【 15 】 勘違いすんな 俺だけの力じゃねぇんだよ
眩しい光が溢れる定休日の菩庵寿内に時折かすかに聞こえてきているのは、風呂場で楽しそうにはしゃいでいる可乃子とサクラの声。
しかしその一方で静まり返る店内は、照明の明るさすらも無理やりねじ伏せてしまいそうなほどの緊迫した空気が広がっていた。
「樹里、お前にだけ言っときてぇ話がある。怒んねぇで聞いてくれ」
真剣な夫の思わせぶりな前置きは、いつも自分たちを怒鳴っている声とは全く違っている。
薫に何を言われるのかがまったく予想できない樹里は返事をすることも忘れ、その華奢な身体を強張らせた。横柄な口調で薫が何を命令しても、まずはすぐに「えぇ」と柔らかな返事をする樹里の普段の姿からは考えられない反応だ。
薫は一つ大きく息を吐き、背後から強めに押さえ込んでいる腕の力を未だ緩めることなく、言いにくい本題をやや早口で切り出した。
「サクラにアンドロイドをくれてやろうと思っている」
樹里が驚きで息を飲んだ音が薫の耳に届いた。
妻が見せたその反応に、薫は素早く背後からの拘束を解くと、樹里の両肩をがっしりと掴んで細い身体を強制的に自分の方に向けさせる。
「……んな顔すんなよ」
樹里の顔を見下ろした薫が口を尖らせ、ボソリと呟く。
その言葉にいたたまれなくなったのか、樹里はそっと俯き、物憂げになってしまっているであろう自分の顔を夫の視界から隠そうとした。
しかし薫はそんな妻の頬を両手でグッと挟み、樹里の視線を強引に上げさせる。
「安心しろって。サクラにくれてやるアンドロイドは今繋いでいるあれじゃねぇよ」
「あれじゃない……?」
「おう。愛玩少女でもなんでもねぇ、ただのアンドロイドだ」
しかしその説明でもまだ言い足りなかったのか、「ごく普通の奴だ」とさらに表現を変え、薫が力強く言い切る。
「じゃあその普通の物を今の物の代わりに貰うってこと……?」
「いや違う。漸次さんに確認したんだけどよ、タダでくれんのはあくまでもあのアンドロイドみたいだ。だから俺が普通の奴をあいつに買ってやろうと思ってよ」
「……どうして?」
樹里の瞳は不安げに揺れている。
「今までアンドロイドがなくたってサクラは立派にあなたのサポートをしてきたじゃない。それなのにどうして急にそんなことを言い出すの?」
当然と言えば当然のその問いに、薫は拗ねたように下唇を突き出した。
「俺だって別にいらねぇよ。電脳巻尺のあいつで充分だ。だがサクラはアンドロイドが欲しいみてぇなんだよ」
「サクラが? でも今までそんなこと一度も言ったことがなかったのに……」
「それがよ、実は前々から密かに思ってたんだとよ。ああやって繋いでみたことがなかったからあいつの中ではただの願望だったようだが、今回ああして人型になってみてすげぇ楽しいらしいんだ」
「そうね……、可乃子の服を色々着せてもらっていた時もサクラはとても楽しそうだったわ」
「さっきお前に追い出されてあいつとこの近所をうろうろしてた時によ、お前や可乃子には今までちょいちょい何か買ってやってたが、サクラには何も物を買ってやったことがねぇことに気付いちまったんだ。だからあいつにも何か買ってやりてぇと思って何か欲しいもんはねぇか、って聞いたらよ、そしたらあいつ、あのアンドロイドが欲しいって言ったんだ」
「…………」
「だから んな顔すんなっての!!」
樹里の両頬を挟んでいる手に力をこめ、お互いの鼻先が触れ合いそうなぐらいにまでグイと顔を近づける。
「サクラだってちゃんと分かってたぜ? もし今の奴をもらえばお前が嫌な気持ちになるってことをな。だから言った後ですぐに撤回してたよ。だがな樹里、俺はあいつが初めて欲しがったモンをなんとしてもくれてやりてぇんだ。ただしあれじゃなくて普通の奴をな」
「でも薫……、オーソドックスな物でもアンドロイドってすごく高いはずよ……?」
「あぁそうみてぇだな。漸次さんに相場も聞いたよ。そしたらあのオッサン、なんでタダでもらえるあれを断ってわざわざバカ高い金出して別のアンドロイドを買うんだってしつこく聞いてくっから面倒で全部ぶっちゃけたらよ、そういう事情なら中古で俺でも買えそうな奴を探してやるって言ってくれたんだよ」
