【 13 】 つべこべ言わずにさっさと着やがれ
樹里に知られぬよう、愛機、Goldfinger-X に表示されていたデータを消去した直後、薄暗い菩庵寿内の空気が一気に華やぐ。
息を切らせた樹里が急いで店内に入ってきたためだ。
「お待たせ、薫っ」
「遅せぇよ。何チンタラしてやがんだ。俺は三十分したら来いって言っただろ?」
作業台のディスプレイ上に表示されている現在の時刻にジロリと視線を走らせ、薫が文句をつけ始める。
遅れたといってもわずか数分足らずの時間ではあったが、薫の気短さをよく知っている樹里は決して逆らわない。
「ごめんなさい。可乃子がお風呂に入る準備を手伝ってあげてたの」
「風呂に入る準備だぁ!?」
樹里が遅れてきた理由を知った薫は険しい顔で眉間に深い皺を寄せる。
「年端のいかねぇガキじゃあるまいし、お前がいちいち手を貸してやらなくてもそれぐらい可乃子で準備できんだろうが! 過保護にもほどがあんぞ!」
自分の事は完全に棚に上げての更なる文句に、かなりの小声ではあったが樹里の口からつい反論の言葉が出る。
「私なんかより薫の方がよっぽど過保護だと思うけど……」
「あ? なんか言ったか?」
「ううん、なんでもないわっ。サクラも一緒に入るっていうから今日だけ手伝ったのよ」
「何っ!? ってことはマジであいつら一緒に風呂に入んのかよ!? 」
「えぇ。二人ともとても楽しそうだったわ」
「チッ、可乃子の奴、完全にサクラで遊んでやがんな!! あいつらが風呂から上がったらもう一度説教してやる!!」
「そんなひどいことしないで薫。可乃子は妹ができたみたいで嬉しいのよ。それにああしていられるのも一週間だけなんだから可乃子がサクラをたくさん構っても今だけは大目にみてあげて。ね?」
「……」
薫は低く唸ると口を閉じた。
しかしそれは樹里に優しく諭されたことが己の心に響いたからではない。
“ 一週間だけ ”。
薫の憤りのテンションを強制的に下げさせたのはその言葉が原因だった。
来週にはアンドロイドがこの家から消え失せると信じている樹里。
そんな妻の何気ない言葉が、中古とはいえ、これから大枚をはたいて別のアンドロイドを手に入れようとしている薫の中で鉛のように重くとどまる。
そんな薫の胸の内を知らない樹里が明るい顔で話題を変えた。
「ねぇ薫、私はどれを着たらいいの? 早く済ませてしまいましょう」
「なんだよ、遅れてきやがったくせに急かしやがって。観たいTVでもあんのか?」
「ううん、そうじゃないわ。だって薫は明日からまたお店があるのよ? だから今日は早く寝てほしいの。だってここしばらくずっと遅くまでお店でブラを作っているじゃない。薫は働き過ぎよ。私、そのことは何度もあなたに言ってるじゃない。なのに薫はいつも “ 分かった分かった ” って言うだけで結局は私の言うことなんて全然聞いてくれないし」
このまま樹里に会話の主導権を渡しているとまた耳の痛い話に移っていきそうな気配を感じ取った薫は、この都合の悪い流れを断ち切るためにアクアブルーのユニフォームを樹里の鼻先に乱暴に突き出した。
「仕事溜まってんだからしゃーねぇだろ。おら、これだ。さっさと着ろや」
「もう、またそうやってすぐに話を逸らして……」
自分の意見に耳を貸そうとしない薫を樹里は悲しそうに見上げ、落胆した様子でチアリーダーのユニフォームを受け取った。そして命令された通り、すぐ側にあるフィッティングルームへと足を向ける。
「おい樹里、どこに行くんだよ」
「えっどこって……、だってこれに着替えなきゃいけないでしょ?」
ユニフォームを手にし、きょとんとした顔で振り返る樹里。
そんな妻に夫は唖然とするような事を命令する。
「いいからここで着替えろや」
「ここで……って、まさか薫の前でってこと!?」
「おう」
「いっ、いやよっ!!」
「あぁ? 何でだよ。まさか恥ずかしいとかフザけたこと言いだすつもりじゃねぇだろうな?」
「恥ずかしいに決まってるわ!! どうして着替えるところを薫に見られなきゃいけないの!? もしかしてこれもさっきのお仕置きの続きってことなの!?」
この場での着替えを全力で拒否する樹里に、血の気の多い若き下着職人は苛々とした様子で舌打ちをすると鶏冠頭をガリガリと掻いた。そしてその苛立ちの矛先をGoldfinger-Xの台面に向け、掌で乱暴に叩く。
