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海と三日月  作者: 桧山いちか
蝶の面影
8/28

蝶の面影④

「ねぇ、聞いているの」

「......」

「ねぇ!」

 初めて気付いたかのように振り向く彼。本当に聞こえていないのかはわからないけれど、たまに声が届いていないことがある。

「ごめん、少し考え事をしていた。何かな?」

「何かな、じゃないわ。何回名前を呼んだと思っているの」

「え?」

「何よ、その顔は」

「君が、僕の名前を呼んだのか?」

 一文字一文字を噛みしめるように、僅かばかり目を見開いて口にされたこの言葉に、私自身も動揺を覚えた。名前。彼の名前。呼ぶはずがない、呼べるわけがないのだ。そもそも、私は彼の名前を知らないのだから。私はどうだったろう。私の名前。......思い出せない。

「私の名前は......」

「......」

「私は一体......」

「君と僕が出会ったのは一年ほど前。これは確かな事実だ。そうして僕は君に声をかけた。これもまた事実だ」

「高校! 私たち、高校が一緒だったのよね?」

「高校の敷地内で出会った。だって君は......」

 そう言いかけて、彼は目を伏せる。どうしてそんな顔をするの。得体の知れない怖さに、声にならない叫びをあげる。届かないのね。私の想い。貴方にはもう、届かないのね。


「......君を繋ぎ止めておきたかった」

 お願いだから、そんな顔で私を見ないで。言葉が伝わらない。声も出ない。世界から色が抜けていく。風の音が止み、命あるものの呼吸も感じられない、全ては無機物に還っていく。ああ、どうして。

「でも、君は僕のものじゃないんだ。僕がどうこうしたって、君が......君が忘れられるのを止められない。過去はありのままの姿をとどめてはいられないんだ、君も消えていなくなる。みんなそうだった。君もそうなんだよ。どうして僕が君に声をかけたかって、君があんまり人間のようで、それでいてーー......」

 あれだけ表情に変化のなかった彼の顔が、段々と歪んでいく。忘れられる? 私が?

「君はね、僕の大切な友人の想い人の記憶なんだ。僕も、君を初めて見たときにはそれはとても驚いた」


 君と見紛うには、あまりにも美しすぎたものだからね。

 かつて彼は、そう言ったのだった。その言葉は私に向けられたものだと思っていたけれど、どうやらそれは自惚れだったらしい。彼は私を名前で呼ばなかった。私に名前なんてないのだから、呼ぶこともできなくて当然だ。そうして彼は私に名前を付けることもしなかった。彼はどの蝶にも「君」と言っていたのだ。私だけではなかったのだ。私も他の蝶と同じ、名もない記憶の蝶。でも一つ、喜ばしいことには......彼がどの蝶かと比較して、私を美しいと言ってくれたこと。


「貴方、私のことを美しいと言ってくれたわ」

「君の美しさは日を追うごとに素晴らしいものになっていった。でも、君が美しくなればなるほど、君の存在は薄れていった。美しい蝶ほど、早くにいなくなってしまうんだよ」

「私、貴方のものだったら良かったのに」

「もし君が僕のものだったら、きっと僕たちは出会えていない。君を客観的に見れるからこそ、君の存在を知ることができるんだ。僕の記憶の蝶たちがいるとすれば、僕の知らないどこかで、ひっそりと姿を消しているだろう。そうして僕は、蝶たちが消えていくことも気付かないままに生きているだろう」

 私たち、前にも会っていたのよね。きっと彼にはもう、言葉としては聞こえていないのだろう、少し遅れて彼は悲しそうに首を振る。そうして、実際に出会ったのは彼の友人と、その想い人だと、私たちの感覚はそのときのものに過ぎないのだと、静かに告げる。

 私は、どうして彼にしか見えないのかがわかったような気がした。最後の気力を振り絞って伝える。ねぇ、貴方。いつまでも過去にとらわれていてはいけないわ。人は人。貴方は貴方。変わらないものなんてないのよ。だから、そんな顔をしないで。


✳︎  ✳︎  ✳︎


 彼女、と呼んでも許されるだろうか。初めて見た当初には、蝶だと認識した。しかし、少し触れてみれば......僕には彼女が本当の人間のように見えたのだ。記憶の蝶にはそれまで幾度となく遭遇していたけれど、彼女のような蝶に出会ったのは初めてだった。僕が友人、萩原蓮(はぎわられん)の回想を聞いた時点から、彼女もまた蝶であるのだと再認識するようになった。そうして彼女は、蓮自身の記憶ではなく、蓮の想い人ーー名を倉科三咲と言ったか、その人の記憶であった。

 忘れられた記憶が蝶となって彷徨う。これが僕の持論だった。僕には蝶たちが消えていくのを止められない。蝶たちにしたところで、自我を持っているわけではない。もしあるように感じたとしても、それは蝶の記憶越しに見る当事者の感情だ。それなのに。

「お前のいう彼女の場合は違ったってことか」

 間髪入れず口を挟んでくるのは、話に上がった萩原蓮本人だ。

「全くだよ。おかげで僕まで君たちの幻影に付き合う羽目になった」

「お前が女1人に惑わされるとも思えないけどな。それで? 顔は三咲に似ているのか?」

 参考としての写真を欠かさないあたり、蓮の本気が窺える。幸か不幸か、彼女の顔は倉科三咲のそれではなかった。あれは一体誰の顔だったのだろう。それにしてもだ。この男の方が余程過去にこだわっている気がするのは気のせいだろうか。


「いくら記憶が儚いものだからって、過去が形を変えるたびに彼女に会っていたんじゃ僕がもたないな」

「説教する記憶、か」

「愛の告白とでも言ってくれ。少なくとも、倉科三咲の及ばない何かと僕は会話したぞ」

「たとえ三咲が俺のことを覚えていないとしても、俺はもう一度やり直したい」

「ああ。僕も蝶の彼女の面影でも追い求めることにするよ」

 

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