001 情報理工学院・情報工学系 瑞穂
東京工業女学院。理工系の教育課程に重点をおく、歴史ある大学である。
その中でも、情報理工学院——学院とは言うが、学部のようなものだ——にはその名の通り、情報工学を専門に学ぶことを望む学生たちが所属する。
瑞穂もそういった学生の一人であり、しかし、女学院の大多数のお嬢様とは違って庶民であった。
そんな情報理工学院の、新入生が最初に計算機室で受ける授業、情報実験第一での出来事。
3コマ目の授業が始まって教員が軽い自己紹介をした後、まず学生たちに指示したのが、テキストエディタの起動である。
「皆さんのお好きなエディタを使って、前に表示した問題を解いてください。質問があれば、TAの学生さんに聞いてください。ソースコードを提出したらお帰りになって構いません。わからない方には、これからEmacsの操作の説明を行いますから、Emacsを起動しましょう」
その指示を聞いて、ほとんどの生徒がEmacsを起動した。
「まあ、あなた操作がお速いのですね。私はまだ慣れておりませんが、お父様がサーバ管理で必要だからEmacsには慣れておけとうるさくて……アカウントを作っていただいて、嗜む程度ではありますがEmacsを勉強いたしましたの」
「それが良いと思いますわ。Emacsは環境でもありますから、作業に必要なことのほとんどはEmacsでこなせますのよ。ITエンジニアの教養ですわ」
「そうなのですか……もし宜しければ、操作を見せていただけますか?」
「いいですわよ。今回役に立つコマンドは教えてさしあげますわ」
後ろの席のお嬢様たちが、授業の邪魔にならないようひそひそと会話する。持ち前の社交性とテキストエディタという共通点から、早速仲良くなったようだ。
(ITエンジニアの教養かぁ)
その会話だけで、瑞穂は既にお嬢様たちとの格差を感じていた。サーバにEmacsが入っていて、しかもそれを常用しているなんて!
瑞穂の使えるサーバは、なけなしのお小遣いで借りた低スペックのVPSだ。依存の大きなパッケージは入れたくないので、エディタは最初からインストールされているviを使っている。そのためもあって、普段ローカルマシンで作業するときも、エディタはvimだ。
サーバのリソースや、管理にかけられるコストの差に落ち込んだ瑞穂だが、ひとまず課題を済まそうと仮想端末とtmuxを起動し、その上でvimコマンドを叩く。
そんな瑞穂の目の前に現れたのは、普段見慣れたAscii Artのスプラッシュではなく、シンプルなメッセージの表示された起動画面であった。
(あ、vimrcを弄ってなかった)
瑞穂は、vimrcを含めた多くのdotfilesを、gitでまとめて管理している。その中には公開に適さないものもあるため、リポジトリは瑞穂個人のVPS上に立てたgitサーバに置いてあった。
しかし——
(なんでサーバに繋がらないの……!)