台面から放たれた荒々しい音が店内に鳴り響く中、薫は樹里を怒鳴りつけた。
「このドアホ!! 何お前一人で意識しまくってんだ!! 今は仕事中みてぇなもんだぞ!? この俺がんな公私混同をするわけねーだろうが!!」
「じゃあどうしてここで着替えなきゃいけないの!? 理由を言って!!」
「そのユニフォームの依頼条件の一つに短時間で素早く着られることっつーのが入ってんだよ!! だからお前が着るところを見てそれを判断するんだろうが!!」
「そっそんなこと言われたって……!」
正規の理由はきちんと存在したものの、夫の目の前で着替えたくない樹里はほんの少しだけ甘えた声で薫の出方を窺う。
「どうしてもあなたの前で着替えなきゃダメ?」
その瞬間、薫の目つきが研ぎ澄まされた刃のように一気に鋭くなった。
「……おい樹里」
いつもの怒鳴り声とはまったく違う、苛立ちを極限にまで凝縮させた低い声で呼ばれたことを感じ取り、怯えた樹里がビクリと背筋を伸ばす。
そんな樹里を薫はギロリと睨みつけ、その目前に人差し指を突き出した。
「お前、自分がなんなのか本当に分かってんのか? お前は俺の専属型式なんだぞ? それしき程度のことで恥ずかしがってどうすんだ。何年俺のバインドモデルをやってんだっつーの。ったく、一体いつになったらお前はバインドモデルの自覚ができるんだよ?」
―― 薫は非常に気短な性格で少しでも気に入らないことがあればすぐに大声で怒鳴り散らす人間だ。
だが本心から怒っている時は決して声を荒げない。
凄まじい威圧感を滲ませた地を這うような低い声で、自分が憤っている理由をただ淡々と喋るだけだ。
そんな薫の妻になって二年、夫のその性格をよく分かっている樹里は以前にも同じ件で叱られたこともあり、しゅんとした様子で立ち尽くす。
しかしドスの効いた叱責はまだ終わらない。
「だからそうやってしょぼくれる前にやることはやれよ。それに俺の女房のくせに何いまさら恥ずかしがってんだ。お前の裸なんて毎日見てっからとっくに見飽きてるっつーの。いつまでも恥ずかしがってねぇでいいからさっさと着てみろよ。可乃子とサクラが今風呂に入ってんならあいつらがここに来ることもねぇし、お前がそこで脱いでも何も問題ないだろうが」
容赦のないように見える薫の叱責だったが、ここで樹里の表情が変わる。
顔を上げたその表情には強い決意が浮かんでいた。
手にしていたユニフォームをしっかりと握りしめ、はっきりとした声と凛とした表情で力強く頷く。
「ごめんなさい薫。私が間違ってたわ。ここで着ればいいのね?」
「おう。出来るだけ手早く着るように意識してみてくれや」
薫はそう指示を出すと、Goldfinger-Xを使って菩庵寿内の照明を一気に強くする。
途端に店内は一瞬で眩い明るさの中に包まれた。
まるで真っ白い洪水の波しぶきが高いところから一気になだれこんできたかのような明るさに、樹里は目を細める。この光輝く白色ライトの下では何一つ隠すことなど出来なさそうだ。
「薫、そんなに明かりを強くしなくても……」
「あぁ? 何言ってんだ。暗いとよく分かんねぇだろうが。つべこべ言ってねぇで早くしろ」
「は、はい……」
夫の望む理想の専属型式になろうと思ったばかりなのに、またプロ意識に欠けたことを口にしてしまった樹里はその事を恥じながら小さく頷いた。
一度深呼吸して心に平静さを取り戻し、身に着けている一番外側の服、青エプロンから取り外す。
そして着ていた服を全て脱いでゆき、美しいボディラインを店内に曝け出しながらアクアブルーに濃紺のラインが入ったチアリーダーのユニフォームをまとい出し始めた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
―― 着替えが終わった。
着衣に時間がかからなかったのは、手早く着ろという薫の命令だけではなく、煌々とライトの点った店内であられもない自分の無防備な姿を目の前で見ている夫にできるだけ晒したくないというしとやかな気持ちも働いたせいだろう。
しかし裸の状態から素早くこの衣服を身につけ、本来であればホッとしているところだが、また新たな驚愕の事実がこの貞淑なバインドモデルを襲っていた。
「かっ、薫、このユニフォーム……?」
樹里はあたふたとしながら両手で胸の辺りを覆い隠す。
