第六共感の画無白譜
線路上を朝の電車が足早に駆け抜ける。中に詰め込まれた仕事着を纏う大人たちと制服姿の学生達が、単調に駅から駅へと運ばれてゆく。
車窓の向こうに広がるのは都会と呼べるほど開発も進まず、さりとて田舎というほど牧歌的でもない、平々凡々とした街並みだけ。
見所など何もない在り来たりな風景。けれど吊り革に捕まる一人の青年だけは、朝刊の紙面を見つめる会社員のような、一定以上の不可思議な熱量を持って見つめていた。
「今朝は異常無し、かな」
呟かれた独り言は電車の走行音に掻き消され、人間の耳に届くことは無かった。窓の外にある街並みは、確かに誰が見ても平凡そのものだ。
しかし彼の瞳には、街中を漂う淡い虹色の立方体が写っていた。
しかもそれは一つではない。
さながら羽虫や雑魚の如く複数の群れをなして、更に物質を透過しながら漂っているのだ。
次なる駅へと直走る車体を、窓を、吊り革を、そして乗客達を透過して、石鹸玉の如く光る立方体が、車両の後ろへと流れてゆく。
明らかに異常なその風景は、彼にとって物心付いた頃からずっと目にしてきた、いつもと変わらぬただの風景だった。
その、余人には異常でしかない「異常無し」を確認した青年は、今年で十五年の長い付き合いになる相棒に目配せする。
まるでラッパーをデフォルメしたような造形を持つそれは、宙に描かれたイラストの如きその存在は、その目配せを受けて何かハンドサインを送った。
その後、青年とイラストは安心したように頷き合うのだった。
これら一連のやり取りは、やはり他人に視えることはなく。少し挙動不審な青年が電車に乗っている、単にそれだけの事でしか無かった。
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黒板の上に設置された音響装置から、授業の終わりを告げる鐘の音が再生される。
録音された記録媒体が痛み始めているのか、はたまた音響の増幅装置が故障しているのか。
放送音の中には軽微なノイズが乗っていた。
学内の大多数はそんな事に気がつくこともなく、さらに言えば気付くことの出来た少数も、次の瞬間には気にも留めない。
これは、その程度の異変。
しかし、虹色の立方体が視える彼は理解出来ていた。
これが単なる音響設備の不具合ではない事を。
終業の鐘が鳴り終わり、音の出ないそれに誰一人として目線を向ける事はない。
だが、彼だけは視続ける。何かを危惧するその視線の先、音響設備の周囲では不自然に振動する10mm角の立方体が、群れを成して遊動していた。
外敵を屠らんとする蜜蜂を想起させる光景を前に、彼の顔色は刻一刻と悪くなる。
同じく彼の隣で立方体群を見つめていたイラストが、何かしらのハンドサインを送った。
しかし今回のそれは今朝のものと異なる内容であったらしい。
視える青年が心底嫌そうに舌打ちを飛ばす。瞬間、振動していた虹色は否定的な黒に染め上げられた。
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真剣な表情の彼は、彼方此方から好奇の目線を贈られながら、あるいは正気か否かを疑われながら校舎内を直走った。道すがら各教室の音響装置に目を向けるも、そこにあるのは彼の教室と同じ風景。
全ての元凶は放送室にある。
その確信を深めながら、理解されぬ苦しみを振り払うように廊下を蹴って進んでいく。階段を駆け上がり、幾つかの教室を通り過ぎ、そして放送室の前に。
「やっぱりか」
狭い放送室の扉から、黒い角が生えていた。おそらく室内にある立方体の一部が扉を透過している状態にあるのだろう。本体がかなりの容積を持っている事は容易に想像がついた。
唯一人だけ視えている青年の瞳に僅かな焦りと強い覚悟の色が灯る。
しかし変哲もない放送室を真剣に睨み付ける彼の耳には、小馬鹿にした笑い声だけが届いていた。眉間にシワを寄せてそれら雑音に抗い、制服の胸元から柄だけが使い古された絵筆を取り出した。
雑音が少し大きくなる。
小さな囁きが突き刺さる。
それら悪意なき害意を引き裂くように絵筆を中空に振り払う。何もない空間に、ただ絵筆が通り過ぎる。間の抜けたその光景に雑音が膨れ上がった。
それでも彼は真剣に絵筆を振り続ける。彼の眼には筆の軌跡に沿って産み出される虹色の立方体が写っていた。それら虹の隊列が黒の巨矩を取り囲み、一際強く光を放つ虹達が暗黒の表面を照らし出す。
昏く澱んだ汚泥を濾し取る如く、下部から徐々に澄んだ虹へと癒してゆく。
「くっ」
順調に浄化が進むかに見えたそれは、一定位置から進まなくなる。汚染との影響力が拮抗しているのだろう。虹と黒が揺ら揺らと有機的に増減する。
余りにも大きな立方体を相手に一進一退の苦戦を強いられる彼の隣に二つの気配が歩み寄る。
必死に筆を振るいつつ横眼に見れば、
「っ!?」
そこに居たのは載頭型音響と他校の制服を着用した女子と、そして彼女の傍らに浮かぶデフォルメされたペンギンだった。
彼女たちは、同じだ。
その直感は彼だけでなく、彼女もまた抱いているらしい。
「あなたたち、まさか……て、手伝うわ!」
その女性らしい柔らかな声音には切実な色合いが乗っていた。驚愕のあまり言葉の出ない彼の隣で、彼女は慌てながらも急いで口風琴を取り出した。
馴れた手つきで口に咥え、息を吹き込む。しかし音が鳴る事は一切なかった。
「は、はは。マジかよ」
だが口風琴は虹色の立方体を、周囲の床や壁をはじめ、凡ゆる物資から立ち昇らせた。
絵筆が描く虹色の軌跡と、口風琴の奏でる七色の旋律が重なり合う。互いにその輝きを増幅させる矩形たち。何処までもいや増してゆく煌めきが目も眩む程に高まってゆく。
やがて限界を超えて、唐突に途切れた閃光の先、放送室を染める闇色は消え失せていた。
視える青年が嬉しそうに振り返ると、載頭型音響の彼女もまた、喜色満面で己の両手を握り締めていた。
二人はじっと見詰め合っている。たった一人きりで黒い立方体と戦い続けてきた彼らにとって、これは正に長年待ち望んだ奇蹟。
「あんた、まさか……」
「あなたはもしかして……」
「視えるのか?」
「聴こえるんですか?」
「「……え?」」
視えないものが視える彼と、聴こえないものが聴こえる彼女。
二人の第六共感覚者が出会い、異なる世界を繋ぐ一歩が踏み出された。