「そう……。それであなたはこれを見てたってことなのね……」
樹里が薫からGoldfinger-Xの台面へと静かに視線を移す。
「あ?」
樹里の言っている意味が分からなかった薫は、樹里の頬から手を外し、その目線の先を追う。
そして愛機のディスプレイに堂々と表示されているその個人情報を見てギョッと目を剥いた。
「うぉ!? お前が来る前に消したのになんでまた出てきてやがんだ!?」
慌てふためく薫の様子に、それまでずっと物憂げだった樹里の顔が初めて和らいだ。
片手を口に当ててクスリと笑うと、夫のその疑問を速やかに解消してみせる。
「薫、さっき私にバインドモデルの自覚が足りないって怒った時にこの機械を思いっきり叩いてたでしょ? きっとあれでここに再表示されちゃったんだと思うわ」
樹里のその推測がおそらく正しいと思った薫は、「お、おう、たぶんそれだな」とかなりバツが悪そうな顔で頭を掻いた。
「漸次さんが手を尽くして探してくれてもやっぱそれなりの額にはなるだろうからな。可乃子のこともあるし、買っちまっても大丈夫かこれを見て色々考えてた」
―― 先ほど一人きりの薄暗い店内で薫がじっと熱心に見ていたディスプレイに映し出されていたグリーンに光る数字の文字列。
アクシデントで今またくっきりと再表示されているその情報は、廻堂家の詳細な貯蓄額だったのだ。
「しかしマジでずいぶんと貯めたもんだな……。家の事は全部お前に任せてたからこんなモンを今までろくに見たことは無かったけどよ、まさかこんなにあるとは思わなかったぜ。お前の金の管理が上手いからだろうな」
あらためて台面に再表示された貯蓄情報に目をやり、自分が予想していたよりも遥かに多いその額に感心している薫に、「違うわ」と樹里が静かに首を振る。
「薫が毎日毎日必死にお仕事をしていたからよ。あなたがこうして毎日身を擦り切らせて働いてくれるから、そこまで貯めることができたのよ。私は何もしていないわ」
「謙遜すんなっつーの」
薫は口を尖らせ、痛みをあまり感じない程度の軽いデコピンを樹里の額にパシッと決める。
「俺は気の効かねぇ人間だがよ、お前がいつも自分の物よりも可乃子の物を優先して買ってんのは知ってんだよ。それにたまに俺が何か欲しいモンはねぇかって聞いてもいつもお前は何もいらねぇって毎度毎度判で押したように答えやがるじゃねぇか。だからお前が欲しがりそうなモンを可乃子に探らせてあいつに買わせたりしてんだかんな」
それを聞いた樹里が、薫に弾かれた額をさすりながら頬をわずかに上気させた。
「えぇ、薫が私に気を使ってそうしてくれているのは知ってたわ……。ありがたいし、とても嬉しいと思ってる」
「だからよ、勘違いすんな。俺が働いてるせいだけじゃねぇんだよ。そうやってお前が色んなモンを我慢してくれてっからここまで貯まったんだと俺は思う」
「薫……」
恥ずかしそうにはにかむ樹里を、薫は再び抱きしめる。
しかし今度は先ほどのような闇雲に力任せの抱擁ではない。自分の身体全体を使って樹里をすっぽりと覆いつくすような穏やかな抱擁だった。
そして不器用なりに必死に言葉を選び、今の自分の正直な気持ちを包み隠さずにこの美しい生涯の伴侶に伝える。
「樹里、俺はサクラにアンドロイドを買ってやりてぇ。だがもしお前の許可が出ねぇならアンドロイドは買わねぇよ。お前が駄目と言うのならお前の意見に従う。うちの金の管理をしているのはお前だ。うちにここまでの金が溜まってるのもお前のやり繰りのおかげなんだからな」
突然すべての決定権を渡された樹里はしばらく戸惑った後に小さく目を伏せ、薫の腕の中で言葉を詰まらせる。
「……ずるいわ薫……」
「あ? 何がずるいんだよ?」
「だってあなたにそう言われて私が買うのをダメって言ったら私が悪いみたいになるじゃない……」
樹里は悲しげにそう呟くと、いきなり押しつけられた責任から逃れるように薫の胸にそっと顔を埋めた。
そんな妻の鳶色の髪を薫はくしゃっと乱暴に撫で、その考え方をきっぱりと真っ向から否定する。