身に付けたユニフォームはセパレートタイプになっており、上下に分離している。
上はハーフトップ、下はミニのプリーツスカートだ。
下のスカートは特に問題ない。
少々丈が短すぎるような気もするがチアリーダーのユニフォームということを考えればこの短さも充分に適正範囲に入る。
問題は上のハーフトップだった。
中にカップは縫製されているがそれがあまりにも薄すぎるのである。
ユニフォームの生地自体もかなり薄めでしかも伸縮タイプの素材で作られているせいで肌にピッタリとフィットする。そのせいでこれを着用すると胸の形が先端までくっきりと露わになってしまっているのだ。
こんなユニフォームじゃ人前に出られないから作り直さなきゃダメよ、と樹里が言おうとした時、作業台に腰をかけて樹里を見ていた薫が気軽な口調で言った。
「へぇ、お前なかなか似合うじゃん」
「えっ」
途端に桜の花をいっぺんに舞い散らせたかのように樹里の顔一面がパァッと桃色に染まる。
「ほ、ほんと……っ!?」
「あぁ、悪くないぜ」
普段の目つきの悪さを若干和らげ、少年のような無邪気な顔で薫が笑う。
そんな薫から二度目の賛辞を受けた樹里の顔が喜びでますます朱に染まった。
薫にしてみれば特に深い意味もなく、ただ何気なく思ったことを口にしただけだ。
だが今まで薫の専属型式として夫が作った様々なブラを身に着けて見せてきたものの、似合うなどと言われたことがほとんどなかった樹里にしてみれば、今の褒め言葉はまさに驚天動地、といっても差し支えないほどの衝撃だった。
似合っていると褒められ、喜びで胸を高鳴らせている樹里に、「どうだ、着心地は?」と薫が尋ねる。
今は仕事中だということを思い出した樹里は再び表情を引き締めた。
褒められたこの嬉しさは一旦脇に置き、バインドモデルとして感じた事は自分の雇い主であるマスター・ファンデに伝えなければならない。
それが自分の為すべき仕事なのだから。
「このユニフォームはダメよっ」
自分の胸元をしっかりと手で覆い隠し、きっぱりとNGを出す。
「あ? なんでダメなんだよ。デザインが気に入らねぇのか?」
「デザインじゃないわ。だって、ほ、ほら…」
樹里は恥ずかしさで顔を赤らめながらも、胸を隠していた両手をおずおずと外してみせる。
「ニ、ニプレスがここまではっきり見えちゃってるもの、こんなユニフォームじゃ人前で応援できないわ。もっとカップを厚いものにしなくっちゃダメよ薫」
それを聞いた薫は呆気に取られたような顔をしたが、すぐに大口を開けてゲラゲラと笑いだした。
そして愉快そうにクックッと両肩を上下に揺らしながら「いいんだよ、人前で応援なんかしねぇんだから」と言い放つ。
「どっ、どういうこと?」
「……別に説明してやってもいいけどよ、これは仕事で請けてるってことを忘れんなよ。いいな?」
笑うのを止め、真剣な表情に戻った薫はそう念を押す。そして樹里が「えぇ」と承諾したのを確認してから今回請け負った仕事内容を話し出した。
「女が男にサービスするような店から頼まれてんだよ。そこで働く女たちの衣装の一つってことだ。客の前で生着替えもすっから手早く着られることっつー条件と、胸を強調させるために上のハーフトップは生地もカップもできるだけ薄く作ってくれって依頼なんだよ」
薫が依頼主とこのユニフォームの使い道をかなりぼかして話したのは、いくら樹里が自分専属のモデルとはいえ、顧客の情報を第三者に開示してはいけないという女性下着縫製協会の規約を守っているからだ。
ざっくりとした説明を受けた樹里はもう一度目線を胸元に落とす。
ワイヤーを使わずに伸縮素材だけでバストをうまくホールドしているせいでバージスラインの締め付けも感じなく、汗を吸収する機能をもった生地を採用しているため滑らかな着け心地だ。
それにとても軽い。
着けている事を完全に忘れてしまいそうなほどの快適さだ。
だがバストラインを目で追うと、その先端はうっすらどころかこれ以上ないくらいにくっきりと凸の部分が誰の目からも簡単に識別可能となっている。
先ほどこのユニフォームを着てみたいと可乃子が言い出した時、薫がものすごい形相で怒鳴りつけたのも頷ける一品だ。
いうなればこれは実に一長一短。
樹里からしてみれば、「素敵ね」と笑顔で言いたいところではあるが、やっぱり土壇場でどうしても言うことができない、まさにそんな歯がゆい作品であった。