鏡越しの夜②
夜の足音で目が覚めた。暗闇に視界が慣れてきたところで、ようやく僕は半身を起こす形となった。見たところどうも此処は図書室のようで、頼りない記憶を探るにあのまま時間が経ってしまったと考えるのが妥当だろう。それにしても不可解である。
「まぁ一人でいる限り、何が起こっても仕方がないか......」
自らを勇気付けるべく声に出して言ってみるも、すぐ近くで誰かの動く気配を感じるのに然程の時間は要さなかった。
「隠れん坊をしよう」
間違いない、断片的だった女子生徒の声だ。しかし相手は影の中。夜というのは辛うじてわかるのだが、奇妙なことに何の光もないこの場所である。鮮明なのは声だけで、姿形など到底把握できたものではない。
「......私を見つけてね。あなたが鬼だよ」
彼女が言い終わるか終わらないかのうちに入り口の扉が閉まる。動かないことには何も始まらないのだろう。僕は重い腰を上げ、図書室を後にした。
漆黒といっても誇張ではないくらいに艶やかな黒を纏った図書室だったが、渡り廊下を目前にしてみれば月光を反射して眩しいばかりの光景である。ただ一つ難を言うのが許されるなら、この廊下、どうにも終わりがないらしい。まるで先が見えない。
「手っ取り早く階段でも使おうか......」
こう先の見えない状態では、追いかける気にもなれない。だからと言って、此処に留まり続けるのも遣る瀬ないばかりだ。近くにあった窓を開け、何の気なしに上から覗く。都合よく女子生徒が見つかるわけもなく、少しの灯りに照らされた地上と目が合う。
こんなときに何ではあるが、僕は生徒会の無くなった傘のことを思い出していた。案外誰かが戻しに来ているのではないだろうかと。生徒会室なら階段を上がってすぐだ、幸いなことに階段ならば先が見えている。
女子生徒の気配が遠い彼方であるせいか、一段上がるごとに僕の靴音が鳴り響く。生徒会室は健在だ。傘置き場へと視線を移すも、僕は瞬時に言葉に詰まる。幾本もの傘。それも乱雑に、置かれるというよりは投げ出されたような格好だ。すっかり傘入れからは溢れ出しており、もはや用途を疑うほどに形状が変わってしまったものまで散らばっている。頭が状況を整理する前に身体は自然と後退し、僕は来た道を帰ろうとすぐ後ろを振り返った。しかし時すでに遅しとはこのことだろう、既に道は絶たれていた。沢山のものが転がっている。一つ一つが何かはわからない、全ては影だ。段々に影の色は濃くなっていく。辺りは次第に橙の陽に包まれ、やがては燃えつくすほどの紅に染まる。
「......隠れたつもりですか」
返事はない。
「見つけましたよ」
僕の影がのっそりと起き上がる。厳密に言うと、僕の影ではない。女子生徒の影だ。いつから付いてきていたのか、僕の影に紛れ込んでいたようだった。
「案外、すぐでしたね。これでは隠れん坊になっていないじゃないですか」
「......見つけて欲しいから隠れているんじゃない」
時間が遡っていく。沈みかけていた太陽は次第に高さを増し、熱を帯びた空は冷静さを取り戻しつつあった。影は光と対比せんばかりの濃さになっているというのに、どうしてだろうか、夜にのまれていたときよりも存在感が薄れていく一方だ。
「もう見つからないのを知っているから、隠れているんだよ」
声を認識した時にはもう遅く、女子生徒の影は跡形もなく消え失せていた。真昼間の日差しが差し込む中で、忘れられていた蝉の音がこれでもかと鳴り響く。どうやら時間は反対方向に流れているらしく、この調子であれば在りし日の朝を迎えることになりそうだ。
「来るはずの明日が来なくなるってことか......」
それこそかつての日に聞いた先輩の言葉を思い出す。本当に経験することになるとは思わなかった。遡っていく先には何があるのだろう。終わりでもなければ始まりでもない。ただただ過去に引き寄せられる。それも、際限なく。
影ばかりで実体をもたない「もの」たちを踏み越えながら、僕は女子生徒の向かった先へと歩みを進める。もう見つからないのを知っているからと、そう彼女は言ったのだった。だから隠れているのだと。それを聞いて僕は、堪らなく彼女の後を追いかけたくなった。しかし同時にこうも思った。僕自身もこの影に埋もれてしまえたなら、どんなにか楽だろう......と。いや、それも時間の問題かもしれない。影は踏むほどに僕の身体を侵食していく。全てが影に覆い尽くされる前に、もう一度彼女を見つけ出さなければ。




