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海と三日月  作者: 桧山いちか
忘却スイサイド
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忘却スイサイド④

「僕は思うんだよ、蓮。感情の肉付けのない過去の記憶なんて、いくら事実だろうと誰も受け入れることはないんじゃないかって。修介くんの記憶を呼び起こすことは、本当に必要なんだろうか」

「必要かどうかと言われれば、生きる都合のためには要らない存在だろ。でも、生きていくためには嫌でも忘れないといけないこともある」

 一久の目前には、活力を漲らせた蝶が凛として佇立していた。これだからこんな力は要らないのだと一久は一人ごちる。ありのままを知ったところで何になるのだろうと。どうせ他人がそれを受け入れなければ、それは虚構に変わりはないのだ。

「自分だけが見える世界、か......」

 思考の域を抜け出た言葉が一久の口から漏れる。それを聞き逃すまいとして蓮が後の言葉を補う。

「今は修介くんだけの世界かも知れない。でも、俺たちも共有することで、少なくともその事実は確実なものになるはずだ。違うか」


 蝶に触れれば記憶の断片を垣間見ることができる。ときには記憶の持ち主の感情をも汲み取ることができる。ただし、その感情は当時の感情だ。したがって、忘れ去られている以上は持ち主にはその感情もほとんど薄れかけているだろう......というのが一久の考えであった。

 血流が脈打つ様を想起させるその蝶におずおずと手を伸ばせば、思念と思しきものが流れ込んでくるのに然程の時間は要さなかった。

「......亡くなったのは確実だ。でも、生きている」

 伏目がちに重々しく呟く一久の声に、修介はようやく顔を上げた。

「どういう意味なんだ、一久」

「誰かが亡くなっている。恐らく自殺だ。でも、これは修介くんの記憶と入り混じっている。これ以上の詮索は野暮だ」

 三人の間で言葉の橋は断たれ、秒針が時を刻む音だけが静かに流れていった。修介は、頭のどこかでこの状況が夢であって欲しいと願っていた。可能性。ふとそんな言葉が脳裏をよぎる。可能性を信じなければ、何にも傷つくことはない。そうであれば、最初から期待などするべきではないのだと、いつからそう思い込むようになったのか。そのような考えが頭の中を渦巻いていた。

 勢いの良かった日差しは気付けば翳りを見せ始め、店内に残る客もいよいよ少なくなってきた。沈黙で覆われた空気が修介の言葉によって破られる。

「遺書です。これは、僕の......友人の遺書です。あいつが死ぬ三日前に、受け取りました」

 蓮はノートの表紙に目を落とし、開いてもいいかと尋ねた。答えの代わりに修介はそっとノートを差し出す。

「わけがわかりませんでした。だって、あいつは何にも不自由していなかったはずで、死ぬべきは僕の方だったんじゃないかって......どうして何の取り柄もない僕が生きていて、あいつが......!」

「修介くん、落ち着いて。蝶に蝕まれてしまう」

「......すみません。わかっているんです。あいつは死にました。死体をこの目で見たんです。でも......でも、僕が死んだことにしたかった。そうしたらあいつは生きて......。おかしいな......。僕は、何がしたかったんでしょうか......」

 堰き止めらていたはずの想いが慟哭となり、修介の頬を滴が伝い落ちた。ノートの中身を確認し終えた蓮が一つ息をついて言う。

「その子の死を忘れてはいけない。そう修介くんは書いているよ。その一方で、友達の名前を自分の名前に書き換えている。ここに書かれているのは、事実というより想いだ。だから現実と区別がつかないんだろう。その子の気持ちになって考えたかったんじゃないのか?」

「あいつは何よりも可能性を信じて、成功を信じて、直向きに努力していました。臆病だった僕を、そんなことではいけないと背中を押してくれたのもあいつです。あいつの死の裏には、些細な歯車の狂いも大々的な失敗もなかった。僕にはわからなかったんです......。生きるのに疲れたと、ただそれだけ言い残して......。僕は思いました。もう何にも期待をしないと。そうすればーー」

 違う、と遮ったのは一久だった。一久の目には、段々と色を失っていく蝶の姿が映っていた。風が吹けば塵と化すような、そんな頼りない欠片になってしまいかねない有り様であった。

「それは現状への言い訳だ。もう今この瞬間にも忘れ去られようとしている。君はそのとき一体何を思った?」

「.......」

「死が、怖くなったんじゃないのか。いつでも自分が死ぬ可能性があると知って、怖くなったんじゃないのか。蝶は激しく拒絶をしている。何に対しての拒絶なのかは、君自身が一番理解しているはずだ」

「......」

「修介くん」

「その通りです......。怖かった。僕も、ああなってしまいやしないかが、怖かった......。あいつじゃなくて、自分自身を心配していることに気付いたとき、僕はただ立ち尽くすしかありませんでした。せめて、自分のことのように思えたらと考えました」

「それで、名前を書き換えたんだね」

「そうです。僕は......偽善者です」


 外に出る頃には冷たい風が三人の裾をくぐり抜け、足元へと絡みついては流れていった。

「別に修介くんは良いことをしようとしたわけじゃない。正当化しようとしたわけでもない。だから、偽善というのは少し違うと思うな」

「蓮さん......。でも僕、遺書のことを意識的に遠ざけていました。ただ、一つ不思議なんです。僕は、遺書をあの店に持って行った記憶がないんです」

 一久は二人を交互に眺めながら、ノートに留まっていた蝶のことを振り返っていた。あの後、蝶は一度失われかけた躍動感ある色味を取り戻したのだった。しかしそれはほんの一瞬のことで、目の前で儚く散っていった。その残像は一久にとってかなり強烈なものであった。ついさっきまで存在していたはずのものが、一瞬にして消え去る。この光景は見慣れていたはずなのだが、今回は特に特別なもののように思えたのだった。

「蝶は確かに生きていた。思い出される運命だったのか、それとも......無意識に引きずっていたのか」

「記憶の蝶も、いつかは死んでしまうんですか?」

「それはそうだ。記憶の持ち主が死ねば、それが蝶の死に時さ」

 果たして、あれは誰の記憶だったろうと一久は冷気に問うた。その人の想い、見たものは伝わっても、それが誰の目線であるかまではわからないのだ。共有される記憶も悪くない、そう彼は思ったのだった。


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