前編 「僕の思いとバレンタイン」
2月14日、その日を世間的にはバレンタインデーと呼ぶ。
女性が意中の相手に手作りのチョコを渡したり、仲のいい友人へと俗に『友チョコ』と呼ぶそれを市販のチョコや手作りチョコで手渡す。はたまた日頃の感謝等を込めて『義理チョコ』と呼ばれるものを贈ったりする年中行事の一つである。
「そして俺は、バレンタインで絶対にあの人からチョコをもらう。そうここに誓おう」
マンション5階のある一室でその呟きは零れた。
四人家族の長男である八重樫純は、ベッドに寝転びながら意中の相手を想像しニヤけている。
何故かといえば理由は単純。
バレンタインの日に相手からチョコを貰うコトを宣言、そのまま浮かれて果ての無い妄想へと旅立っていったからだ。
成績平凡容姿平均、運動神経そこそこの身長168センチの少年。
黒髪の短髪で、中肉中背な別段特筆すべき点が無い一般的な中学三年生だ。
実際のところ特筆すべき点が無いわけでは無いのだが、それが遺憾無く発揮されるのは明日からだ。
それも踏まえて、純は自分の天才っぷりと彼女の可愛さに口元を緩める。
「ついに明日なんだ。明日から始まるぞ……俺のバレンタイン大作戦は!」
ベッドからカーペットの敷かれた床に降り立つと、天井へと拳を突き上げ八重樫純は高らかにそう声を上げた。
それから10秒ほど経ち自ずと気恥ずかしさを感じると、純の体は自然にベッドへと潜り込み眠りへと落ちていった。
* * *
声を大にして意気込んでいた純だが次に目を覚ますと、壁掛け時計の針は8時20分を指していた。
寝呆けたままの意識でその短針と長針を見つめて軽く30秒が経過。
やがて意識が覚醒すると純は事の重大さを実感し昨日と同様の声調で口を開いた。
「今日は、とうとう作戦決行日である! そして、それとともに遅刻寸前である!」
そんな事を言っている場合か、と自分にツッコミを入れると純はリビングへと向かう。
大事な日であるにも関わらず前日のテンションが原因なのか寝坊した純。
彼はすぐさま朝食を済まさなければならない、と思い立ってリビングの扉を開けた。
「だから遅刻寸前なんだってば!」
扉を閉めると、純は廊下を逆走し洗面所で顔を洗い始めた。
2分ほどで歯磨きと洗顔を済ませ、次に身支度を整えるために自室へと戻る。
カッターシャツ、制服のズボン、そして冬の寒さが解けない季節には必需品である学ランを羽織ると準備は万端となる。
最後に授業用意を終わらせた純は、学校へ行くための鍵を手に取ると家を後にした。
* * *
時刻は8時30分。始業まで後5分というところ。
そんな学校へと急ぎたい純に現れた障害、それは赤信号だった。
(くそ、別にちゃんと周り見てれば赤信号とか関係無いだろうに……)
典型的な交通事故に遭う要因である言葉を頭の中で呟きながら、純は今か今かと横の通りの信号機に目をやっている。
信号というのは青になっている方の信号を見ていれば、どのタイミングで信号が変わるのか大体把握することが出来る。
その事を常日頃から考え利用している純は、横車線の信号が変わったのを見ると、心の中でいつも通りの時を刻みそして走り出した。
