【 18 】 だからお前もその心づもりでいろ < :前篇 >
一人取り残された店内。
後ろ髪を引かれるような思いで薫を送り出した樹里は、オンライン状態のままで放置されていたGoldfinger-Xへと近づく。
そして作業台のパネルを操作しようと手を伸ばした時、耳に響いたのは鼓膜を突き刺すような荒々しい開閉音。
( 薫…… )
夫が立ち去った方角をそっと見やっても、無論そこにはもう誰もいない。
つい今しがた去り際に見せた薫の恐ろしい形相が脳裏に蘇り、かすかな胸の痛みを感じた樹里はそっとその場所に片手を当てた。
手のひらで感じる自分の鼓動は、いつもよりほんの少しだけ早い。
傷心が作り上げた歪んだ窪みの中を、滲み出てくる物悲しい気持ちがみるみるうちに満たしてゆく。
「漸次さん、いらっしゃいますか? 樹里です」
だが薫を信じると決めた以上、漸次の前で不安げな表情をするわけにはいかない。
ぎこちない笑顔を作り、漸次の店、Casquette Walk 内が映されているモニターに向かって話しかけてみる。
「こんな夜遅くにお騒がせして申し訳ありません。今、薫がそちらに向かいましたのでよろしくお願いします」
応答が無いため台面を覗きこみ、再度漸次の名を呼びかける。すると今度は反応が返ってきた。
「チッ、マジであいつここに来んのかよ」
しかしその声は聞き馴染んでいる漸次の人懐っこい野太い声とは違い、あからさまな嫌悪感が含まれている。
やがて画面の端に見切れるように映ったのは赤いパーカを羽織った長髪気味の少年。
漸次が所持する二台の電脳巻尺の内の一つで、今は少年型の改造アンドロイドに自身の脳を完全融合させている巻尺だ。
「あら武蔵じゃない。お久しぶりね」
「おう。元気そうだな、六万坂のネーチャン」
武蔵はかったるそうな足取りで室内の中央に歩み寄ってくると上部モニターに映る樹里を見上げた。そしてニヤリと下卑た表情を浮かべ、
「しっかし相変わらずふるいつきたくなるようないい乳してやがんなぁ、あんたはよ。先端もビンビンに尖ってやがるしいつ見ても惚れ惚れするぜ」
と口元を歪めた。
チアリーダーのユニフォームを脱ぎ、白い薄手の半袖ブラウスに着替えたばかりの樹里は、咄嗟に身をよじり、形の良い胸を武蔵の視界から隠す。
「や、やだ、そんなこと言わないで……」
台面に向かって大きく上半身を傾けていたせいで、武蔵側のモニターでは自分の胸がかなり強調されて映ってしまっているらしい。
しかしそんな恥じらう樹里を更に辱めようと、武蔵は過激さを増したあけすけな言葉を怒涛のように投げつける。
「へっ、人妻のくせにそうやって恥ずかしがるとこがたまんねぇな! だけどよ、下にだらしないあばずれ女より、あんたみたいな清純そうな女の方が男の上でガンガン腰振るタイプが多いって聞くぜ? どうせあんたも夜になったら豹変して旦那の上で腰振りまくる口なんだろ?」
「なっ……」
卑猥な台詞に動転し、唖然とした顔を真っ赤に染めて言葉を失っている樹里を見た武蔵は、「やっぱあんたをからかうと面白れーわ」とほぼ嘲笑に近い笑い声を上げた。
「ひどいわ! 私をからかわないでっ」
この仕打ちにいつもは穏やかな樹里もさすがに不快感を露わにする。しかしこの少年型の巻尺はその程度の抗議でおとなしく口を閉じるような性格ではない。
「いじり甲斐がありすぎるあんたが悪いんだっつーの。なぁそれより六万坂のネーチャン、話はちょいと変わるがよ、あんた、あの短気馬鹿の専属型式なんかサックリと止めちまって、うちの漸次さんの型式をやる気はねぇか?」
「えっ……、あなた何を言ってるの?」
「飲み込みの悪い女だなぁ。だからネーチャンをスカウトしてんだよ」
「スカウトですって!?」
「あぁそうさ。あんたはそこらを歩いている雌共とは素材が違う。あんたほどの器量ならうちの漸次さんも即採用するはずだ。それに万能工匠の作品を身に着けて仕事をすればお前さん自身の箔も一気につく。せっかくそんな極上の乳を二つも持ってんだ、あんたもバインドモデルの端くれならよ、あんなMaster Bra止まりのチンケなニワトリ男の型式に甘んじてねぇでもっと高みを目指した方がいいと思うぜ?」
