追憶の花
知らないふり。気付かないふり。運命と見せかける自作自演。
思い出と記憶が交錯する中で、ひっそりと咲いていた花の名前は何だったろう。
身体が朽ちていくような、そんな気がした。静まり返る空気に小さく問いかける。ねぇ、私は今どこにいるの。
不意に鳴った着信音に景色は閉ざされた。かじかんだ手で、携帯を落としそうになる。やっとのことで開いた画面には不在着信の文字が映し出され、画面に反射した自分自身の目が此方を見ていた。
いつも通り、いつもの場所でいつもの時刻にいつもの電車に乗ったはずだった。いつもの目的地に、いつもの自分が向かうはずだった。しかし、気が付けば聞いたことのない駅まで電車は進んでいた。何も考えることなくホームに降り立ち、改札を抜けた。誰かと大切な約束をしていた気がする。誰と? どこで? 何を? 全てがどうでもよくなってしまう前に、私は進まなければならない。そんな気がした。
使命感なんてものはないのだ。私でなければできないことなんて、何一つない。思い出したくない過去を引きずって、夢のない未来を一生懸命にスケッチブックに書き殴って。
「その店に行くと、自分に必要なものが貰えるらしい」
「貰うって、ただで?」
「そうだよ。その店の場所は――」
聞いたことのない駅なんて真っ赤な嘘だ。本当は知っている。ずっと来たくて仕方がなかった。あらゆる柵から逃れたかった。知らないふり。気付かないふり。運命と見せかける自作自演の一部始終に嫌気がさす。
「初めての来店かな? いらっしゃい」
ことはこんなにも簡単に進むものなのかと内心毒づいたが、人の好い微笑を浮かべて私は小さく会釈する。話に聞いていたのと大差ない。本当に様々な物で溢れている。
「ここに来れば、自分に必要なものがいただけると伺ったのですが」
全ては想定内だ。気休め程度の品を貰うのだろう。非現実を夢見ていなかったわけではないが、相手も人間だ。ここは現実。ここにも夢はない。
「必要かどうかは、わからないけれど……そうだね。何か一つ持っていくといいよ」
年季を感じるシャツを羽織った男主人は言う。私の唐突な言葉に動じることもなければ、口調に困った様子もない。まさか私の方が言葉に窮することになろうとは思わなかった。
「何でもいいのですか?」
「ああ。何でも構わないよ」
ただし、と主人は付け加えた。君の思い出を預けてくれたらの話だと。思い出。そんなものはないと私は告げる。思い出せることのすべてが思い出だというのなら話は容易だが、私には思い出の品など何もない。新しいものをもつようになるたび、それまでのものを捨ててきた。愛着などない。全部消耗品だ。使い切れば捨てる、それだけの話だ。
それならと主人は眉をひそめる。私がしてやれることは何もない、そう静かに続けて私を見つめた。
「それは困ります。どうしても思い出が必要なのですか。大切な記憶なんてありません。どれも思い出したくないことばかり」
「それなら、その思い出したくないこととやらを預かろうじゃないか」
「形に残るものなんて、ありません。そんなものがあればとっくに捨てています」
主人はちらと私の鞄に目を向けて視線を戻した。私の今日の持ち物は、いたってシンプルだ。肩かけ鞄に、中身は財布と切符、そして白紙のスケッチブック。都合よく思い出の品など持ち歩いているわけがないのだ。
「まぁ無理にとは言わない。店内は、自由に見て回ってもらって構わないからね」
掴みどころのない店主だと私は思った。とりあえず奥へ奥へと進んでいく。見かけによらず奥行きのある店である。
思い出の品。作り出してやろうか。美化した記憶を思い出だと言い張る人間もいるのだ。フィクションで仕立て上げたところで誰が気付くだろう。偽りの縦糸に色をもたない横糸。意味をもたない残像。思い出など、持ったところで何になるというのか。
左から右へ視界を辿る。どれもただの物に変わりない。当人が持っていないのなら、それはただの物にすぎなくて当然だ。使われた形跡こそあるものの――そこまで考えて私は気付いた。
「捨てられなかったもの……」
使っても使っても、その用をなさなくなっても捨てられることのなかった物たちだ。何ということだろう、物たちが私の挙動を窺っている。あらゆる角度から、まるで品定めでもするかのように。鞄の中で着信音が鳴る。私は応じない。数秒もすれば再び不在着信の文字が代わりに応えてくれるだろう。
「私はどこにいるの」
誰にともなく問いかける。




