鏡越しの夜④
「本、見つかったんだって? 良かったじゃないか」
「ああ......はい」
「それにしても図書室で倒れているところを発見されるなんて、軟弱だなぁ」
すっかり僕の弱みでも握った気でいるのだろう、笑いを無理に堪えている姿がむしろ滑稽な先輩に、僕は顔だけで返事をする。
夢というにはやけに色彩のはっきりしたものであったが、夢と現を彷徨ったのは確かだ。その点では僕に反論の余地はない。バーコードつきのもとあった本を手に、僕はどうやら図書室で気を失っていたらしく、今度は新しく割り込んできた本の処置が話題になっている。増えても減っても口煩い連中だ。彼らが気にしているのは、数なのだ。何がなくなったのかという問いかけは、あくまでデータをとるためである。それがA書だろうが、B書だろうが、彼らにとっては「紛失した本」、それ以上の括りもなければそれ以下の縛りもない。
「僕、もとの本をあの店に持って行こうと思うんです」
「おいおい、図書委員取締役がそんな悪事を働いていいのか?」
「あのままあそこにいたところで、また埋もれるだけですよ。それなら誰かの手に渡ってくれる方がいいです」
勿論僕はこの本を思い出の一冊などとは思っていない。そもそも思い出というのは、後悔と同じくあとになってわかるものだ。現時点でどれほど慈しむべきものであろうが、早い話が明日には頭から抜け落ちていたって不思議ではない。仮に今未来永劫大事にしようなどと堅く誓ったところで、責任の伴う以上はそれは自発的なものとは言い難いというわけだ。尤も僕は、未来をそんな陳腐な言葉に押しとどめようとは思わないけれど。
ついまた一人で考えに耽る僕の横で、先輩の視線を感じる。先輩は恐らく僕が店へ行くか行くまいか迷っているのだと思っているのだろう、先の自分の発言を思い返している様子だ。
ところで、先輩が言うことには、僕を見つけてくれたのはある女子生徒だという。もしも彼女が、隠れん坊の彼女だったらという可能性はなきにしもあらずだが、そうであってほしいとは思わない。やはり期待をするには荷が重いのだ。彼女の方から再び出向いて、僕に話を持ちかけてきてくれたら別なのだが、それがとんだ甘えであり夢物語であるということは百も承知なのである。
吹き抜ける秋風にはどうしても物悲しさがつきまとう。しかし、何も悲観することはない。さっきまで照らしていたであろう夕陽の赤灯が影に紛れて残像のように揺れる。まだ二度目しか訪れていないはずの件の店。初めて目にした異様な雰囲気はどこへやら、すっかり馴染み客の気分である。やはり来るのがわかっていたのだろう、相変わらずの悟った表情で此方に目線を向ける店の主人の姿があった。
「せめてこのバーコードは剥がさないとまずいだろう、君」
「いいんですよ。もう新しい方の本が登録されて、この本は実質あの場所に存在しないことになっているんです。それでもバーコードをとるのはいけません。ありのままの姿で、残してあげたいんです」
店内には本棚の枠が既に組まれており、僕が持参した本もその一部に取り込まれることになった。一冊一冊の本、それぞれの成り行きがあるのだろう。誰の手を経て、どんな時間を過ごしてきたのだろう。そう思えば、どの本も全く違うもののように感じられた。
「僕に呼応するものは、まだなさそうですね」
本を受け取ったっきり新たに話題を提示しない主人を相手に僕は言う。正直なところ、先輩が人形を見つけた時の嬉しそうな声を聞いて、僕も少なからず羨ましく思ったのだ。
「......君に預かり物がある」
「僕に?」
「何も君を名指して言付かったわけではない。ただ......次の来店者に、とだけ」
「それがたまたま僕だったと」
「そういうことだな」
人違いでないといいのだけれどと僕は要らぬ気遣いをしながらも主人からそれを受け取った。それというのは、かなり使い古されたノートである。文庫本サイズに近いものであるから、僕の手には収まりが良い。
「小説......ですか。作者はどなたです?」
「客の情報については、向こうから言い出さない限り私からは問わない。もし気になるなら辿ってみるといいさ」
辿らない手はない。瞬時にそう思ったが、すぐさま前言撤回の意向を固めた。これではさながら先輩の思考回路である。
「だいぶいい顔付きになったじゃないか、君」
過去の僕を、この人は知っているのか。そう思うと、僕は心なしか穏やかな気持ちになった。すぐさま有難うございますと、思いをそのままに伝える。店内に溢れるものたち一つ一つに実体がある。そのことがひどく嬉しく思われたのだった。