それから3分後、純は無事始業前に学校へと到着した。
目前には同じように校門を自転車で通過する生徒もいればダッシュで昇降口にまで駆け込んで行く生徒がいる。
そんな中、遅刻寸前の生徒達の通り道に脇から侵入すると純は教室まで軽いマラソンを開始した。
「──遅刻だぞ八重樫」
教室に通ずる廊下に差し掛かった時チャイムの音を耳にしていた純は、やはり潔く教師からの言葉を聞き入れる。
そしてもう疲れ果てた、と言わんばかりに席へと歩き出した。
「…………」
「あ……」
その途中、純がふと振り向くとそこでとある女子生徒と目が一瞬合う。
純の心拍数が一気に跳ね上がる。遅刻寸前で体力を使い果たし呼吸が荒いというのに。
彼女の名前は渕瀬綾穂。
純の『バレンタイン大作戦』と称した作戦における目標となる女子生徒だ。
成績優秀で容姿端麗、運動神経抜群な上文武両道な彼女。
無口で気品な性格で、艶やかな濃紫色の髪を腰元まで伸ばし中学三年生らしからぬ体の線を持つ渕瀬綾穂。
そんな彼女に極々平凡な純が釣り合うのか。
そう訊かれれば、10人中10人が皆『釣り合わない』と答えるだろう。
それ程に完璧な女子中学生なのだ。
教師からは学校としてこれほど誇らしい生徒はいないと思わせ、クラスの生徒からはこれほどの美女が存在していてもいいのだろうかと思わせるレベル。
勿論陰から彼女を妬み嫌っている生徒もいるが、綾穂に何かすれば大抵倍返しされるのが関の山。
それを知っているから、誰も彼女に手を出さない。
「……っと、渕瀬が可愛すぎるからつい見惚れてしまい、挙句クラス中から『早く席に着け』という視線を浴びてしまった……」
純が状況を冷静に呟いていると、教師は溜め息を吐いてから朝のHRを開始した。
思考を切り替え純も素早く席へと戻る。
けれども彼の頭の中は、やはりHRの話よりも渕瀬綾穂の事で一杯だ。
それほどに、八重樫純は渕瀬綾穂が好きなのだった。
* * *
1月14日、気温は6℃と相変わらずの低さであるが天気は晴れ。
清々しいほどに澄んだ空気、その青空を見つめながら純を含む三人の男子生徒は密談を繰り広げていた。
「それで、渕瀬の動向はどうだった?」
周りの生徒らが騒がしいためそれに合わせて普通に喋る三人は、やがて純が言ったそのセリフに顔を険しくする。
「7時30分丁度に登校後ずっと読書をしていた。当然クラスには誰もいなかったから、丸々一時間ちょっと無言でいたな」
「ふむ。今日もいつも通りの様子なのか」
三人のうちの一人である拓哉が質問に答えると、純は相変わらずかと息を吐いてそう零す。
今日から始まった『バレンタイン大作戦』。
まずは友人達に増援を頼むところからそれは始まった。
昨日純は、拓哉ともう一人の友人である卓に電話で作戦に協力して欲しいと頼み込んでいた。
初めは断られていたが、駄目元で何度もアプローチを掛けているうちに最後は友人達の方が折れて協力してくれたのだ。
そして拓哉には朝の渕瀬の行動を、卓には放課後から帰宅までの行動をそれぞれ純は見張らせる手筈。
(だってそんなストーカーみたいなことしててバレたりしたら元も子もないからね!)
