忘却スイサイド③
「三咲に言っていないのに、何だって俺には話をしてくれるんだ?」
昼下がりの人の疎らな喫茶店で、萩原蓮は切り出した。この男と市ヶ谷修介の間には、仲という仲は存在せず、ただ示し合わせたかのような巡り合わせだけが存在する。
「さぁ。それは僕にもさっぱり。ただ、蓮さんに話をしたら何かわかるんじゃないかと思って」
「知りたいのか?」
「何をですか」
「何をって......ここに書かれてる自殺した子のことだよ」
「自殺したんでしょうか」
「事実かそうでないのかも区別がつかないな」
それはそうと、と蓮は携帯を取り出し、今日は別に人を呼んであるんだと言い添えた。怪訝な顔をする修介を残して席を立った彼が戻ってくる頃には、修介が初めて見る顔が立ち並ぶこととなった。
「そう緊張しないでいい、修介くん。彼にも是非秘密を共有してやってくれ。人数が多い方が楽しいだろう?」
「別に、僕の秘密でもないんですけど......」
「それで、どうだい一久。修介くんに、蝶の影はあるのか?」
一久と呼ばれた男は、そう気軽に尋ねてくれるなと言わんばかりに迷惑そうな表情を浮かべる。本気で嫌がっているわけではないにしろ、その気だるそうな振る舞いは日々の集積によるものである。
「全く、初対面の人に対してこういう紹介のされようとはたまったものじゃない。修介くん......でいいのかな、僕はね、記憶の蝶が見えるんだ」
表情を変えないどころか二の句も継げないでいる修介に対し、またもやれやれといった様子で一久は言葉を続けた。
「このことを知っているのは蓮くらいで、僕も正直一人に知ってもらえていたら十分だと思っている。だが、こいつがどうしてもと煩いんでね」
「記憶の蝶とは、何ですか」
「僕には、人の記憶が蝶のように見えるんだよ。忘れ去られた記憶。どうして蝶の形に見えるのか、僕にはわからないけれどね」
「......」
「信じ難いだろう。無理に受け入れることはない。世の中生きていくのに知らなくてもいいことなんて山ほどある」
「蓮さんは、どうして僕の記憶の蝶を疑ったんですか?」
不意打ちにも怯むことなく蓮は穏やかに修介の方を向いて不思議そうに首を傾げた。
「どうしてって......君が言ったんじゃないか。僕はまだ何か大切なことを忘れているような気がするって」
大切なこと。修介は心の内で自問する。自分はそのような発言をしただろうか。否。自分はそのようなことを思っただろうか。否。
束の間の沈黙を一久が掬い上げる。
「記憶の蝶というのは実に儚げで、消えてしまった後には本当に夢のようなんだ。そもそも僕以外の人からすれば実体もないのだから、最初から存在しなかったと言われても僕は反論できない。何が言いたいかというと、元々なかったものを記憶として認識しているということも有り得るのではないかという話さ」
「元々、なかったもの......」
「修介くん。君は俺に、あの店でノートを受け取ったと言っただろう。そして中に書かれていた小説、もとい誰かの独白を読んだと。でもね......それは間違いなく君のものだ。そこに、ほら......君の名前が書いてある」
そう言って蓮の指差す先ーーノートの表紙の下ほどには、「市ヶ谷修介」の文字があった。間違いなく自分の字、自分の名前であることに、修介は戦慄した。
「どういう......こと、ですか」
「知りたいんだろう?」
「知りません」
「俺は知りたいかどうかを聞いている」
「僕は何も知りません......」
力なく項垂れる修介に、蓮はそれ以上問い詰めるのをやめた。
「なぁ一久。修介くんに、蝶の影はないんだな?」
「修介くん自身にはね。でも......」
「ノートか」
「ああ。かなり生命力がある。普通、物についている蝶なんて、余程弱り切っているか周りの色に溶け込みつつあるか、もしくは消える寸前かがいいところだ。だけど、これは......何なんだろう」
修介の耳には、二人の会話はほとんど入っていなかった。今すぐにでも叫び出したい、そんな気持ちだった。掴むものもないのに我武者羅に何かを毟り取りたい、水中にいるわけでもないのに息継ぎがしたい、そういった言葉にならない衝動が身体を突き抜けていた。
時刻にして14時24分。秒針が止まることはない。




