【 17 】 「 何の真似だ 」
―― 大きく見開かれたサクラの瞼が静かに閉じられる。
真っ直ぐに虚空を見つめているその両目を、滑らかな額から薄い唇に向かって薫が手で撫で下ろしてやったためだ。
動かなくなったサクラを抱き、薫はその場から立ち上がる。
目を閉じ、物言わぬサクラ。
今は遊び疲れてただ眠っているようにすら見えるのが、取り残されてしまった三人の家族の胸を深く深く抉る。
「薫、あなた今から蕪利に行くつもりなの……?」
「おう、あのクソ親父の所に行ってサクラを元に戻させる」
問いに頷いた薫の表情は体内から湧きあがる怒りで凄まじいものへと変貌している。
しかしそこまでのただならぬ様相を呈しているのに、発した声は傍から聞いていても不気味さを感じるほど感情の抑揚が無い。
薫が醸し出している異様な雰囲気に、一瞬、樹里の胸の中に不安が走った。
しかしあえてその事を何も感じとれなかったかのようにふるまう道を選び、「そうよね、漸次さんならきっとサクラを直してくれるわよね」と明るめのトーンで答える。
「当たり前だ。もしサクラを元に戻せなかったらただじゃおかねぇ。あのオッサンを半殺しにしてやる」
「エッ!?」
突如飛び出した血生臭い発言に、何も気付いてないふりなどもはや出来なかった。
樹里は大きく目を見開き、床に膝をついていた状態から急いで立ち上がる。
「何てことを言うのっ!? そんなバカな事を考えるのは止めて!!」
「バカな事じゃねぇ。俺は本気だ」
「冷静になって薫!! 私たちが結婚できたのもあの人のおかげじゃないっ!! 私たちがあの人に今までどれだけお世話になってきたのかあなただって分かってるはずよ!?」
「俺らにとっては恩人でもそれとこれとは話が別だろうが。あのハゲがサクラを元に戻せないなんて言いやがったら、二度と針が持てないぐらいにまでボコボコにしてやるよ」
「そんな……!」
過激な言葉に顔色を無くした樹里の声が震えた。
繊細で緻密な作業が必須の女性下着請負人にとって針を持つ手はまさに命そのもの。
この若さですでにマスター・ブラの地位にまで昇格している薫ならその事は樹里よりもよく承知しているはずだ。
なのに、自分たちの恩人である如月 漸次に対し、女性下着職人の命綱である縫い針を持てないほどの目に遭わす、と三白眼を吊り上げて言い切った薫に、樹里の背筋がゾクリと寒気立つ。
今まで何度か本気でキレた薫を目にした事はある。
そしてそんな夫に軽い恐怖を感じたこともある。
しかし自分の身を襲っているこの寒気は今まで感じてきたものとは比べ物にならない。
冷然とした口調ではあるが、薫がどれだけの抑えがたい激しい憤りにその身を滾らせているのか、それを知ってしまった樹里は夫に対する言い知れぬ恐怖で言葉を失った。
そしてその強い脅えは、薫にすがりついていた両手の力までも解かせてしまう。
「お兄ちゃんっ、暴力はダメだよっ!! また昔みたいな乱暴なお兄ちゃんになったら可乃子嫌だよっ!!」
呆然とする樹里の代わりを務めるかのように可乃子が声を上げたが、怒りに完全に囚われている薫の意思はその程度では変わらない。
「可乃子はもう寝ろ。これは命令だ」
たった一言だ。
横目で一睨みされてたった一言そう言われただけなのに、可乃子の顔色が瞬時に変わる。
しっかり者の妹は青ざめた顔で息を呑み、目の前の兄の視線を避けるように樹里の後ろに逃げ込むと小さく震え出した。
外敵に身を食いちぎられる寸前のいたいけな子ウサギのように震えおののく妹をジロリと一瞥し、
「樹里、戸締りはきちんとしとけよ。多分今夜は戻って来ねぇ」
温度の無い声でそう言い捨て、薫は仰向けにしたサクラを抱えて一人廊下へと出てゆく。
「待って薫!!」
可乃子に顔を向けていた樹里は我に返ると薫に向かって手を伸ばした。だが可乃子が自分の背にしっかりとしがみついているので追うことが出来ない。
「そんなに怖がらないで可乃子」
自分も脅えていることを決して悟られぬよう、樹里は気を配りながら震えている義妹に優しく語りかける。