二人はこの作戦が成功したら飯奢ってやる、という風に純に言いくるめられたため渋々協力している現状である。
「んじゃとりあえず俺の出番は終わり、っと」
拓哉は『こんなことだけで飯奢ってもらえるとかラッキー』と思い、胸中安堵していた。
そしてどうせなら日頃の友情分も払ってもらおう、と奢ってもらうリストを指を折りながら考えていると、隣の純がそっと口を開く。
「いやいや、バレンタインまでずっとだよこれ」
「は!? 聞いてねぇぞそれ!」
「そりゃあ言ってないからな」
「ちょ、ふざけんなよ! まだ丸々一ヶ月あるじゃんか!」
久々に早起きをして体張ってやったと云うのにコイツは何を、と拓哉は怒りを露わにした。
「まぁまぁ、吉田屋の牛丼奢ってやるからさあ」
「ふっ、しょうがないやつだ!」
しかし交渉成立。
実に扱いやすいやつだ、と約束など毛頭守るつもりの無い純は裏でほくそ笑んだ。
「……っと、お取り込み中悪いが続きはまたにしよう。中野が来た」
しばらく口を閉ざしていた卓が、一限目の担当教師が入ってきた事により会話へ割ってきた。
会話も丁度終わっていたため、二人は卓に同意するように頷く。
「よし、じゃあ例の合言葉で締めようか」
そう言って口元を歪めた純に、バツの悪そうな表情を作る拓哉と卓。
口を開く意思の無い二人を他所に純は1、2の3と前振りをしてから言葉を発した。
「ILOVE渕瀬!」
「「…………」」
「……言えよぉぉぉぉお!!」
言ってから少しだけ後悔した純は、目を逸らす拓哉と卓その他数人の生徒に気恥ずかしさを覚える。
直にその場にいるのも辛くなると、静かに自分の席へと戻っていった。
そんな純の後ろ姿を見て、近くの生徒ですら反応していると云うのに唯一無言で読書を貫いている渕瀬に視線を向けた二人は、声を噛み殺すように笑ったと云う。
* * *
「恋の方程式……」
中野教諭が担当する数学の授業を終えた純は、机に突っ伏したままそんな事を言った。
今日の授業範囲が頭を過った故の呟き。
それと純には、渕瀬綾穂と恋仲になりたいという気持ちあっての言葉でもあった。
純の中では、『チョコを貰う=恋仲』というまさに恋の方程式と呼べるそれが生まれている。
けれども現実問題そうはいかないことを、純真無垢な純は知らないのだ。
「……ん?」
ボーッと彼女に視線を向けていた純は、綾穂が一瞬だけ廊下に目を向ける場面を目撃した。
それに驚き思わず立ち上がるとすぐさま廊下に視線を這わせる。
「誰だ、誰に今視線を送ったんだ……!?」
校内誰一人とも交友関係を持っていなさそうな綾穂が、人の行き交う廊下をチラ見した。それはあまりに大事だと判断したコトによる行動である。
廊下に飛び出し左右を何度も見返したが、そもそも誰を見たのかさえハッキリしていなかったために正体は分からない。
大きな溜め息を吐くと、トボトボと自分の席へと腰を落ち着けると頬杖を突きながら外を見やった。
10時40分と云う微妙な時間帯の青空を眺めながら、純はふと思い出す。
(確か五限目って、進路ガイダンスだっけ)
中学三年の三学期にもなると必然的にやってくる受験シーズン。
その真っ只中にある純達は、週に二回ほど午後の授業を全て使い進路指導ガイダンスを受けていた。
その内当然のようにやってくるであろう渕瀬との別れを頭の隅で思い描いてしまう。
だが今はそれよりも目の前に迫っているバレンタイン大作戦の方が優先だ、とその気持ちを取り払うと思考を切り替えた。
(バレンタイン大作戦が成功すれば俺も晴れて勝ち組なんだ。そうすれば卒業だって怖くない)
「とりあえずそのためには、渕瀬との距離を縮めないとな」
会話なんて片手でも余る回数しかしたコトが無く、純は綾穂との間の果てしない距離を埋めるために色々と策を弄する。
そして今日を作戦決行日にした理由も、それがこの距離を縮めるための作戦の一つに通じるからだった。
「……楽しみだな、渕瀬がどんなリアクション取るのかもそうだけど、何処まで距離を埋められるのかが」
普段無口でクールな雰囲気を醸し出している綾穂は、誰からも一線引いて行動している節がある。
そんな気品溢れる彼女の、驚いた顔や少しムッとした表情等を想像して純は不敵に笑みを染めて作戦の概要をおさらいし始めた。
* * *
やがて午前の授業を全て終えた純は、昼休みになり作戦開始を心の中で宣言する。
(作戦は至ってシンプルだ。まず俺が運ぶ役割になっている牛乳と、綾穂が運ぶ役割のデザート類は同じ部屋に置かれている。
だから取りに行き運び終えるまでの時間でキッチリと二人きりで話し込むのだ!)
