘しつつ、パソコンの画面に向かっていた。
300万円からの妊活の記事は今やクライマックスで、最終的な結論というものを書いているところなのだ。
結果的には「本人達の意思が大切」で、「教育の機会はある程度最低限は保障されてるから、その中でどう育てるか」なんていう結論に帰結する予定だ。
子供が制服のバリエーションを言い始めたら、「自分で稼いで買う」という方法もあるのでは、という提言もしている。昔から高校の選び方なんて、学問の内容より制服! という部分もあったものだ。
そして可愛い学校は制服も高い。けど、だったらその分は親が払えないなら、子供の努力を煽るというわけだ。本人が働きたくないというなら、分相応というのを覚えてもらえば教育の機会にもなる。
そして、子育てに困ったらうちの雑誌を見てね! というようなメッセージを当然込める。
場合によっては図書館で読んでもいいから! というようなおまけ付きだ。
そう。お金がなくて出産しない、と構えてしまっている人達に、お金無くてもいろいろ手段はあるのです、と言った手前、是非買ってください、お金使ってくださいと言えない知杖なのだった。
「そういうなよぅ。妊夫のほうも変化あったって話だろ。俺が調べたところだと、かなりの数の当事者の体に変化が起きたっていうじゃねぇか」
「はいはい、わかってるなら、私からの話なんて聞かなくていいじゃないですか。っとあぁぁもう、話しながらだと誤字る」
キーをたたきながら先輩の相手をしているとどうしても入力の方ははかどらない。
去って行く気配のない先輩を前にため息を漏らすと、とりあえず、単語の羅列をしながら、先輩との話をすることにした。
キーワードを抽出しているだけなので、これならあまり間違えないだろうか。
「いちおう変化の話は知ってますよ。髪の毛抜けるのが遅くなって、髪がよみがえった! なんて話もありますし」
「って、そっちじゃねーって。そっちもまぁ……変化っちゃ変化だが」
そりゃ、普通の妊娠の範疇だろうが、と言われて、わかってるなら自分で言いなさいよと知杖は思った。
そしてうっかりキーボードで、出産後大量の抜け毛問題、なんて単語を打ち込んでしまった。
いけないいけない。ごっそり毛が抜けるなんて書いたら、今時女子の妊娠率が下がってしまう。
「女性ホルモン、特に黄体ホルモンのレベルが上がっているっていう話はあるみたいですね。それで抜け毛が減って、出産したらどばっと今まで抜けなかったのがごっそり抜ける、と」
結構みんなショッキングみたいですよー、というと、おまえ知ってて言ってるよな、と先輩は呆れた顔をした。
いや、だって、こっちの記事がいっぱいいっぱいな時に声をかけてくるのだもの。
はぁ、とため息をついて。指を動かすのをやめて、先輩に向き合う。
原稿間に合わなかったら先輩の所為ですからねと恨み言を言いながらだ。
「シゲさんの体にも変化は出てました。ついおとといの話ですけどね。話によると産道ができたってことみたいですよ」
今まで、帝王切開しか無理と思われていたところで、いきなりの体の変化だった。
多くの妊夫の体に、胎児を外に出すための通路ができたのだ。
普通の男性には存在しえないそれは、寝ている間にいきなりできており、一部ではこれが謎穴か……なんていう揶揄すらされているところだ。どこにどうつながっているのかは現在検査中という話だった。
ちなみに、真にも連絡は取ったけれど、検査の結果、人工的に作った穴を押しつぶすようにして、産道ができていたそうだ。
人間の技術をあざ笑うようだと彼女は苦笑していた。
でも、これでどこにもつながらない穴じゃないのができた、とうきうきした声を漏らしてもいた。そうとう嬉しかったらしく、あーあ、出産してもこれが残ってたらなぁと、ぼやいていた。
意地悪で、生理も来れば良いのにね、とか言ったんだけど、「そりゃもう! ほんと! 来て欲しいね! 来たらお赤飯だね!」なんて素で返されたので、ああ、そっか。当たり前なものって面倒くさくなるもんなんだなってちょっと知杖は思ったものだった。
きらきらした声がちょっと、ざわっとして、でもきっと続いたら慣れて同じになるか、なんていうようにも思った。
結局は今回の妊夫の事件に関しても、男が妊娠するようになれば体系化されて、普通の日常になっていくのではないか、などと知杖は思っている。
もちろん、来年あの黒い影がまだ同じ事をするかどうかはまったくもって不明だ。