「大丈夫よ、口ではああ言っているけど、薫は漸次さんに乱暴な事をしたりしないわ」
「ううん、樹里お姉ちゃんはなにも知らないからそんな簡単に言えるんだよ……。本当に怒ったお兄ちゃんがどれだけ怖いか可乃子は知ってるもん……」
「そんなことないわ。私も薫が本当に怒るととても怖い事は知ってる。実はさっき薫に怒られたばかりなの」
「お姉ちゃん、お兄ちゃんに怒られたの!?」
身を縮めて樹里にしがみついている可乃子が驚いたように顔を上げた。
「えぇ、怒られたわ。私のお仕事に対する意識が低すぎるって……。薫は本当に怒ると怒鳴らなくなるからそれが余計に怖いのよね」
「うん、そう。お兄ちゃんはいつも怒鳴ってばかりだから、お兄ちゃんが物静かな声で話し出すと本当に怖い……」
その時の薫を思い出したのか、可乃子はまた身を震わせる。
樹里は優しくその小さな背を撫でてやったが、なぜ可乃子がここまで本気でキレた薫に脅えるのかが理解しきれなかった。自分が知る限り、可乃子が本気でキレた薫に叱られているところなど一度も見たことがなかったせいだ。
昔、蕪利から逃げ出してきた自分がこの家に転がり込んだ時、可乃子は夜中に突然脅え、泣き出す事は確かにあった。
しかしそれは事故や病気で亡くなってしまった両親に加え、たった一人の肉親である薫もやがて自分の側から消えてしまうかもしれないという恐怖が引き起こす悪夢に脅えたせいだ。決して粗暴な兄を恐れていたからではない。
「……お姉ちゃん、可乃子ね、お兄ちゃんが殴り合いの喧嘩しているところを見たことがあるの」
「エッ!?」
突然、自分の知らない過激な事実を知らされ、驚いた樹里の声が1オクターブ上がる。
「どうして私に黙っていたの!?」
「ううん、最近じゃないよ。まだお兄ちゃんが高校生だった頃だよ」
「なんだ昔の話なの……。ビックリしたわ」
「あのね、その時お兄ちゃんは一人で、相手は大勢だったの。それで相手の人たちはすごい大声を張り上げてお兄ちゃんに次々に殴りかかるのに、お兄ちゃんは違ったんだ。相手の人たちを無言でどんどん殴り返して、だけど相手は大勢だからお兄ちゃんもいっぱい殴られて、頭とか顔とかから真っ赤な血がたくさん出て……。でもそれでもお兄ちゃんは最後まで一度も怒鳴らなかった。いつもは誰にでもすぐに怒鳴ってばかりなのに、一度も怒鳴らないでずっと無言で顔じゅう血だらけになりながらいつまでも相手の人たちを殴り続けてた。可乃子、あの時のお兄ちゃんを見て、ものすごく怖いって思ったの」
「だ、だけどそれは昔の話でしょ? その時の薫と今の薫は違うわ。だからそんなに怖がらないで」
「でも今のお兄ちゃん、あの時とお兄ちゃんと同じ顔してるよ」
目を伏せた可乃子がポツリと口にしたその事実に、樹里は自分の肌の表面全てが一気に粟立ったのを感じた。
学生時代、素行の悪い薫が日々喧嘩に明け暮れていた事。
それは可乃子が時々話してくれる思い出話である程度は知っていた。
しかし実際にその時代の薫を見たことがない樹里にとって、それはどことなく現実味が感じられない話でもあった。
確かに自分の夫は口も相当に悪いし、目つきも良くなく、そして異常なまでに気短な性格だ。
だが些細なことで毎日のように怒鳴りつけられてはいるが、手を上げられたことなど今までただの一度もない。だからこそ、先ほど専属型式の自覚が足りないと本気で叱られた時に感じた恐怖も極わずかなものだったのだ。
しかし今の薫は違う。
サクラを元に戻すことが出来なければ暴力も辞さないと言い切ったその形相は、昔、喧嘩に明け暮れてばかりいたどうしようもなかった頃の時と同じだったと可乃子が証言したのだから。
身体がかすかに震えている。
しかしすがるべき相手が側にいない樹里は、胸の前で自分の両手をぎゅっと握りしめることしかできない。
「樹里お姉ちゃん、昔、家出してきたお姉ちゃんがここから蕪利に無理やり連れ戻されちゃったことがあったでしょ?」
