002 工学院・機械系 美弥乃
東京工業女学院にも新たな春が来ていた。
校門から本館まで続くウッドデッキは桜で覆われ、各々会話に花を咲かせる新入生も晴れやかである。
彼女らは入学式典を終え、学院の主催する歓迎パーティまで時間を持て余していた。
この春から工学院に入る美弥乃もその一人であった。
しかし美弥乃は少し不安なことがあった。それは中流家庭の出であることだ。
ここ東京工業女学院は巷でお嬢様学院と呼ばれているだけあって、聞こえてくる会話が美弥乃とは到底縁のない言葉ばかりなのである。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう。お会いするのは先日のティーパーティー以来になるかしら?」
「そうですわね。あの時いただいたダージリンのファーストフラッシュは大変上品な味わいでしたわ」
「あの茶葉はインドから直輸入いたしましたのよ。お喜びいただけてよかったですわ」
“ごきげんよう”などという挨拶を日常的に使ったことなどないし、ティーパーティーなど上等なものは開いたことも招待されたこともない。
“ダージリンのファーストフラッシュ”など聞いたことしかない程度だ。
兼ねてよりお姉さま方の研究に憧れて入った学院ではあったが、ここまで自分の居場所とかけ離れたものだとは思いもしなかった。
美弥乃は自分以外に所謂お嬢様でない人を見つけられたら、話ができるのではないかと考えていた。
しかしどこを探しても豪華な縦ロールを見につけたお嬢様ばかりである。
どこか知らないおとぎ話の世界にでも紛れ込んでしまったかのような心境であった。
しきりに周りで同じような人がいないかと探していたとき、突然足元が不安定になり転んでしまった。
幸いにも怪我はしなかったが、困ったことにドレスが汚れてしまった。
(このままでは歓迎パーティに出られない……。どこかで身だしなみを整えなくては……。)
まだ慣れない校内を歩き回っていると更衣室を見つけた。
どうやらものつくり工房に併設されているようだ。
ひとまずそこに入り、ドレスを脱いで身だしなみを整えることにした。
いくら更衣室とはいえ、入学して間もない学生が下着姿でいるのを見つかるのは美弥乃の望むところではない。
しかしその望みも儚く、扉が開いてしまうのだった...
そこに現れたのは、美しい作業着に身を包んだ佳麗な女性であった。
女性らしい豊かな香りの中に、ほんの少しの機械油の独特の臭いがアクセントを出していた。
その美しさはまさに“お姉様”と呼ぶにふさわしい方だった。
「あなた……下着姿でどうなさったの? 髪も乱れているようだし……」
「え、いや……あの……………」
美弥乃はただただ見とれてしまい、まともな言葉を発することができなかった。
「あなた、新入生?」
「……あの、はい。」
「そう。ではこれからパーティーがあるのよね? このままでは遅れてしまうわよ? 服を貸してごらんなさい?」
言うが早いか、お姉様は服を取り上げ慣れた手つきで汚れをはたき、アイロンをかけ始めた。
あっという間に出来上がり、お姉様が美弥乃に着せてくれた。朝、美弥乃が袖を通したときと遜色ない、むしろそれ以上にきれいになっていた。
「あの!あ、ありがとうございます!!」
「いいえ、大したことはしていないわ。それにまだ終わっていなくてよ?」
「…え?」
「あなたはストレートでも十分にかわいいけど、パーティーくらいはもっとおしゃれをしてもいいと思うわ。ついていらっしゃい」
そして次に更衣室を出て、旋盤の前へと連れてこられた。
美弥乃はまだ何をするのか見当がついていなかった。
先の会話から髪を整えてくれるのだろうという想像をしていたのだが、旋盤といえば金属を削るもの。
まったく繋がりがわからなかったのだ。
「私はこれが一番速いと思うのだけど、皆さんにはあまり同意していただけないのが残念なのよね……」
と寂しそうに言う。意味が分からない。
美弥乃がどんなに困惑した顔をして見せても、お姉様はにこにこと微笑まれるだけだ。
お姉様は旋盤に長い棒を取り付けると、レバーを引いて回し始めた。
レバーの位置を見る限り70rpmのようだ。
「さあ頭をお出しなさい」
「え?」
「ほら、怖がらずに」
「は、はぁ……」
そっと頭を前に出すと、お姉様が後ろからそっと抱きしめるように触れてきた。
「ひゃっ!!」
「あら、びっくりさせてしまったかしら。ごめんなさいね」
そう言いながらも、どいてくれる様子はなさそうだ。
これでは動悸が激しくなる一方だ。
「じゃあ始めるわね。痛かったら言ってちょうだい?」
「は、はい……」
お姉様はそっと髪を取ると旋盤に取り付けた棒材に髪を巻き始めた。
「え、お姉様? 何をなさっているんですか!?」
「大丈夫よ、危ないからじっとしていて」
慣れた手つきで回転を止めると棒材をチャックから抜き取った。
そこには美しく螺旋を描いた縦ロールが出来上がっていた。
「どうかしら?」
「え、私なんかがこんな髪型をしていいのでしょうか……」
「いいのよ。あなたはこの女学院に入学した一人の学生なのだから。女学院生であることに誇りを持ちなさいな」
旋盤の心地よい回転音とともに残りの髪にも縦ロールが施されていく。
美弥乃はこの状況を次第に楽しむようになっていた。
庶民の出である自分にとって、縦ロールという髪型ができるということはこの上なく嬉しいことだったからだ。
「さ、できたわ」
「……わーっ…」
近くにあった鏡を見ながら、自分の新たな姿に感動していた。これはどこからどうみてもお嬢様だ。
「ほら、そろそろパーティーが始まるわ。急いでお行きなさい?」
「はい、あの、ありがとうございました! えと、このお礼はどのようにしたら…………」
「いいのよ、私がしてあげたかっただけよ」
美弥乃が困った顔をするとお姉様はこうおっしゃった。
「あ、それでは、私のサークルの見学にいらしてくださるかしら? 」
「そんなことでよろしいんでしょうか?」
「いいのよ。私のお節介だって言ったでしょう? これサークルのビラだから持っていらして」
…………ろぼっと……ぎじゅつ…けんきゅうかい………????
「名前に圧倒されなくて大丈夫よ。みんなで好きなものを作っているだけよ。 一度見学に来てくださったらわかると思うわ。」
「わかりました!是非伺わせていただきます!」
そのとき、17時を知らせる鐘がなった。
「ほら、急いで! パーティーの時間よ」
「あ、あの、ありがとうございました!」
そう言って美弥乃はものつくり工房を後にした。
しばらくして大変なことを思い出してしまった。
お姉様の名前を聞き忘れたのだ!
でも今から戻ってもお姉様がまだいらっしゃるかわからない上に、パーティーに遅れてしまう。
困りながらもう一度ビラを見ると、そこにはかわいい絵柄の付箋とともにメッセージがついていた。
いつの間に書いたのだろうと思いつつそれを読む。
(「パーティー楽しんでいらっしゃいね。 依音」)
よかった。名前があった。
(依音………いおん? お姉様……。)
そうして、美弥乃はパーティーへと急ぐのだった。
著: 夕天(14)
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