Gemini
独特の、つんとくる臭いが鼻をつく。
ぐっと眉を寄せて首を巡らすと、左手の爪先を凝視し小さな刷毛を一心に動かす双子の姉の姿が目に入った。
「ねえ、綾。」
「……。」
「……ちょっと、綾。」
よほど集中しているのか、呼びかけても返事がない。
俺の声に気付かないなんて滅多にあることじゃない、と思うが、そういえば最近は気付かないことも増えてきたかもしれない、とも感じる。
ただ、この臭いはいただけない。
「……おい、綾!」
先程よりも強めの声で名を呼ぶと、綾は肩を大きく震わせて爪から視線を外した。
驚いたようにぱちぱちと瞬きを繰り返した彼女は、俺の姿を視界に捉えると目尻を吊り上げて睨みつけてくる。
「……なに、郁。」
いつもより二段ほど声が低い。集中を切られたことに相当苛ついている様子。
これからの予定を考えたら当然の反応だとは思うけれど、俺だって何の用件もなしに呼びかけたりはしない。
「それ、どうにかならないの。臭い、きついんだけど。」
「文句あるなら出ていってよ。私今忙しいんだから。」
「爪に変なの塗ってるだけじゃん。どこが忙しいんだよ……痛てっ。」
結構な力で頭を小突かれた。
勿論相手は女だし男に殴られるよりは痛くないけど、でも痛かった。
「馬鹿、変なのじゃないよ。マニキュア。」
「俺からすると爪に何か塗ること自体が信じられないね。」
「……どうして郁がモテないのか、なんかわかった気がするわ。」
俺の言葉に呆れたような溜息を吐いて、綾は再び刷毛を動かし始める。
健康的なピンク色の爪が透明度の低い白に塗りつぶされていくのを見ていると、なんだか綾が知らない人になってしまったようで、なんとなく面白くない。
机の上には白と水色の小瓶が載っていて、淡い水色を基調とした服装に合うように彼女の爪先も彩られていくのだろう。
顔には既に薄く化粧が施されていて、"ナチュラルメイク"なんて馬鹿らしいと言ったのはほんの数日前なのに、なるほど今日の彼女はいつもより少し大人びて見えると妙に納得してしまった。
いつだって、俺の隣には綾がいた。双子だから当然、生まれた時からずっと。
いつだって隣を歩いていたはずなのに、綾はいつの間にか隣に立つ人を見つけて俺の傍を離れていってしまった。
残された俺はただ、子供じみた方法で、離れていく綾を引き留めようとしているだけ。
「……隆、驚くだろうな。」
ぽつりと俺が呟くと、綾が再び顔を上げた。
今度は表情には先程のような不機嫌の色はなく、チークで人工的に赤みを差した頬が体温でさらに赤くなっている。
その指先からぽろりと落ちた刷毛を慌てて受け止めると、俺の掌にさっと白い線が走るのと同時にちくりと胸が痛んだ。
「危ねっ、」
「わっ、ごめん郁!ちょっと待って、今除光液……!」
「ああ、悪い。」
わたわたと脱脂綿にこれまたきつい臭いの液体を染みこませる綾の姿にようやく俺の知る彼女を見て、どうしてかささくれ立っていた心が次第に落ち着いてくる。
そっと俺の手に触れた彼女の手は小さくて、双子とはいえ俺と彼女は違う人間なのだということを端的に表しているように思えた。
「隆くんはなんにも言わないよ。この間も気付かなかったし。ただ私がお洒落したいだけだから。」
「そうかな。案外照れてるだけかもしれないぜ。」
「……らしくないよ、郁。除光液の臭いにあてられておかしくなった?」
現在綾の彼氏という地位をもっている俺の親友の生真面目な顔を思い浮かべながらかなり真剣に言ったのに、綾からは何か気味の悪いものでも見るような視線を送られて、さすがの俺も表情が強張った。
勢い任せに否定しようとして、ふと浮かんだ考えに言葉を切る。なかなかいい考えのように思えた。
結果、俺は言葉を出さずに、手の甲を上にして綾に差し出した。
「郁?」
「そうだな、あてられたかも。だからさ、俺にも塗ってくれよ、マニキュア。」
「…………は?」
全く予想外の言葉だったのだろう、綾はぽかんとして俺の顔と手を交互に見つめる。
やがてぷっと吹き出すと、軽やかな声で笑いながら俺の手を取った。
「変なの、今日の郁。でも、いいよ。どんなのがいい?」
「綾と同じでいい。」
「やだ、お揃いってこと?ま、新しいの出すのめんどくさいし、いっか。」
仕方ないといった声音で手に取った刷毛によって、俺の爪も白に塗り潰されていく。
綾の存在が本当にこの手の届かない所に行ってしまったら、俺は一体どうなるのだろう。
今は爪先を彩る白で蓋をされているけど、その下に渦巻いている黒いものに囚われてしまったら。
あとは坂道を転がり落ちるように堕ちていくしかないのだろうか。
「……よし。乾かしている間に私の分塗っちゃうからちょっと待ってて。触っちゃダメだからね!」
「わかった。」
今度は水色の刷毛をつまんだ綾の指先を見つめて、俺はゆっくりと色々な臭いの混ざる新しい空気を吸い込んだ。
お題:坂と爪