頭の中で薫の事を考えていた樹里は義妹の声で現実に引き戻された。
「え、えぇ……。それがどうかした?」
「お兄ちゃんに本気で怒られたこと、可乃子も一度だけあるんだ」
「エッ!? 可乃子もあるの!?」
「うん……。お姉ちゃんが連れさらわれちゃった後、可乃子、どうしてもお姉ちゃんに会いたくて、友達と遊ぶってウソついてこっそり蕪利に行って、でもそれがお兄ちゃんにばれちゃって……。あの時のお兄ちゃんもすごく怖い顔してたけど、でもその時よりも今のお兄ちゃんの顔の方がずっとずっと怖い。だからきっとお兄ちゃんは昔のお兄ちゃんみたいに漸次おじさんに暴力をふるっちゃうよ。サクラも死んじゃったし、どうしようお姉ちゃん……」
そう一気に喋った可乃子の身体が、サクラを失った悲しみと兄への恐怖でまた震えだした。そんな義妹の姿に、自分が思っている以上のレベルで危険な事態が発生している事を樹里は知る。
「可乃子、あなたは薫に言われた通りにもう部屋に入った方がいいわ」
「うん、怖いからそうする……。でも可乃子、昔みたいにケンカばかりしていた乱暴なお兄ちゃんに戻ってほしくない……」
「大丈夫よ可乃子。私が薫を止めるから。さ、後は私にまかせておやすみなさい」
「うんお願いお姉ちゃん……。おやすみなさい……」
小さな肩を落とし、可乃子が自分の部屋へと入ってゆく。
それを見届けた後で樹里は廊下を小走りで進んだ。
―― 私であの人を止めることができるのかしら
樹里はサクラを連れだした薫を追う。
しかし身体は前に向かって進んでいるのにその思考は完全に後ろ向きになっていた。
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サクラを抱え、外へと向かっていた薫は一旦菩庵寿内へと入る。
照明も点けず、薄暗い店内の中ですぐにGoldfinger-Xを起動させ、再び漸次を呼び出した。そしてうんざり顔の標的が台面のディスプレイに現れた瞬間に要件を端的に告げる。
「おうオッサン、今からそっちに行くぜ。首を洗って待ってろや」
「あぁん!?」
なんだまたお前か、どんだけ俺が好きなんだよ、と軽口を叩こうとした漸次は茶化すのを止める。モニターに収まり切れていない薫の殺気に気付いたせいだ。
「おいおいルーキー、こんな夜更けにものすげぇ顔で随分と物騒な物言いだな! 一体何があった?」
「何があったじゃねぇよ。……これを見ろや」
抱えていたサクラが漸次によく見えるよう、薫が立ち位置を変える。そしてモニターに向かって動かなくなったサクラを突き出した。
すでに活動を停止しているサクラだが、艶々とした濡れたような黒髪はまるでそこだけが今も生きているかのように大きく波打つ。
「サクラじゃねぇか!! ぐったりしてるみたいだがどうした!?」
「……動かなくなっちまったんだよ。あんたのせいでサクラが死んじまっただろうが。へっ、何がちょっとしたテストだよ。冥土に行く覚悟はできてんだろうなオッサン」
「おい待てよ! 落ち着けってルーキー!!」
「落ちつけだと……?」
薫の鋭い双眸に、肉眼では捉えることのできない蒼白い憤怒の炎が立ち上る。
「……俺のサクラをこんな目に遭わせやがって落ち着けるわけねぇだろうが。今からこいつ連れてそっちに行く。何があってもこいつを生き返らせてもらうぞ。門 衛にはあんたの名を言うから絶対に起きてろよ」
「わっ、分かった分かった!! だがその前にそうなった原因だけは先に教えといてくれ!!」
「んなまだるっこしいことしてられっかよ。ぐずぐずしていてこいつに何かあったらどうすんだ」
「そう言うなルーキー!! 俺の話を聞いてくれって!!」
「そっちでじっくり話してやるよ。とにかくオッサンはそこを動かないでいりゃあいい」
「おいルーキー!! 待てって!!」
普段の薫ならここでいつもの癖である忌々しげな舌打ちの一つも吐き捨てているだろう。
しかしそのような不遜な態度は一切取らず、薫はただ無言で愛機の前から踵を返した。すると色の薄い影法師のように儚げな様子で戸口で佇んでいる樹里と鉢合わせをする。