未だに、超常現象を扱っている老舗雑誌では、神の呼び声とか、地球外生命体がどうのと言う話をやっていて。実際部数を伸ばしていて、きぃーとなっていたりする。
宇宙人といえば、牛とか家畜の血を抜いていくとか、基本ネガティブなイメージだというのに、子宝をというのはよくわからないのだけれど。あちらの記者さんは、言うに事を書いて「宇宙人の子供を地球に根付かせる実験」だなどと言い始めている。
それに対して、知杖のところは、協力者からのエコー写真までもを掲載して、これがエイリアン? はんっ、きちんと我らの子供だと擁護をした。
これは、生まれた後のことについても考慮して、社内で決めたことだ。
ジャーナリズムは、というか。この世の人が作り出した物は、人のためにあるものだ。
誰かを守るためにジャーナリズムもある。
スクープばっかりを追って、人をおとしめて注目を浴びないと、生活していけないような今の社会であっても、弱者をやり玉にすることは駄目なことだ。
必死で今を過ごしている妊夫を、「憶測」でおとしめて良いはずはない。
「これは、ちゃんと分娩しろよこらぁってことなんかね」
「どうでしょうか。でもメッセージとしてはそれで正しいのだとは思います。でも、なぁ……」
うーんと悩み込む知杖に、先輩は首を傾げた。
「たぶん、ちゃんと出産できるようになってるんでしょう。超常存在ってのはほんとすごいですよね。でも、さて。彼らは痛みまで消すのでしょうか?」
「痛み? 出産の痛みってやつ?」
「私は経験ないから、ほんと又聞きですよ? 痛風の痛みは妊娠のそれと、って比較されますけど、とにかく痛いらしいです。しかも断続的に、出たり出なかったり。出産するまで数時間……人によっては八時間とか、そんな波が続くって言いますね」
まあ、結果的にそれでもみな出産をするわけですが、というと、先輩は、そうだよなぁと緩い顔をした。まさに実感してませんという表情だ。
いつか痛風になったら痛みの具合は想像できるだろうか。
「いちおう、妊婦さんの間でも自然分娩なのか帝王切開なのかってので論争はありますよね。帝王切開にしたっていうとディスられるという」
「みたいだよな。痛みがないからとかだっけ? 実際は自然分娩できない条件で行われるんだったか」
腹をかっさばくって時点で、俺、痛くて無理、とか先輩は情けないことを言った。
そう。少し気になっているのはこれだ。
「ほんと先輩はへたれですね。でも男の人って痛みに弱いっていいますよね。そうなると……その、自然分娩が正解だとしても痛みでバイタルが悪化するとか、そういうのはないんでしょうか」
例えば気絶してしまうだとか、というと、そこはどうだろうなと彼は首をひねった。
体験した人がいないからわからない、というところだろうか。
「胎児が死ねば、夫体も溶けるんだろうな、やっぱり」
「ええ、多分そうなると思います……でも、耐えられなかったらって、割と難易度高くないですか」
「痛み止めとか使ったらやっぱまずいんかな」
「……自然分娩だと、痛み止め使うって話は聞いたことないですね」
っていうか、使っちゃダメじゃなかったでしたっけ? と知杖は前に調べたことを思い出す。
妊娠企画をやっていたりすると、どうしても触れあう事になるのが、妊娠中やっていいこと悪いことという話だったりする。
妊娠中に使える薬はなにか、というのもそれなりに調べたことがあったし、取材にも行った。
そこで言われたのは、妊娠後期の痛み止めの使用について、原則ダメという話だった。
たぶんそれやったら、溶けるだろうな、というのは医者なら予想がつくだろう。
あとは、和痛分娩という方法があるとは言われている。
麻酔をいれて、痛みを抑える、体力の消耗を抑える手段だ。
こちらならばお産に使えるという話はあるのだけれど。
「麻酔を使うのが正解なのかは、ほんとわからない……」
黒い影が何をもって正解とするのかはわからない。明確な答えは一つだけ「胎児に対してネガティブだとダメ」という一点だけだ。
麻酔に関しては、無事に出産をするための人間の知恵の結晶のようなもののようにも思う。
日本ではあまり選ぶ人はいないけれど、方法論として出産のリスクを減らすためにはありなのだと思う。
しかも今回は、体力が落ちた高齢な人達が多いわけで。
果たしてどうするべきなのか、がわからない。
「今のところ、出産日を調整したりとかってのはやろうってところはないんだよな? あんまりいじるとやべぇみたいな」