「止めて!! それ以上薫をバカにしないで!!」
樹里はそう叫ぶとこれ以上武蔵に嫌な角度から自分の胸を見上げられないよう、モニターの位置を眼下から正面へとスライドさせた。そして真正面から武蔵と向きあい、
「もうすぐ薫だって漸次さんと同じ万能工匠になるしっ、私は薫以外の職人さんのモデルなんて絶対にしないわっ! それに私の事を六万坂って呼ぶのもいい加減に止めて! 私はもう廻堂なんだから!」
「うっせぁなぁ。細けぇことにいちいち突っ込み入れんなよ。癖で呼んじまうんだからしゃーねぇだろ。それよりネーチャン、今あんた、すっげー面白れぇ世迷言をのたまいやがったな」
「世迷言なんて何も言ってないわ!」
「とぼけんなよ。たった今、お前さんのアホ旦那が近いうちに万能工匠になるって言ったじゃねぇか」
「それのどこが世迷言なの!?」
「ハハハッ無理無理! あんな浮ついたヒヨッコが万能工匠だなんてお天道さんが西から昇ってもありえねぇよ。これが世迷言じゃないってんならこの世に物事の道理なんてないってことになるぜ?」
「そんなことないわ!! 薫のブラに対する情熱は本物よ! あの人は今年の昇進試験を受けてきっと合格するんだから!」
「へぇ」
唐突に笑うのを止めた武蔵の目が興味深げに強く光る。
「あいつ昇進試験を受けやがるつもりなのかよ?」
「そうよ! 薫ならきっと今年中に必ずオールラウンダーになれるわ!」
「今年中に必ず万能工匠になれるだと? ハッ、笑わせてくれるぜ! 大方、FSSのボンクラ共から “ お前なら史上最年少の万能工匠になれる ” とか吹き込まれてあの馬鹿はその気になったってとこじゃねぇのか?」
「そっそれは……」
樹里は曖昧な態度で言葉を濁す。
―― 女性下着縫製協会広報部、芝桜 林太郎。
女性下着請負人になりたての薫を初めて取材に来てからその男気に惚れ、暇さえあれば今もしょっちゅう菩庵寿に顔を出す、アフロヘアにひょろりとした体躯の男。
武蔵の邪推通り、FSS社員の芝桜がそのフレーズを頻繁に口にしていることは事実だからだ。
「どうやら図星だったみたいだな」
急に歯切れが悪くなった樹里を見た武蔵が愉快そうに揶揄を続ける。
「なぁ、悪い事は言わねぇからあんたがあの馬鹿を止めてやれよ。あいつが試験を受けたってどうせ落ちんのが関の山だって。それにネーチャンは知らねぇだろうが、万能工匠の昇進試験には特殊科目っつーのがあるんだぜ?」
「それなら知ってるわ。下着祭典のことでしょ」
「へぇ、あんた試験内容を知ってんのかよ?」
意外そうな顔で自分を見ている武蔵に、樹里は大きく頷いて見せる。
「もちろんよ。その特殊科目って、昇進試験を受ける職人さんがその年のブラフェスで取り上げられたテーマに沿った下着を製作するのよね」
「ご名答だ。ところでなんでその事をネーチャンが知ってんだ?」
「昔、薫が女性下着職人の試験勉強をしていた時に知ったの。私もあの人の勉強を手伝ったから。確かその年のブラフェスのテーマは温故知新だったわ」
「なるほどな、そんな頃からあんたはあの脳筋馬鹿を影で支えてきたってことか。なら話は早い。お前の旦那がプロモに絶対に合格できない訳ってヤツが分かるだろ?」
「いえ分からないわ。どういう事なの?」
「なんだ分かんねぇのかよ。しゃあねぇな、なら教えてやるぜ」
武蔵は樹里をモニター越しに指さし、女性下着職人としての薫の致命的な欠点を言い淀むことなく明確に告げる。
「いいかネーチャン。創作っつーのはどんなモンを作るにしろアイディアが命だ。そしてブラフェスはその年に決められたテーマによっちゃあ、かなりふざけた下着を作らされる羽目にもなる。だがあいつはそういう類の下手物下着を作る事は断固拒否してるらしいじゃねーか」
武蔵の指摘に樹里は思わず息を呑む。
「へっ、どうしてそれを知ってんのかって言いたげな顔してやがんな」
「武蔵、なぜあなたがそれを……?」