「薫……」
「言っとくがお前が止めても行くぜ」
薫の牽制に樹里の瞳が悲しげに曇る。
一度本気で決めたことは何があっても変えない薫の性格を誰よりも分かっている樹里はそれ以上何も言えず、静かに道を開けた。
「行って薫。私が漸次さんに話しておく。だからあなたは早くサクラを」
「おう」
サクラを抱えた薫が店内から出て行こうとしたその時、送り出そうとしていたはずの樹里が急に薫の腕をしっかりと掴んだ。
行って、と自分を促していながら真逆の行動を取ってきた樹里に薫は厳しい視線を向ける。
「……何の真似だ」
すぐ間近で薫に睨まれ、樹里は先ほどの可乃子と同じように息を呑んだ。
薫の目つきが良くないことは知っている。
しかしこんな目で睨まれたことなどない。
こんな目つきになったところなど見たことがない。
結婚してまだ月日は浅いが、その前から知りあっていた期間を合わせると決して短くはない付き合いのはずなのに、目の前にいる夫の顔は樹里が初めて見る顔だった。
それは脅えてしまっているせいなのか、
それとも店内のこの弱い照明がほのかに赤みを帯びているせいなのか、
あるいは先ほどの可乃子の話がまだ頭の中にこびりついているからなのか。
今の樹里の目には、凄まじい形相で自分を見下ろしている薫の顔がまるで真っ赤な鮮血に染まっているかのように見えた。
「あ……」
自らが生み出した錯覚に思わず後ずさりかける。
きっとこれが自分が知らなかった昔の薫なのだ。
可乃子が言っていたように、この形相で日々喧嘩に明け暮れていたのだろう。
無言でひたすらに相手を殴り、怪我を負わせ、そして自分もそれ以上に血みどろになっていたのだろう。
「樹里、これは何の真似だ」
低い声が自分に向けてまた放たれる。
薫を掴んでいる十の指先が小さく震えていた。樹里は返事をすることもできず、脅えに侵食された身体でおどおどと深く俯く。
薫に伝えたい思いはこの胸の中にたくさんある。
なのに、どの思いを拾い上げても一つとして言葉に組み立てられそうにない。
しかし乱暴者だった兄に戻ってほしくないという可乃子の願いを託されているのだ。
だから例えうまく言葉にできなくても、心に溢れている薫への思いを何としても紡ぎ、人の道を踏み外そうとしている夫を止めなければならない。
行かせたくない、と思うあまりの咄嗟の行動ではあったが、こうして薫の腕を掴み、菩庵寿内に引き留めることが出来ているのだ。
だから指先は震えていてもこの手を放すわけにはいかない。全てを伝え終わるまでは。
樹里は脅えを呑みこみ、意を決したように口を開く。
「……薫、今のあなたの気持ちはすごくよく分かるわ。でももし最悪の事が起こっても漸次さんに乱暴するようなことだけは絶対に止めて……。サクラは、あなたを誰よりも尊敬していたわ。それなのに漸次さんから頂いてきたたくさんの御恩を仇で返すようなひどいことをしてしまったら、あなたはサクラのたった一人の専属操作主として、あなたをとても慕っていたこの娘に顔向けできるの……?」
「…………」
返事は無かった。
薫の背後にあるGoldfinger-Xの台面から急に強い光が発せられる。
その発光のせいで、自分を見下ろしている薫がどんな表情をしているのかが樹里にははっきりと分からない。その口元が真一文字に固く閉じられていることだけがおぼろげながら感じ取れるぐらいだ。
「これは私と約束しなくてもいい。でも私」
ここでぷつりと言葉が途切れた。
まだ最後まで言えていない。
だがまるで何かに口元を塞がれているかのように胸が詰まってこれ以上の言葉が出てこない。
サクラを抱え、結局何も答えずに薫が店内から出てゆく。
想いの全てを伝えきれなかった樹里はその後ろ姿を見送る事しかできなかった。
でも私はあなたを信じてる
樹里はそう自分に言い聞かせ、漸次と話をするためにGoldfinger-Xの側に静かに歩み寄って行った。