「ですね。子供が無事に生まれたらOKなのか、それとも変に手を入れると溶けるのか」
ほんと、わけわかんないです、と首を傾げると、じゃあ、取材だなと先輩は無慈悲なことを言い始めたのだった。
はい。でもそれは本業の記事の方を終わらせてからよろしくお願いします。
「やぁ、よく来たね、知杖ちゃん」
さて。この前も来たばかりのお宅に知杖はお邪魔していた。
シゲさんの住んでいる自宅である。
以前は父と一緒にお邪魔をしていたのだけれど、頻繁に通っているうちに一人でも問題なく通えるようになった。
そう。シゲさんはあれから実家療養という形を取っている。
安定期に入ってからの彼は、本来妊婦はずっと入院しているものではないだろう? とこの家に戻ってきたのだった。
いつもここに来ると奥様がいろいろと世話を焼いてくれるのだけど。
いつも、すみませんといいつつお茶をいただくのが最近の楽しみだ。
おばさまの趣味なのか、ここの紅茶はやたらと美味しい。
茶葉の味が立っているというか、香りがやばいのだ。
いつもコーヒー派な知杖としても、これはと思える味なのである。
「また、うちの人に聞きたいことでもできたの?」
「先輩にちょっとせかされちゃいましてね。取材を含めて行ってこいって」
この前来たばかりなんですけどね、と言うと、おばさまはいつ来てくれても良いわよ、と朗らかに笑ってくれた。
この状況をどう捉えているのかはわからないけれど、知杖が来ること、記事になることに悪感情はないようだ。
「先日の記事は読ませてもらったよ。妊夫記事、頑張ってるじゃないか」
「いえ、アレはその、書いてっていわれて書いたんで、ちょっとみなさんの意見とは違うかもですが」
真に言われて書いた記事は、実際雑誌の売り上げを押し上げる働きはなかった。
むしろ、溶けたー! って時の方が売れた件数は多いのでそれに比べると、ちょっとという感じだ。
人の不幸は蜜の味というけれど、幸せなほっこり記事よりも、今回の件に関してだけいえば、ざまぁ展開のほうがウケは良いらしい。
そこには多分、今回の当事者がエリートと言われる人達ばかりが含まれているからだろう。
少なからず、そういう気持ちで今回の件を見ている人達はいるようなのだ。
「正直、目からうろこというか、そういう発想もあったのかって、考え直したんだよ」
うちのにも、あら今更気づいたの? って言われてしまってね、とシゲさんは頭をかいた。
心なしか今までよりもほっとしてるといか、余裕ができたというか。
ああ、これは覚悟を決めたというやつなのかもしれなかった。
真から聞いた、「産めるのが幸せであることに変わらないよね」っていうのは、一部の妊夫には受け入れられているらしい。
「あと二ヶ月くらいだけどな。ちゃんと産んでやるのがこの子のためだと思い直してな。最初はなんて災難なんだって思ってたんだが」
これはいろいろ考え直すいいチャンスなのかもしれないなとシゲさんは言っていた。
お腹を軽くなでながらである。まさに妊夫! という感じなのだった。
「それで、その、先輩が産道形成の話を聞いてこいって五月蠅くてですね」
「そのことか。検査の結果はそこにあるから、持って帰るといいよ」
「おおっ、準備早いですね!」
やったと資料に飛びつくと、そのまま確認させてもらう。
かなり詳細な資料だ。さすがにこれをこのまま載せることはできないけれど、かなり有益な情報源といったところになるだろうか。
「それで、シゲさんは自然分娩と、帝王切開、どちらを選ぶつもりですか?」
「いちおう自然分娩と考えてるよ。これができた、ということはそうしろってことだろうし。それに我が家はあまり帝王切開はしない主義でね」
痛みも、子供を授かるまでの過程の一つと考えているんだ、と彼は言った。
日本ではある程度一般的な考え方といって良いだろうか。
「けれど、体が持たないとか子供が危ないとかってなったら、帝王切開に切り替える予定なの。この人、痛がりだから大丈夫かちょっと心配で」
お茶をいれてくれながら、おばさまも補足をしてくれる。
なるほど。体験者だからこそ言えることもある、か。
「やっぱり、陣痛の痛みってやばいんです?」
「あら、貴女はまだ未経験なのね……私が若い頃は、貴女くらいなら三人目とか産んでたけれど」
「……30年一昔、ってやつでしょうか」
なんだろうか。なぜか子供を産んでます発言というのは、本能として優位であると思わせられるのは。
知杖にはまだ、子供を産む余裕はない。