指定の部屋までの距離は時間として歩いて二分ほど。
それだけあれば、話そうと思えば十分に仲を深められる会話は可能だ。
この天の巡り合わせとも言える給食当番の配置に、純は一人神を崇め奉った。
「っと、こうしちゃいられないな」
スイッチを切り替えて作戦へと意識を集中させると、主要人物である綾穂を探し始める。
彼女が純と行動しない事には作戦も何も無いからだ。
「えーと、渕瀬はどこ行ったかな──」
教室の前扉付近でボソボソと一人作戦会議をしていた純は綾穂を捕らえるために、後ろの方にいないかと思い首を後ろへ向けていた。
「…………」
そこに丁度、デザートを手に抱えた綾穂が通過する。
給食が始まって一分程しか経っていないのにも関わらず、往復4分の道のりから早くも綾穂は帰還していた。
「作戦が……」
だが純は、彼女のその異常なまでの速度よりも作戦が失敗した事に驚愕している。
綾穂が超人であるのは純の中では今更過ぎることであり、やはりそれよりもその綾穂との距離を埋めるための作戦が潰えた事がショックなのだ。
(ど、どうしよう……今日分が終わった)
給食当番は週一交代であるからまだチャンスは四日残っている。
しかしそれでも計五回の内の一回を潰した事実は、純に大きなダメージを与えた。
「ま、まぁ……そこまで気にすることじゃ無いよな。まだ今日分の作戦は残ってるんだから」
自分にそう言い聞かせて、純は考えをリセットする。
そして一応当番だし、と云う理由を付けて重い足取りで牛乳を取りに向かった。
* * *
生徒達が食事を開始してから20分が経ち、やがて再び給食当番が席を立つ。
勿論後片付けがあるからだ。
「けどまぁ、なんで片付けはすぐ近くの部屋なのかなぁ」
給食前はそれぞれ指定された部屋から物を持ってクラスまで運ぶが、何故か給食後はクラスの横正面にある部屋に全ての食器や御盆等を運ぶ。
学校の理由だから仕方が無いし、いつもならそれを喜ばしく思うが今の純にとっては全くのマイナス要素だ。
(あと四日間もこの調子だったら、副作戦で補うしかなさそうだな……)
給食作戦を主作戦として、それとは別に日毎で行う作戦を副作戦と純は定めていた。
そして主作戦の成功が希薄になってきた今、副作戦で巻き返すしか挽回する方法は無いのである。
「んじゃ、いっちょ次のサブオペで距離を縮めて見せます……か!」
そう意気込みながら、純は片付けのために空の牛乳瓶が納められたケースを持ち上げて教室を後にした。
〜〜〜
給食が終わり次は清掃の時間。
トイレ掃除の純は、だがその時間を殆どバレンタイン大作戦のために費やした。
掃除の終わりを告げるチャイムがスピーカーから聴こえると「時は満ちた」、と様式便器からラバーカップを杖にして立ち上がる。
地面に吸いついたラバーカップはそのままにトイレを出て廊下を歩き出した。
すると視界に丁度、濃紫色の髪を揺らして教室から出てくる綾穂の姿を捉える。
(渕瀬は週に一回、読書用の本を図書室へ借りにいくために昼休み教室を出る。もちろんそれを使わない手はないぜ!)