gitコマンドは、瑞穂のサーバへのアクセスに成功しない。サーバが落ちたかと思ってpingを飛ばしてみると、アドレスの解決ができないというメッセージ。そんな馬鹿なとwebブラウザを開いてHTTPSで繋いでみれば、瑞穂のwebサイトにはアクセスできるではないか。
戸惑う瑞穂に、後ろのお嬢様たちの会話が聞こえてくる。
「あら、あの方ターミナルを使ってらっしゃいますわ」
「背景が黒いと、なんだか落ち着きませんわね」
「普段から、びむ、というのを使ってらっしゃるのでしょうか」
「Emacsより軽量だからと、好む方もいると聞きますわ」
そんな悪意なき会話も、状況がわからず弱気になってきた瑞穂には、プレッシャーになるばかりである。
隣の席でも前の席でも、見渡す限り皆がEmacsを使っている。Emacsの真っ白な背景と、流れるような、それでいて力強い色付きのロゴは、彼女たちの輝ける前途を祝福しているかのようだ。そして、ターミナルの黒背景も、vimの起動メッセージでお願いされるウガンダへの援助も、通らないpingのメッセージも、瑞穂の今の状況も、すべてが「お前はリソースを持たざる者だ」と語り掛けてくるように感じられてくる。
やはり私は、こんなお嬢様学校には相応しくない、場違いな存在なのだ。そんなやり場のない悲しみに沈みそうになった瑞穂であったが、後ろからかけられた優しい声がそれを止めた。
「へぇ、dotfilesをgitで管理してるの、良い心掛けね。でも、インターネットと計算機室のネットワークはプロキシを挟んでいるから、環境変数を設定してあげないといけないのよ」
グレアディスプレイに表示された黒いターミナル越しに、綺麗なお姉さんと目が合った。その感心したような笑顔に目が釘付けになるが、すぐにそれがTAのお姉さま——女学院では先輩のことをそう呼ぶ——であると気付く。
すべきことは理解した、お礼を言おう、と後ろを振り向こうとした瑞穂。しかし、「ちょっと失礼」という声とともに背中にあたたかい重みのかかるのを感じて、硬直した。
(こんなところにも格差が……)
お姉さまの「普段はQWERTY配列を使っていないから、ここではキーの印字を見ないとタイピングできないの、ごめんなさいね」という言い訳は、耳を素通りしていく。
やはりお嬢様だと摂っている栄養の質も違うのだろうか、などと半ば現実逃避をしていた瑞穂であったが、お姉さまの次の言葉は流石に聞き流さなかった。
「ひとまず私のbashrcをコピーしておくから、必要なら上書きする前に中身を弄るとか、後でまたこのリポジトリを見るとかしてね」
ブラウザで開かれているのはgithubの、お姉さまのdotfilesリポジトリであった。お姉さまはbashrcをrawで開いて保存し、それをターミナルでホームディレクトリへと移動した。vimとtmuxとbashを一度全部落とし、再度お姉さまがターミナルを起動する。
「これで……よし、ping通るわね。もうgitも使えるはずよ」
そう言ってお姉さまが腕を引くとともに、瑞穂の後頭部の感触がなくなった。瑞穂はもう一度gitコマンドを叩き、果たしてcloneは成功した。
やった、と心の中で小さくガッツポーズをするが、その前にとお姉さまにお礼をする。
「お姉さま、ありがとうございました!」
「どういたしまして、課題がんばって……といっても、あなたなら多分大丈夫でしょうね。放課後時間が余ったら、サークル見学にでもいらっしゃい。案内するわ」
「はい、是非」
その返事を聞くと、満足げに頷いて教室の巡回に戻っていくお姉さま。
しかし、是非とは言ったものの、サークル名は言わなかった……社交辞令だったのだろうと考えるのをやめ、vimを立ち上げてコードを書きはじめる。そんな瑞穂の耳元で、囁く声があった。
「部室にきたら、あなたのvimrcを見せてほしいわ」
ドキッとして振り返るも、お姉さまは今度こそ背を向けて去っていった。
心を落ち着かせ、さっさと課題にとりかかる。そもそも最初のコーディングの授業だというのもあって、課題自体は難しいものではない。所定のメッセージ表示や計算を行うプログラムをLispで書いて提出せよというだけだ。それに瑞穂はプログラミングへの興味と経験があって東京工業女学院へ進学したのであり、Lispという言語そのものは問題ではなかった。唯一問題だった開発環境も、お姉さまのおかげで問題なく整備された。
ブラウザでの課題ファイルの提出を終えると、別のタブに残されたお姉さまのリポジトリからユーザ情報のページへ移動し、スクリーンネームを見る。
Yuri NAKANOIN
「ゆりお姉さま……」
Organizationのアイコンをクリックすると、「東京工業女学院 ロボット技術研究会」の文字。リンクからwebページを見てみれば、見学にはいつ行ってもいいらしい。
今日の放課後はこのサークルへ行ってみようと決め、瑞穂は計算機室を退出した。
著: らりお
hash: bb62cba