「そんなことねぇよ。なんでそれでお前が悪くなるんだよ。可乃子にもまだまだ金がかかるだろうし、お前の判断でそう決めたのならそれが正しいんだっつーの。俺は俺の勝手でサクラのために買ってやりてぇ、そう思ってるだけだからな。ただよ、もしお前が許してくれんなら、お前に金の心配をさせないようにこの先もガンガン働くからよ」
「……薫のバカ。あなた全然分かってない」
薫のTシャツの左胸辺りを樹里がギュッと強く握りしめる。
「ただでさえ薫はいつもいつもお仕事ばかりで私はすごく心配してるのに……。家の貯金が減った分、またさらに仕事量を増やすつもりなら私はアンドロイドを買うことを認めないわ。あなたの身体が心配だもの」
「あのよ、前から言おう言おうと思ってたが、お前は心配しすぎなんだよ。俺はんなヤワじゃねぇっての。普段から風邪一つ引いてねぇだろ?」
「今までもそうだからってこれからもそうだとは限らないじゃないっ……!」
埋めていた顔を上げ、樹里はますます薫のTシャツを強く掴む。
「ねぇ、ちゃんと考えて薫。もし薫に何かあったら私だけじゃなく、可乃子だって取り残されちゃうのよ? 薫が私たちのことを考えて毎日一生懸命働いてくれているのは、本当に、本当にありがたいと思ってるわ。でも、お願いだからこれ以上無理はしないで。そんなに擦り切れるまで必死にならなくても、今の暮らしなら充分に維持していけるんだから……」
樹里が強く掴んでいるため、Tシャツの左側前身ごろは右に比べて少し伸び始めてしまっている。
しかし薫は樹里の引っ張るままにさせ、このTシャツが完全に伸びてしまう道を選んだ。
―― こいつがこれだけ俺の身体を心配するのはおそらく親を亡くしちまっているからなんだろうな
頑なすぎるほどの樹里の態度に、薫はふとそんなことを考えた。
自分もそうだが樹里も両親を事故で亡くしている。
失われた家族はどんな大金を積み上げても二度と取り戻せない。
その事を誰よりも分かっているからこそ、樹里は再び家族を失う事が怖くて仕方ないのだろう。
「いっくよぉーサクラッ!! そぉーれっ!!」
「わわわわぁっ!? やりましたね可乃子様ぁーっ!! よぉぉーし!! じゃあサクラもお返ししちゃいまぁーすっっ!! ここは全力でリベンジタイムですよぉーっ!!」
黙りこくる二人の耳に、風呂場でサクラと可乃子がはしゃいでいる声が届く。
本当に楽しそうな少女たちの声を聞いていた樹里は強く握っていたTシャツを静かに放し、
「サクラには買ってあげて。アンドロイド」
と唐突に購入の許可を出した。
「いいのか!?」
「えぇ。一応漸次さんが探してきてくれるお値段を聞いてみてからだけど。でもうちの貯金がほとんど無くなってしまうような高額じゃなければサクラに買ってあげましょう」
「あ、あぁ分かった。お前の言う通りにするぜ」
「でも二つ約束して。今のアンドロイドはもらわないこと、そしてこれ以上無茶な働き方はしないこと。いい?」
「約束っつーのは苦手だけどしゃーねーな」
薫は自分の鶏冠頭をガリガリと掻くと渋々それを了承し、樹里の耳元で「あんがとな樹里」と素直に礼を言った。
普段は感謝の言葉など絶対に口にしない夫からありがとうと言われ、胸の奥に湧いた温かくて小さな幸せが樹里を突き動かす。その衝動に身を任せて勢いよく薫に抱きつくと、すぐに抱きしめ返された感触がした。
―― それから約四十分後。
風呂から上がった可乃子がパジャマ姿で「お兄ちゃーん、お姉ちゃーん、お風呂空いたよー」と知らせに来る。しかし菩庵寿内をひょいと覗いた途端、顔を真っ赤にさせてその場から逃げだした。
「可乃子様、Myマスターと樹里様のお仕事は終わっておりましたかぁー?」
脱衣所で髪を乾かしていたサクラが走って戻ってきた可乃子に無邪気に尋ねる。
「あら? 可乃子様、なんだかお顔が赤いですね。もしかしてサクラとお風呂で遊びすぎて湯あたりしてしまわれましたか? お水持ってきましょうか?」
「…………いい」
放心したような顔でへなへなと床に座り込んだ可乃子にサクラが駆け寄る。
「可乃子様っ!? どうなされたのですか!?」
心配でパニックになりかけているサクラを可乃子は赤面した顔でじぃっと凝視すると、
「サクラぁ……、お兄ちゃん達ってばお店の中で大胆すぎだよぅ……!」
とうるうるとした瞳で呟いたのだった。




