鏡越しの夜③
進めども進めども彼女の影が見えることはなかった。時折僕は自分の影を覗き込んでみたが、やはりそこに彼女の姿はない。真昼の日差しは次第に薄らぎ、蝉声とせわしない葉擦れの音とが競り合うようにして同化していく。朝が来るのだ。
「あれは......」
数ある影しか残っていない「もの」たちが散在する中で、唯一実体を伴っているものがあった。いつぞやの日本人形だ。この半ば死をも匂わせる環境においては、生命の躍動を思わせる。
僕は微かな希望を胸に、飛びつくように薄闇を掻き分けていった。見知った顔。動機はそれだけで十分だった。そうしてもう少しで指先が触れそうな、そのときだった。
「こんなところにいたのか。探したじゃないか」
影の群れから不意に現れた虚構の手が、段々に色味を伴ってすっくと人形を抱きかかえる。指先から腕、胴体に首元、続いて顔までが露わになったとき、僕は蓮さん......と頭の中でその名を呼んだ。蓮さんは僕のことなど視界に入っていないのだろう、踵を返して去っていく。
迷っている暇はない。僕はその後ろ姿をすぐさま追いかけた。そろそろ影から足を出すのも億劫になりつつあった。実を言えばもう、膝あたりまでは影に蝕されているのだ。時間がない、そういう感覚も薄れつつある。行く宛のない未来より、既に辿ってきた過去の方が、何倍にも遠いもののように感じられるのだ。
今度は階段を下っていく。もう足場がないほどに影姿のものたちから行く手を阻まれ、僕はなりふり構わずその場から飛び降りた。いくら非現実的な状況とはいえ、痛みは存分に感じるらしい。探していた彼女の姿が目に入ったのは、後からくる鈍い痛みに顔を歪ませるとともに視線を落とした矢先だった。
つま先から頭まで、実体を伴った女子生徒の後ろ姿。先の蓮さんといい、一連の影ばかりを見てきた僕の目には異様に映る。僕はもう、声には出さなかった。彼女は隠れているわけではないのだ。彼女を正面から見ることはきっと叶わないだろう。何故ならーー......。
とん、と音を立てて何かにぶつかる。手で触れると垂直に、指先がその形をなぞっていった。
鏡だった。影ばかりが映る鏡の中に、僕は自分の影をはっきりと見た。全く卑怯じゃないか。僕はやっとのことで口に出す。君はいつだって僕の裏側にいたんだろう。それなのに、見つけてくれなんて無茶を言う。
鏡越しに、女子生徒が後ろで手を組むのが見える。鏡の向こうの僕が見ている光景は、果たして如何様なものなのだろう。前に進むのが怖かった。現状にしがみつきながらも、それでも時間には逆らえなかった。幾多の鏡に押されに押され、僕はとうとう思い余って逆走してしまったようだった。
過去に探し物をしたって無駄なのだ。見つけようとしながら見るべきものを見ていなかった。
「今度はあなたが鬼ですね」
鏡の中の自分に呼びかける。女子生徒が自分の後ろを歩き去るのを確認する。自分も後に、続かなければ。勿論行き先は鏡と正反対にだ。
「そうだ、その本返してくれますか。その本がなくて、困っているんです。隠されたんじゃないかってね」
すぐさま理解を示した様子で、僕の影は事もなげに一冊の本を此方へ寄越した。僕でもたまには一役買うこともあるらしい。貸し出しのバーコードがついているのを確認し、ああこの本だと安堵する。
早くも鏡の向こうでは、しめやかな夜が舞い戻ろうとしていた。鏡越しの夜に寂しさを覚える。だからといって、後ろ向きに駆け出すわけにはいかないのだ。寂しいのは、進むべき方向があるから。時は流れを指し示すばかりで方向などは一つも教えてくれない。後ろを振り返っても、もう後戻りはできないのだ。さて、あの女子生徒は何処へ向かっただろう。僕は鏡に背を向けて、振り返ることなく片手を挙げる。そうしてその場を後にした。断ち切るわけではない、いつでも過去とは鏡合わせなのだ。




