徳島高校生連続殺人事件
川里隼生小説九十作記念
一九九五年は異常な年だった。神戸の街は揺れ、東京地下鉄の客は倒れ、富士の尊師は逮捕され、羽田の飛行機はハイジャックされ、八王子のスーパー店員は撃ち殺され、福井の高速増殖炉はナトリウムを漏らした。だから、徳島で起きたこの事件を知る者はあまりいない。あの夏の日々のことは、ほとんど誰も覚えていない。
事件が発覚したのは八月一日。被害者の名は香坂南平。徳島市内のA高校に春から通っていた。遺体は市内のとある小さな山で、前日の大雨によって発生した土砂崩れの様子を見に来た住民が発見した。両親は息子が帰ってこないことを気にしていなかったという。香坂はあまり素行が良くない少年で、無断外泊は日常茶飯事だったのだ。
香坂は私服で、身体中に暴行を受けた形跡があり、特に頭部には強く殴られたような痕が複数あった。口の中は切りつけられ、カッターナイフがそのまま残っていた。検死の結果、まず最初に頭部を殴打されて死亡し、その直後に暴行されていたことがわかった。付着した土などの状態から、遺体は埋められていたことも判明した。この時点ではただの殺人事件として扱われており、マスコミも大きく取り上げなかった。
しかし事件は思わぬ展開を迎える。徳島西警察署は七月二十九日から三十一日の三日間にかけて、連続して高校生の捜索願を受理していたことを公表した。B高校の佐利欧武。C高校の解田未羽。そしてD高校の紋寺勇気。いずれも行方不明になった当時は一年生だった。香坂も含め四人とも徳島市内の別々の高校に通っており、部活や成績などに共通点はなかった。
彼らを結びつけたのは、地道に聞き込みを行った刑事たちだった。C高校で解田の友人だった女子生徒から、四人は同じ中学校に通っていたことを突き止める。さらに別の生徒から、四人はグループになって、ある生徒をいじめていたという証言を得た。いじめられていたのは幕日悠人。徳島市内のE高校に通う、一年生だった。
そのいじめの手段だが、私の想像力を凌駕するものだった。中学校の三年間で時に佐利が生きた虫を食べさせ、時に解田が強姦し、時に紋寺が薬物や犯罪に手を染めさせ、また時には香坂がカッターナイフで切りつけた。体への暴行や、金品の強奪は当然のように行われていた。服で見えないのをいいことに、金属バットで殴られることもあったという。夏休みには一週間ほど監禁され、満足に食事を与えられなかった。
香坂の遺体に残った指紋と一致したことから、徳島西警察署は香坂殺害と死体遺棄の容疑で幕日を逮捕した。幕日は取り調べで容疑を認め、さらに他三人の殺害と遺棄を自供した。幕日の自供通りの場所に遺体は埋められていた。いずれも頭部の外傷が直接の死因だが、佐利の口には虫の死骸、解田の口には避妊具、紋寺の口には大麻の葉がそれぞれ大量に残されていた。彼の憎悪が伺える。
私は週刊誌の記者として、幕日の裁判を傍聴した。判決は懲役二十年だった。
「二十年……?」
解田の母親だった。それを聞いた幕日は急に裁判官の言葉を遮り、自分で語り始めた。
「軽いでしょう? 警察からなぜ教師に相談しなかったのかって言われましたけど、相談したところでなあなあで終わらせるのがわかってたからですよ。だから僕は自分で刑を下したんです」
裁判官の制止を無視し、幕日は傍聴席へ演説を続けた。最初から最後まで敬語だったことが、強く印象に残っている。
「僕は被害者です。何度死ぬ思いをしたことかわかりません。今、やっと加害者全員が僕への罪を償い、平等の立場に立ったんです」
幕日は泣いていた。法廷なので写真を撮ることができなかったが、確かに彼は涙を流していた。あの涙は自責の涙だったのだろうか。それとも達成感からきた涙だったのだろうか。幕日は二〇一五年、徳島刑務所を出所している。