何も考えていなさそうな、感情を読み取らせない面持ちでいる綾穂。
その背中を半ストーカーの様に足を忍ばせながら追っている純は、周りから注がれる辛辣な視線など勿論気にしない。
キリが無いからだ。
そして三分ほどが経ち図書室へと辿り着くと、綾穂が静かに扉を開けて中へと入っていく。
綾穂が丁寧に閉めたその扉を確認してから、純もその後に続いた。
(超久々に入ったけど、ホント俺には合わないなここ)
一年の頃からトータルで5回通っていればいい方と云うぐらい馴染みの無いその空間に、普段から騒がしめな性格の純は『もはや異次元や』と思った。
本のページを捲る音や、勉強のために走らせているシャーペンのこそばゆい音。
それらがより静けさを齎す室内で、つい純は呼吸さえ止めてしまう。
それほどにこの空間は純にとって、別次元であり精神的にキツイ場所なのだ。
「……どれにしよう……」
本棚を上から下へと眺めている綾穂の後ろ姿を、純は一つ手前の本棚から見守っている。
その光景を見ながら作戦実行のタイミングを、息を噛み殺しながら図っていた。
(よく漫画やアニメであるような『読みたい本が上の方にあって背伸びしても届かない』と云うやつ。そのタイミングが来ることを願って俺は待つ……)
それがサブオペレーションその一『図書室でのイケメン行動』である。
「……ん、あれ面白そうかも」
暫く棚の陰に隠れていると、上方を見上げながら綾穂がそんな事を呟いた。
普通では届かないようで踵を上げて背伸びを始める。
(キタコレ!)
綾穂の抜群なプロポーション、そしてしっかりとした腰から伸びる黒タイツに纏われたその魅惑の美脚。
それと全身を頑張って張っている綾穂の背格好に、純は少しの間気を取られていた。
(うわぁ、渕瀬の美脚はトンデモないな……じゃ無くて、早く行かなきゃ!)
スラッと伸びたその脚に魅了されていたが、やがて目的を思い出すと急に高鳴り始めた鼓動を落ち着ける。
深呼吸を二、三度したあと本までもう少しだと云うところにまで伸びている綾穂の手を見て、純は直ぐ様本棚から飛び出していった。
「しょ、しょうがな」
「……あ、すいません。あそこの本取りたいんですけど」
「……ん、少し高いですね。脚立取ってきますのでちょっと待っててください」
「……わざわざ、ありがとうございます」
「いえいえ、図書委員なので当然ですよ」
「…………」
今何が起きたのかを簡単に説明すると、純がギザっぽく「しょうがないなぁ、俺が取ってやるよ」 と言って本を取ろうと手を出した。だがそれ同時に現れた図書委員を見つけた綾穂はその図書委員に本を取ってくれと頼み、事なきを得る。
それによって純はただ急に現れた不思議な人間となり、何か言われる前に颯爽と退場したのだ。
「……タイミング悪すぎるだろ」
そして、今に至る。
(くそ、まさか図書委員が現れるなんて想定外だ。……けど、目から溢れてくる汗の正体を明かすのは後にしよう。それよりも次の作戦に移るか……)
図書室を全速で、しかし周りに迷惑をかけないように機敏な動きで脱出すると、閉めた扉に腰を下ろしてもたれ掛かった。
そして失敗を悔いるよりも次を成功させることが大切だ、と自分を宥めつつ再び深呼吸を二回ほどすると、純は行動を再開させる。
〜〜〜
一足先に廊下へと出た純は、基本的に動きの早い綾穂が追いついて来ないように来た道を駆け足で戻っていく。
そして自分のクラスがある廊下にまで戻るとそこにある曲がり角の壁に姿を隠した。
(第二サブオペレーションは……王道中の王道イベント『曲がり角でごっつんこ☆』だ!)
純の作戦の殆どは、アニメや漫画等でよく知られるようなものだ。
それに特に深い意味は無く、ただ短い期間で手早く情報収集したかった彼と相性が良かっただけ。
同学年の生徒らが行き交う騒がしい廊下で、純は一人壁に身を潜めて佇んでいた。
そんな純は、やはり周りから突き刺さる奇異の視線をスルーする。
「……! 来た!」
見つめていた廊下の奥から見慣れた濃紫色の髪を揺らしてのんびりしたペースでこっちへと歩いてくるのは、紛れもない渕瀬綾穂だ。
またもタイツを纏った綾穂の美脚に純は魅了されるが、それと同時にこの作戦は成功する事を自覚する。
(渕瀬は、本を読みながら歩いている!)
