【 14 】 待てや 話はまだ終わってねぇぞ
貞淑な専属型式はあらためてこのユニフォームに視線を落とす。
すると何度見てもやはり視界に入ってくるのは小さな己の突起物。
恥ずかしいという気持ちがさらにどんどんと膨らんできて「いいユニフォームね」とはどうしても言いだせそうにない。
できることならこのままフィッティングルームに駆け込んでこのユニフォームを脱いでしまいたい気持ちが湧きあがってくる。
しかし樹里はその気持ちを懸命に押さえつけた。
今の自分は二年前に結婚したこの廻堂 薫の年上妻という立場ではなく、孤高の若きブラ職人、【 女性下着請負人、廻堂 薫 】のバインドモデルなのだということを自覚したゆえの行動だ。
―― 薫の言う通り 自分がやるべき仕事をきちんとしなくっちゃ
だって私はこの人のバインドモデルなんだから
呪文のように自分にそう言い聞かせると、心の芯が真っ直ぐに上を向いた。
薫に視線を合わせ、出来るだけ艶っぽい笑顔を浮かべる努力をしてみる。
その妖艶な表情のまま、右腕を太ももの前に配置し、左腕は軽く曲げてその手を腰に。
そして張りのあるヒップを後方に突き出し、バインドモデルがカタログ等でよく披露しているやや挑発的な決めポーズを取ってみせる。
「……と、とってもいいユニフォーム、だと思うわ」
多少つっかえながらも何とか言えた。
Dカップの美しくも柔らかい膨らみが、大胆な前傾姿勢にしたせいで小さく揺れている。
しかし樹里が恥ずかしさをこらえながらも一生懸命自分の仕事を全うしようとしているにもかかわらず、その精一杯の健気さなどまったく気にも留めていないようなナチュラルな態度で薫は「おう」とぶっきらぼうに答えると、また新たな命令を出してきた。
「見た感じは問題なさそうだが一応チェックしとかねーとな。適合具合を見るから後ろ向けや」
樹里に背中を向けさせ、薫はそのすぐ後ろに立つ。
そして樹里の耳元で、
「いつも言ってるがフラフラ動くんじゃねーぞ?」
と命令し、背後から覆い被さるような姿勢で身に着けているハーフトップがバストラインに完全適合しているかを確認し始めた。
しかしいつもならこれは比較的短時間で終わる作業なのに、今日の薫はなかなか樹里の背後から動かない。
「どうしたの薫、いつまでも触って……。何かヘン?」
普段は違う薫の様子に何かあったのかと不安になった樹里が、「動くな」という命令を忘れて振り返ってしまう。しかし薫は自分の命令に背いて動いてしまった樹里を叱らなかった。
「あ? いや、そういうわけじゃないんだけどよ……」
樹里のバストから両手を外し、眉根を寄せた不可解そうな面持ちで薫はしばらく考え込んでいたが、
「悪ィ、もう一度ちゃんと立ってみてくれ」
と注文を出し直した。
雇い主のリクエスト通りに樹里はすぐに前を向き、再度真っ直ぐな姿勢を取る。
すかさず薫の大きな手が樹里のバストを下から持ち上げるようにもう一度覆った。
しばらくの間薫は何度か手の位置を変えていたが、やがて熱心にハンド採寸していたその手を止め、
「お前、胸大きくなってねぇか?」
と言い出した。
何度も胸を触られる度につい条件反射で身体が動きそうになるのを必死にこらえていた樹里は「嘘!?」と驚いた声を上げる。
「俺の気のせいかもしんねぇけどよ、なんかいつもと違うような気がすんだよなぁ」
「自分では何も感じないけど……」
樹里本人も自覚がないことを知った薫は「特に太ったようにも見えねぇしなぁ」とまだ納得がいかない様子だ。
「そういや前回の定期採寸からそろそろ三ヶ月経つよな?」
「えぇ」
「ならちょうどいい。サクラが風呂から上がったらあいつとお前のサイズを測るぞ。いいな?」
「うん、分かったわ」
「だがお前らはいつも長風呂だからなぁ……。しかもあいつら風呂ん中で遊んでそうだからまだまだ出てこねぇんじゃないか? まったくムカつくぜ」
不機嫌そうに薫は愚痴ったが、なぜか急にニヤリと片方の口角を上げ、意味ありげな顔で樹里を見る。
そして明らかに樹里を小馬鹿にしたようなトーンで、デリカシーの欠片も感じられない台詞を言い放った。
「しっかし お前いい年のくせしてまだ乳の成長期が続いてんのかよ? 大したもんだな」
「なっ…」
自分の年齢とバストのことを夫にからかわれた樹里は途端にカッと顔を赤らめる。
「そっそんな言い方ないじゃないっ。私はまだ二十四よっ?」
「ヘッ、年末には二十五になっちまうじゃねぇか。充分いい年だろ」
―― 通常、一般的な常識として世の女性に年齢と体重の話を振るのは非常に危険な行為だ。自ら地雷を踏みに行く行為と言っても過言ではない。
だがこの暗黙の社会ルールを遵守する気の無い薫は、己のS気質を最大限に発揮してまだ樹里をからかい続ける。
「あーあ羨ましいぜ! なんせ俺なんかまだ二年もあるからなぁ。俺も早くそこまで年を取りてぇもんだよ」