「あのなネーチャン、俺らのこの業界はある意味すげぇ閉鎖的なんだぜ? だから真偽の程は別にしても職人の噂話なんてモンは常に飛び交ってる。ちなみにあの短気馬鹿の評判はな、“ 仕事ぶりは丁寧でアフターフォローも万全だが、改造下着系を目の敵にし、柔軟性はやや乏しい職人 ”、だとよ」
「知らなかったわ、薫にそんな評判が立っているなんて……」
「ショックか? だが俺は真実を衝いてる評判だと思うぜ? 確かに王道の作品を極めようとする事は重要さ。だがそれだけじゃ万能工匠にはなれねぇんだよ。例えばうちの漸次さんのように服の上から揉まれても気付かれねぇ偽乳バンドを開発するとか、コウのように自分の好物を利用して女と戯れる目的のみの下着を作るとか、とにかく遊び心ってやつもなけりゃあ万能工匠なんてとても務まらねぇ。だがあのヒヨッコは “ くだらねぇ、そんなもんは邪道だ ”、の一言でキワモノ的な商品を一切認めやがらねぇときている。頭がガチガチに固すぎるんだよあいつは」
「…………」
「大体な、“ 乳や尻に完全フィットする作品だけを極めりゃあいい ”、なんて考えが古臭すぎて噴飯もんだ。なぁ、ちょいと聞くがよネーチャン、あんただって経歴は浅いが専属型式として一応はこの業界に身を置く立場だ。どうだ、その型式の立場であの男を見た時、職人としてのあいつの視野が狭いと思ったことの一度や二度はあるんじゃねーのか?」
樹里は一瞬返答に迷った素振りを見せた後、「そんなことないわ」と今にも消え入りそうな声で答える。
「台詞と態度が真逆になってんぜ。つーことはネーチャン、本当はあんたも分かってんだな。このままじゃ、あいつは万能工匠にはなれねぇってことによ」
「な、なれるわ! 薫は必ず合格するわ! だってお義父さんのようなオールラウンダーになるのがあの人の目標なんだもの!!」
するとそれまでひたすら薫をこき下ろしていた武蔵が初めて黙った。そして「廻堂 幸之進か」と噛みしめるように呟く。
「あっ……ごめんなさい武蔵……」
「別にネーチャンが謝ることじゃねーだろ」
「そうだけど……」
「よしてくれ、もう済んじまったことだ。俺の中でとっくに区切りはついてるっつーの」
武蔵はわずらわしそうに片手を振り、その話題を強引に打ち切る。
「そんな事よりネーチャン、あの馬鹿だけじゃなくあんたもそろそろ目を覚ませよ。能無し亭主を一途に信じる健気な若妻、っていうあんたのその姿勢は大層ご立派だ。だがよ、聞きようによっちゃあ、お涙頂戴の美談になるのかもしんねーが、俺から言わせりゃ頭が万年花畑の一言に尽きるぜ? おめでたいにもほどがあるとはまさにこの事だっての」
何を言っても小馬鹿にしたような顔で口汚く返してくる武蔵に、樹里は腰に手を当て、諦めの吐息をついた。
「薫がどうしてもあなたと合わない訳がよく分かるような気がするわ……」
「今更な事を言うなよ。相手がコウならいざ知らず、この俺様とあの脳筋が合わないことぐらい、前から分かり切ってることじゃねぇか」
「そういえば武蔵、あなたコウさんとは会ってるの?」
話の流れ上で何気なく聞いただけの質問だったが、武蔵がまた黙りこむ。
会っていないの、ともう一度尋ねると、「時たまな」と面倒臭そうな返事が戻ってきた。
「コウさんは元気?」
「……さぁな、元気なんじゃねーのか」
「なんだか冷たいのね。昔はあなたの専属操作者だった人なのに」
樹里にたしなめられた武蔵はケッと吐き捨て、不貞腐れたように両手をパーカーの左右のポケットに乱暴に突っ込む。
そんな武蔵を見た樹里は、そういえばこんな仕草も薫に似てるわ、とふと思った。
「冷たくて結構だっての。あいつに言い寄ってくるクソ雌共をクールにあしらうのがコウの最高にカッコイイとこだったのによ、トリップ先のこうるせぇだけの子雌に完全に色ボケしちまって仕事まで変えちまったあいつには幻滅してんだ」
「あら良く言うわ。あなただって琥珀がとっても好きなくせに」
「……おいネーチャン、ちょっといい乳してるからって調子にのんじゃねーぞ?」
幼さの残る顔つきを突如険しいものに変え、苛立ちのこもった視線を武蔵が樹里に向けて放つ。
「別に調子になんてのってないけど」