そもそも、その相手すら、といったくらいだ。
その自責の念が勝手にそう思わせるのだろうか。
でも、今はそんなにほいほい知り合って結婚できる時代でもない。そもそもどう出会えという感じだ。
「あの。どうやって、お知り合いになったんです?」
なれそめとか聞いてもよいですか? と尋ねると彼女はぱぁっと明るい顔を浮かべた。
なんだろう。話をそらすためとはいえ、この話題を持ってきたのはよかったのだろうかと思っていたのに、彼女はにっこにこである。
「うちは、お見合いよ。最近は斡旋するところはあんまりないだろうけど」
おばさまは、女子校出の男っけのない人だったのだったそうだ。
そして、家事手伝いをしつつ、そのままお見合いでシゲさんと出会ったのだとか。
正直、今の時代とは違う、価値観だ。
そりゃ、親戚とかから結婚はまだか、なんて言われることはあるけれど、当時は結婚斡旋所みたいなところもあったというし、街コンなんて無くたって、結婚率は高かったのだ。
それだけ結婚しやすかった時代なのだろうなぁと、知杖は思う。
「しかし、お見合いであっさりですか……」
「今の人には信じられないことでしょうけどね。当時は結婚しないってかなり冒険だったし、それに会ってみるとこう……生き生きと仕事してる姿がかっこよくて」
「うわぁ……思い切りのろけですね」
しかも本人を前にですか、と言ってやると、恥ずかしくもないですから、とむしろ胸を張られてしまった。
「うちの家内はいいだろう? しかもこうやって出産経験のある先輩として助けたりもしてくれるしな」
「あら。そんな風に思ってくれてたのね」
てっきり、母親代わりと思われてると思ったのに、と彼女は一転、苦笑を浮かべる。
「おいおい、そんな風に思ったことなんて無いっての。いてくれてすごく心強いんだぞ」
妻として、だとシゲさんがいうと、はいはい、と彼女はその言葉を軽くあしらった。
「この人ったら、私が出産したときは、スクープが! とかいって立ち会わなかったんです。それだけはちょっと怒ってるんですからね」
「う……そりゃ、悪かったと思ってる。でも、仕事なんだから仕方ないだろう?」
「きっと、妊夫になった人はほとんどがこうなんでしょうね。支えられてるのもわからず仕事に打ち込んで、えらくなって」
でも、と彼女はそこで言葉を切って、にこりと知杖に笑顔を向けた。
「うちの人は、この状態で私に頼ってくれました。きっと他だとあんまりないことだと思うの。男は情けない姿を見せてはいけないって時代だものね」
奥さんに助けを求めてくれるって、こんなに嬉しいことないじゃない? と彼女は嬉しそうにしていた。
「確かに調査をした限りでは、たいていが医者などにサポートを任せるケースが多いですね。入院をしてしまうケースも多いし、在宅でも奥様にというのはあまりないかもしれません」
男の人的には、妊娠してる姿を見せるのが恥ずかしいとかあるんですかね? と首を傾げると、きっとあるだろうなと、シゲさんが言った。
「若ければまた別なんだろうが、名前を聞けばかなりの重鎮やら大物が混ざってるしな。仕事一筋できてここで、となると切り替えもままならないだろうな」
しかも、みんな家庭に支えられて仕事だけやってたようなのばっかりだし、と自嘲気味にシゲさんは言った。
「ほんと。最初はこれは罰かなにかだと思ったのものだが、いろいろ考えるきっかけになったよ」
「あとはこれで、貴方が無事に子供を産んでくれたら、言うこと無しなのだけど」
「だな。でも、子育てには手を貸してもらうからな、先輩」
頼ってくれていいけど、メインは貴方がやってくださいよ、とおばさまは茶化した。
あと二ヶ月。
数ヶ月前の生々しい「溶解事件」の記憶もまだあるなか。
少なくとも、おばさまは無理をして明るく振る舞おうとしているようだった。
知杖には、そんな二人の姿をただ、観測することしかできなかった。
親世代の結婚観と、今の時代の結婚観ってかなりかわったよね、というお話。
そして、結婚するのが大変になっていく現代社会です。
結婚を阻むのはなんなんだろうかってな話なのだけど、夫婦が「経済的に同等」だと結婚は上手く行かないっていうなら、そこは新しい価値観が必要なのかなと思います。
さあ、次話はやっと分娩当日となりますが。週末当たりにはいけるといいなと思ってます。
(おかしい、もちっとさっくりスマートに書き終わる予定だったのに)
年収300万時代で、子供を持つために、ですね。