海と三日月
月が満ちることはなく、さざめきが途切れることもない。いつか誰かに届く、その日まで。
崩れ落ちる君の身体を僕はこの手で受け止めて、そうして君の、紅に色づく唇に僕の影を重ねた。抗う術をもたない君の目には、僕はどう映っているだろうか。君の潤んだ瞳に、僕はますます駆り立てられる。
そこで私は本を閉じた。
「夢の世界は甘美だな。現実にはない無限の美しさが広がっている。その広がりはとどまることを知らない。したがって、果てることもない」
「毎度毎度ご苦労さんなことだ。そんなに本が好きなら本屋に行けばいい」
「わかってないなぁ、親父さん。この店にある本だからいいんじゃない」
私は今、「何でも屋」に来ている。この店に名前はない。だから私が勝手に命名したのだ。言葉通り、ここには何でも揃っている。思い出の品であふれているのだ。これらは決して売り物ではない。どのような経緯を経てか、誰かが思い出をこの店へと持ち込んでくる。親父さんはそれを管理して、また別の誰かへと受け渡す役目をしているのだ。正直なところこの親父さんの素性については、私は一切を知らないのである。
ところで、私はとりわけ本が好きだというわけではない。とある本を探しているのだ。
「君にとっての思い出の本なんだろう。それを誰かと共有した覚えは?」
「さぁ......どうだろう。引っ越す前のことを、私はほとんど覚えていない。親父さんは相変わらず変わらないな」
「私も人間だ。ゆっくりと年はとっている。ただ......この店にいると、時間が淀むものだから、時々若返ったような気持ちになるときもあるんだ」
「若返り、かぁ......。いいな、私も若返りたい!」
「現役高校生が何を言っていることやら」
子供の頃から兎角ものを失くしがちだった。この歳になると流石にそのようなこともなくなったが、たまにふと、必要なものが無くなっていることに気付く。失うことと、無くなることの違いを知ったのは、引っ越しをしてからのことだった。
「親父さん、私のタイムカプセル、誰かの手に渡った?」
「いや、まだそこに眠っている」
「ふぅん」
「中身を見たいのなら、持って帰ってもいいんだぞ?」
私は、あのタイムカプセルに魔法をかけた。忘れてしまわない魔法。確かに私は魔法をかけたことを忘れなかった。しかし、何を忘れないでおきたかったのか、それが思い出せないのだ。思い出せないというのは、無くなることではない。ちょっとした失くしものだ。だから、きっとすぐに見つかる。私はそんな気がするのだ。
「今中身を見たところで、私は人のタイムカプセルを開けたような気になると思うな。だって、過去の私なんて別人みたいなものでしょ?」
「さぁ、それはどうだろうね」
✳︎ ✳︎ ✳︎
「本を探しているって......それはまたいきなりですね」
そう言って呆れ顔を此方へ寄越す少年。名を市ヶ谷修介という。根っからの本好きな図書委員だ。本に関して聞くとすれば、まずは修介からあたらねばなるまいと判断したのである。
「何か手がかりはありますか? 題名、作者、話の内容......印象的な台詞とか」
「題名が思い出せないから困っているんだ。作者は......ううん、わからない」
「それじゃあ、先輩が探している本ということ以外には何の情報もないんですか?」
「ああ......」
滅多に笑わないこの少年が、珍しく不気味な笑みを湛えている。この目は何か企んでいるに違いない。それとも、もう本を特定しているのか?
「蓮さんに、相談してはどうでしょう。僕、前に個人的にお世話になったんです」
「蓮さんっていうと......あの人形のときの......」
「そうです。蓮さんも、先輩に会いたがってましたよ?」
思いがけない提案だ。この際猫の手も借りたい状況なのだ。これは縁があると思う他ないだろう。そう私は決心した。
本は本でも、絵本の類ではなかったかと思われる。修介には言わなかったが、青白い海が印象的だった。ほんのり明るいあの光は......月光、だっただろうか。思い出すほどに懐かしい。まだ無くなってはいないのだという事実が、何より私を安心させてくれた。




