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海と三日月  作者: 桧山いちか
忘却スイサイド
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忘却スイサイド

思い思われのこの世界で、意図的に忘却されるものがあるのなら、それこそ強く思われているものなのかもしれない。

ーー私一人だったわけではありませんでした。

 私が最後に彼女を見たのは彼女が亡くなる三日前のこと、通学帰りの電車を降りてすれ違いざまに見た彼女の姿を、今でも鮮明に覚えています。それはもう大層久しぶりのことでしたし、彼女が私に気付かなかったということもありましたので、私と彼女は一つも言葉を交わすことなくその場を終えたのでした。

 彼女について多くのことは存じません。小学校中学校と、ともに進学いたしました。中学の折には同じ学習塾にも通いました。それでも彼女について知るところは、ほとんどないのでございます。


✳︎  ✳︎  ✳︎


 市ヶ谷修介(いちがやしゅうすけ)は古びたノートのページを手にとり、そこに横たわる文字列をじっくりと眺めた。語りかけるような文体は、今彼がいる時空とは別の次元の流れを呼び起こし、そちらに引き込まれてしまおうものならもう戻れなくなりやしないかと彼は一人で苦笑する。


ーー彼女の訃報は極めて日常の中に溶け込んでいたもので、彼女の死に顔を見るまでは、いいえ正直血の通らなくなった彼女の顔を前にしましても、私は美しいと思うほかなかったのです。葬式会場は私の見知らぬ人で溢れに溢れ、見知った顔は少々という程でございました。皆様のお顔に涙が静々伝い落ちます中、私の頬には露の一つも流れることはありませんでした。

 轟々と雨の降りしきる夜だったと聞いています。彼女は高層マンションの屋上まで駆け上がり、そうしてその上から身を投じたのでした。彼女が屋上へと駆け上がっていく姿を見た方がいます。どこか不審に思ったそうで、それでも声はかけずじまいだったということです。それはそれは高い場所でしたので、遺体の損傷は目を覆うほどのものだったそうで、それでも顔形は綺麗に形を整えられて棺に収まっていたのでした。初めて見る彼女の表情に、私はまたも声をかけることはできませんでした。

 私と彼女は別々の高校へと進学し、その後の彼女について、私は一切のことを耳にすることはありませんでした。私が彼女について知っていることといえば、彼女は中学時代に某部活のエースであり、幾多の羨望の中にあったこと。人当たりが良く、誰とでも打ち解けていたこと。少しばかり、環境に敏感であったこと。その程度なのでございます。

 彼女は常々私をからかってきたものです。私たちは家が近くだったものですから、示し合わせずとも彼女と帰路が重なるのはそう珍しくはありませんでした。あなたは馬鹿ねと彼女は私に言いました。どうしてそう思うのかと私が問えば、そういう生き方をしていて楽しいのかしらと彼女は言い捨て、澄んだ瞳を此方に投げかけては悪戯っ子のような微笑を湛えるのでした。

 私を馬鹿だと笑う人は、彼女くらいであったのです。私は昔から何をするにも不器用な性質でありましたが、人目のないところで絶えず努力を積んでまいりました。何も知らない人から見れば、私は何でもこなせる人間だったのです。それでいて、彼女は私の何も知らないままに、私が能なしであることを見抜いていたのでした。

 それはそうと、午後2時24分を境にどうやら部屋の時計が止まってしまったようなのです。電池を買い替えなくてはなりません。彼女が永遠の別れを告げたのが2月24日でしたから、止まったままの時計でも悪くないのかもしれません。彼女の時間は今、止まっているのでしょうか。


✳︎  ✳︎  ✳︎


 ここまで読み終えて彼は顔を上げた。奇しくも、時針の引きつるような音が聞こえたからだ。じっと目を凝らしてみる。動きが正常そのものであることを確認して、彼は教室をあとにした。学校中の教室という教室で、どの時計でも狂うことなく時針がリズムを刻んでいるのだと思うと、彼は平和でありながらもどこか薄気味悪い思いを胸に抱いていた。

 このノートの存在は、まだ誰にも伝えていない。少なくとも、倉科三咲には見せるべきではないと彼は思っていたのだった。彼女が関わるとろくなことがない、そう思う一方で、自分一人では抱えきれないのではないか......そんな思いもまた同じく存在していた。 

 道すがら足早に通り過ぎてしまった鏡を思い出したように振り返り、あっ......と呟いた小さな声は、反響する夕暮れの影に食まれたかのように見えた。

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