所謂『ながら歩き』をしている今の綾穂になら、確実にぶつかる事の出来る確信があった。
胸中で勝利宣言をした純はやがて腰を持ち上げると、念のため走ってきた風を装った方が良いと判断し数歩下がって距離を作る。
意識を集中させ、やがて綾穂の足音が近づいてきた事を認知した。
そして純は軽く足を前へと踏み込んで、ランニングをする程度の勢いで曲がり角へ走り出した。
「……お」
「…………」
あまりに勢いをつけすぎて綾穂に怪我を負わせたら一大事だと考え程々の助走で留めていた純。
曲がり角まで後半歩となった時に、丁度本へと視線を落としている綾穂の頭が見えた。
これはもう確実だ、と純は笑みを浮かべると演技さながらに「……おっと」と云う呟きを零す。
──そしてその呟きが零れる前に、綾穂は本を読みながら体を回転させ純を華麗に躱した。
(……あぁ、渕瀬は運動神経抜群だったな。失念してたよ)
そして何事も無かったかのように歩いていく綾穂を、その足音だけで見届けて純はそのまま廊下をランニングして行くのだった。
* * *
「ふむ……」
五限目から六限目にかけて行われる進路指導ガイダンス。中学過程の第三学年で高校受験を控えた純達は、その日全校生徒を収容する事の出来る体育館で教師からのガイダンスを受けていた。
八重樫純は、渕瀬綾穂の事が半年ほど前から好きでいる。
きっかけは些細なもので、ある日の放課後に純が半強制的に入れられた部活をサボって中庭を散策していた時だ。
そこで、何処から入ってきたのか分からない野良猫を膝の上に乗せて綾している綾穂の姿を目撃する。
一目惚れ。その頃の綾穂に対する印象は、至極冷静沈着の無口でクールの産物なもの。
だがその思いが180°回転し、普段は無口だけども緩いところもあるというものに変貌した瞬間だった。
無性に可愛かった。
それから純は、綾穂を常日頃から目で追いだしたのである。
「渕瀬は、チョコとかあげないのかな」
体育館に並べられた椅子にクラスごと背の順で並び、区分けされた女子側に座っている綾穂を眺めながら純はそう呟く。
しかし日頃から男子は愚か女子とも一切コミュニケーションを取っていない彼女。
そんな綾穂がバレンタインにチョコを誰かにあげるわけが無い。
自分から言っておいて馬鹿げた可能性だな、と鼻で笑って純は視線を舞台上にいる教師へと向けた。
「……──であるからして、最近は中卒の人間が社会人として生きていくのは難しくなってきている。だからせめて高校過程までは修了しておく必要があるんです」
顎髭の濃いその教師が言った事を右から左へと聞き流している純は、ふと綾穂の方へと視線を戻す。
そこには、綾穂が食い入るようにして本を読んでいる姿があった。
恐らくはガイダンスを行うにあたって配られた小冊子だ。それを綾穂は、いつもと変わらないながらに真剣な面影で見つめている。
(渕瀬は、やっぱ頭のいいとこに行くんだろうな)
純と綾穂の成績を比べれば分かるが、頭脳的に言えば大分な差が二人にはある。
その二人が同じ高校へと進学する確率は極めて低い。
だからもし、純のバレンタイン大作戦が成功したとしても恋仲として仲良く居続けるのは相当難しいことである。
「まぁ、それを俺が考えても仕方ないんだけどな。……なるようになるさ、きっと」