「なっなによっ、薫のイジワルッ!!」
年上妻のプライドを傷つけられた樹里が薫にパッと駆け寄る。
自分に突進してきた樹里の細い両肩を薫は笑いながら受け止めたが、剥き出しの柔肌に触れた瞬間に「ん?」と再び怪訝そうな顔になった。
「おい、お前もしかして熱あるんじゃねぇか? 額見せてみろや」
薫は自分の手のひらで樹里の形のいい額を覆う。
樹里の体温は低めなのでいつも肌に触るとひんやりしていることが多いのだが、当てている手のひらからは、熱い、とまではいかないがほんのりとした温かさが伝わってきた。
「いつもより熱いぞ。やっぱ熱がありそうだな。可乃子も言ってたが、お前夏風邪引いたんじゃねぇか? 今日も昼飯あまり食ってなかったろ。早くそれ脱いで今日はもう寝ろ。風邪を引いちまったんならとっとと寝るのが一番だ」
「えぇ。でも薫も今日こそは絶対に早く寝てね? あなただって最近疲れた顔してるわ。今だって目の下に少しクマができてるもの。だから今日はもうお仕事はしないでね」
今夜はもう仕事をしないでと樹里が懇願する。
しかしそう言われた薫は苦渋の顔で樹里から顔を反らした。そして妻のその希望を聞き入れる気がないことを早口で告げる。
「急ぎで仕上げないといけねぇ奴があるんだよ。今夜中にそれを済ませてぇから今日も寝るのは遅くなる」
「…………」
「だからお前は先に寝てろ。いいな?」
「……なによっ、至急、至急って……! 薫はいつもそうじゃない!」
どこまでも自分勝手な薫に、いつもは従順な妻が悲しげに叫んだ。
「いつもそう言って夜遅くまで無理をし続けてるじゃない! どうして分からないの!? そのお客様のために無理をしてもし身体を壊しちゃったら、その方だけじゃなく、結局はもっとたくさんのお客様にご迷惑をかけることになるのよ!? お願いだから今日は早く寝て! たまには私の言うことを聞いてくれてもいいじゃないっ!」
声を張り上げそう訴える樹里の目には涙が滲んでいる。
薫はそんな必死な妻の様子を横目で一瞬だけ見たが、それでも己の意思を曲げることはしない。
「今日は駄目だ。迅速生産で仕上げなきゃなんねー奴なんだよ。だから先に寝ててくれ」
「……」
こんなに頼んでいるのに折れてくれようとはしない夫に樹里は再び消沈した。
そしてとても悲しそうな顔で足元に視線を落とし、
「……それはどうしても今夜中に作らなきゃ本当に駄目なブラなの……?」
と喉の奥から今にも消えそうな声を振り絞る。
「あぁそうだ」
「……でもそのブラは明日が納期じゃないんでしょう……?」
―― 樹里の推察通り、確かにそのブラは明日が納期の物ではなかった。
ここで「そうだ」と肯定するのは簡単だ。しかしこのブラだけはどうしても今日中に作りたい。
だからこそ、薫は馬鹿正直に言いかけたその正答を強引に喉の奥に押し戻す。
「どうしても作らなきゃならねぇ。そいつのためにどうしても今夜中に作ってやりてぇんだよ」
これでも薫なりに樹里に配慮したつもりの返答だった。
素直な樹里が自分に逆らってまで頑なに自分の意見を押し通そうとしているのは、自分の身体をとても心配しているからだということぐらい、女の気持ちを理解するのが苦手な薫でもさすがに分かる。
だが薫の返答を聞いた樹里はしばらく黙りこんだ。
そして、
「でもやっぱりそのブラは明日が納期じゃないのね……」
と全てを見抜いたかすれた小声で呟き、身を翻して家の中に駆け込んでいこうとする。
しかし樹里の性格から妻がその行動を取ることをあらかじめ見抜いていた薫は、素早くその身体を後ろから抑え込んだ。
「待てや! 話はまだ終わってねぇぞ!?」
「知らないっ! 聞きたくないわ! 放して!」
「いいから最後まで聞けよ! 明日は早く寝る! 絶対に早く寝る! なんなら可乃子より早く寝てやんよ!」
「…………」
「絶対マジだって!! 約束すっからよ!!」
「……ホントね?」
薫から顔を背けている樹里の声はまだかすかに震えている。
「それは明日一日だけ、ってことじゃないわよね……?」
「当たり前だ! 明日からはちゃんと早く寝る! 男に二言はねぇよ! 俺が一度口にした約束は破らねぇことはお前が一番よく知ってんだろうが!!」
亡き父との男同士の鉄の掟を今も守っている薫は語尾に力を入れてそう宣言し、樹里の身体をさらに強く抱えこんだ。
「薫、そんなに強くされたら痛いわ」
痛みを感じた樹里は身をよじってそう訴える。
しかし抱きしめられている腕の強さはほとんど変わらなかった。
抱擁する、というよりはまるで羽交い絞めに近いような形で薫は樹里を腕の中に捕え続ける。
樹里が何度「痛いわ」と言い続けても。
「樹里」
突然、薫は妻の名を呼んだ。
そして抱え込んでいる樹里の細い首筋に深く顔を埋め、くぐもった声で、
「お前にだけ言っときてぇ話がある。怒んねぇで聞いてくれ」
と白い柔肌越しに重要な要件を切り出した。