「女のくせに男に口応えすんじゃねーよ。いいか、間違えんなよネーチャン。惚れてんのは俺じゃねぇ。琥珀が俺にベタ惚れしてんだっつーの。言っとくが俺はあいつのことなんか何とも思ってねぇし、その辺に転がってる巻尺の一つっつー認識しかねぇよ。つーか俺は琥珀なんかよりお前さんとこのサクラの方が断然興味あるぜ? あいつ、引き締まったいい外殻してっからな」
「またそうやって嘘ばっかり言って……。やっぱりあなた、薫とよく似てるわ。触れられたくないところを探られると、思ってることと正反対のことを言い出すところとかすごくそっくりよ」
「何!? 冗談じゃねぇ!! あんな脳筋馬鹿とこの俺様を一緒にすんな!!」
ここで席を外していた漸次が慌てたようにモニターの前に戻ってくる。
途端にモニターのほぼ全域が褐色の肌を持つスキンヘッドの大男で占められた。
「おぉ樹里!!」
「あっ漸次さん、いらっしゃったんですね。お久しぶりです」
「堅苦しい挨拶は後だ!! 樹里ッ、コードが知りてぇんだ!! サクラに出てるコードを教えてくれ!!」
「コード……、ですか?」
「そうだ!!」
状況が飲み込めていない樹里などお構いなしで漸次は早口でその理由を並べたてる。
「今あれのマニュアルをチェックしてたんだが耳の後ろに表示されているコードでエラー原因が分かる!! ルーキーの言うようにもし一刻を争うエラーならそっちで対応してもらわにゃなんねぇ!! サクラの中の顧客データが全部ぶっ飛んじまったら一大事だ!!」
「で、でもあの人ならもうとっくにそちらに向かってしまいました」
「いやルーキーはまだお前んちの前にいる!! あいつの位置を探ったから間違いねぇ!! 樹里っ、何としてもあいつを引き留めてくれ!!」
「分かりました。急いで家の前を見てきますね」
「あぁ頼む!!」
「漸次さん大袈裟っスよ。ヒヨッコならどうせ大した客なんて持ってねぇだろうし、客のデータが全部ぶっ飛んじまったって別に構やぁしませんって」
Goldfinger-Xから急いで離れた樹里の背後で武蔵が憎まれ口を叩いている。
悪態をつき続ける武蔵にもう一度言い返したいところだが今は薫を追わねばならない。
薫は本当にまだ家の前にいるのかしら、と半信半疑の気持ちを抱え、樹里は菩庵寿の外へと出た。
店外に出た瞬間、熱帯夜独特の生温い空気が待ちかまえていたように一気に身体にまとわりついてくる。
むわっとした湿り気混じりのかすかに生臭い外気を吸うと一瞬軽い吐き気がした。しかし煙草を咥え、車のボンネットの前で一人夜空を見上げている薫を見つけるとそんな気分も一瞬で吹き飛んでゆく。
「薫、あなたいつから煙草なんて吸ってたの?」
背後から静かに近づいてそっと尋ねると、突然声をかけられた薫は弾かれたように夜空から視線を下ろし、仰天した顔で樹里を見た。その拍子に驚きで半開きになった口元から、まだ火のついていない煙草がポロリと地面へと落ちる。
「なっなんでお前ここに来てんだよ!?」
「あなたがまだここにいるって漸次さんに言われたから……。ううん、そんなことより大変なの薫。サクラの身体に表示されているコードを漸次さんが知りたがってるの。もし一刻を争う危険な状態ならここで対応しなくちゃいけないらしいの」
「なに!?」
「だから急がなくっちゃ。私が見るわ」
樹里は素早く助手席のドアを開け、サクラの顔を横に向かせると黒髪をかき上げる。そして指示された場所に表示されている情報を素早く暗記した。
「急いで漸次さんに伝えてくるから薫はここで待っててね」
「こんなとこでのんびり待ってられっかよ! 俺も行く!」
「だめよ、あなたはサクラを見ていてあげて。伝えたらすぐに戻ってくるからまだ蕪利には向かわないでね」
薫をその場に留めさせ、樹里は小走りで菩庵寿へと戻った。そしてやきもきした様子で待っていた漸次にサクラの情報を伝える。
樹里からの報告を受けた漸次は苦渋と軽侮が組み合わさった微妙な顔で自分の顎をゆっくりと撫で、「まさかとは思ったがやっぱそいつが出てんのかよ」と深い吐息と共に呟いた。