力が抜けるのを感じながら、背もたれに回していた右腕で椅子に座っている。
やがて純は、自分自身も手に持っていたガイダンスの小冊子を読み始めることにしたのだった。
* * *
翌日、1月15日。
今日は余裕を持って登校する事が出来た純は、学校へ来て早々拓哉と卓を窓際の一番後ろに招集した。
無論、昨日同様バレンタイン大作戦の話し合いである。
「それで拓哉、今日はどんな感じだった?」
朝の担当である拓哉に、少しの希望を持ちながら純は質問を投げかけた。
「いや、昨日と一緒でずっと読書読書だったぜ」
「……やっぱりか。多分渕瀬はずっとそうしてるだろうな」
まぁ結果は大体予想出来ていた、と純は心の中で「変化なしか」と落ち込む。
けれどそれは昨日の内に予想出来ていた範囲内の話である。
寧ろ、今日はもう一人の友人──卓からの話が重要となってくるのだ。
「それで、すぐちゃんには渕瀬の帰り道を追ってもらう任務を課していたわけだが。どんな感じだった?」
朝の担当が拓哉であると共に、帰りの担当はもう一人の友人こと卓の役割である。
それの戦果報告が、ある意味純の中では一番重要な事柄であった。
「すぐちゃんて呼ぶな……なんてツッコミは今更だから省くか」
親しみを込めて『すぐちゃん』と呼ばれている低い背丈の卓は、視力のせいもあって掛けている眼鏡をくいっと一度上にあげる。
そして卓は、切り替えて口を開いた。
「それで、渕瀬綾穂のことだったな……。って言っても、昨日は追う暇も無かったんだがな」
「……す、すぐちゃんどういうこと?」
その卓が放った言葉に、純は頭が疑問符で埋め尽くされると直ぐに言葉の意味を問い質す。
「いや、昨日後をつけるために授業が終わって彼女を視界に入れようと思ったら、その時にはもう教室からいなくなってたんだ」
「んな……」
卓のその言葉は、嘘では無いのだろう。
それは、昨日綾穂の速過ぎる給食当番の仕事を見ていたからこそ思えたコトだ。
運動神経抜群の渕瀬ならそれだけ迅速な行動が出来ても当然だろう、と。
「まぁ、そうだよな。渕瀬はそんな感じだったもんなずっと。すぐちゃん、今日からは授業が終わる前から見張っててくれないか?」
「いや……すまんが、俺はこれっきりにさせてもらう」
昨日から何一つ作戦が上手くいっていない事もあって、純は何処と無く重苦しい雰囲気を纏って卓にそう言った。
だが卓は、その気持ちをバッサリと斬ってみせる。
「え、なんで……?」
飯を奢ってやる。それだけの事で拓哉や卓が協力してくれているとは、純だって思っていない。
この一年共にこのクラスで過ごしてきた分の、友情みたいなもののお陰で動いてくれていたと順は思っていた。
けど、卓はその友情をいとも簡単に断ってみせたのだ。
「まぁ理由は単純だ」
"単純"と言われ、より一層友情と云う複雑なようで実は至極単純なそれを言っているのだと純は察する。
そして卓は、もう一度眼鏡を指で持ち上げると咳払いを一つして理由を述べた。
「純よ。俺と拓哉がやってるのはさ、俗に言う…………ストーカーってやつだろ?」
「な、なんだってー!?」
卓が柔らかい、しかし重たげな笑みを浮かべながらそう言うと、それに対して純は思わず声を張り上げていた。
(今更気付いたのかよ!)
純は、卓が本当に純粋な奴である事を今改めて思い知ったのである。
「…………ん、卓お前。そんな事にも気付かず引き受けたのか?」
すると、隣から聞こえた拓哉の言葉を耳にした純は、拓哉が逆に凄い奴である事をまた改めて知らされたのだった。
〜〜〜
その後、一限目の担当教師が来たことにより話は打ち切りとなった。
けれども卓と云う貴重な存在が欠けそうになっている今、今度はどうやって再び卓を手伝わせようか純はそれに悩んでいる。
そして今はその一限目が終わり一限目の休み時間。
授業終了のチャイムが鳴るなり、純は直ぐ様卓を説得しようと席を立った。
「あ、渕瀬。一つ頼まれごとを引き受けてくれないか?」
「……はい。どんなことなんですか?」
「次の授業で使う備品を、準備室から運んできて欲しいんだ」
「それぐらいならいいですよ」
「あぁ助かる。それじゃあ部屋の鍵渡しとくから、頼むぞ」
そして綾穂は頷くと、教師から受け取った鍵を数秒見つめた後立ち上がって教室を出て行った。
普段頼まれごとをされない綾穂だが、珍しく仕事を任された事で少し内面では驚いている。
「な……! これは……」
そのやり取りを偶然見ていた純は、綾穂が何処と無く戸惑っているのを直感的に感じ取った。
純も綾穂がいつもは誰にも話しかけられない静かな存在であることを知っている。
だから綾穂が鍵を見つめていた時にピンと来たのだ。
「……作戦変更。すぐちゃんは後回し、すぐに渕瀬を追う!」
卓を説得するために立ち上がったが、こんなチャンスとも言える状況をみすみす見逃す事は純には出来ない。
教室で他の友人らと喋っていた拓哉に卓の説得を依頼し、そして純は駆け足で綾穂の後を追った。
「──……ふむふむ」
備品倉庫にて。
綾穂は、鍵を渡される際に受け取っていた準備する備品が書かれた紙を確認しながら、様々な道具が置いてある棚を見て回った。
電灯が一つ点かず何処か薄暗い室内で、綾穂は目的の備品を順調に手へ収めている。
後一つの備品が視界に映ると、手にとって無事全てのアイテムを揃えることが出来た。
「ふ、渕瀬! 手伝いにきた!」
背中の方で突然響いた扉を開く音に内心で驚いていると、次に男の声が耳に届く。
「……もう全部終わったよ」
「ちょ、ま……!」
綾穂が事実を告げただけだと云うのに、扉を開いたまま立ち止まっている男子生徒──八重樫純は至極それに驚いた様子でいた。
クラスの中心人物であり男女共に友人の多い彼は、ある意味綾穂の嫌う相手の一人である。
(私も、色んな人と話したいな……)
ただの嫉妬心から敵視しているだけだが。
「それじゃあ戻るね」
「い、いや俺も帰るよ用事無くなっちゃったし!」
そっと純の横を通り抜けようとしま綾穂に、振り向いて純はそう言って教室へと戻る綾穂の後に続いた。
歩きながらチラッと後ろを見た綾穂は、心の中でムッとすると再び前を向いて歩く。
「ところで渕瀬って、いつも読書してるけど……他なにかしないの?」
喧嘩売ってるの?
綾穂はついそう言いそうになってすぐに言葉を飲み込むと、少し考え込んでから口を開く。
「読書好きだから、私」
「あ、なるほど。それならいつも読書してても普通だな」
純をチラ見すると、自然に口元を緩ませてまるで楽しそうに会話をしてきている事が分かる。
こっちは微妙に不愉快なのに……、と綾穂は頭の中で思った。
「というか渕瀬、備品ちょっと持とうか?」
「いやいいよ。もうすぐ教室だし」
ふと純が話し掛けてきた言葉に、反射的にそう答えてしまった綾穂。
気遣ってくれたのならありがたいことだ。それを即答で断るのは流石に失礼な気がした。
けれど答えてしまったものは仕方が無いと綾穂は考えて、教室まで備品を運ぶ。
「……んしょっ……と」
教卓の上に割と重量のあった備品達を置く。
小さく肩を回していると、その姿を隣にいる純がぼぉーっと見てきていた。
「どうしたの?」
「あ、いや! 手伝いに行ったのに、特に何も出来なかったなぁとちょっと反省してました……」
申し訳なさそうな顔をしながら嘘なのか本当なのか分からない言葉を純が言う。
そしてそれを受けた綾穂は、数秒の間を空けてから「……そう」と返事をした。
やがて、「そろそろ時間だから席に戻ろう」と綾穂が提案すると純は渋々ながらに頷いて返事をする。
綾穂の言う事が純の中では絶対なのだから、仕方が無かった。
「じゃ、じゃあまたな渕瀬」
「うん」
その会話を最後に綾穂は純に背を向けて席へと戻っていく。
備品倉庫からここまでのおよそ3分の間、ほぼ何も話をしなかったが純の中には楽しかった気持ちが充満している。
そんな余韻を感じながら、やがて肩をがっくりを落として自分の席へと戻っていくのだった。




